憧れの烏野のバレー部にやっとこさ入部できて二週間たったある日のことだった。
田中さんを呼びにきた一人の男の人が、仲良さげに菅原さんと談笑しているのが見えた。なんかどっかで見たことあるなぁ、なんて思いながら遠目でぼんやりその様子を見ていると、ふいにその男の人と目が合った。

その一瞬で今まで忘れていたお世話になったあの人を思い出して、おれはたまらず声をあげた。

「え!?え!?先輩!?」
「ん?なんだ日向?名字と知り合いか?」
「さぁ?人違いじゃないですか?」
「え!?人違い!?先輩ですよね!?すごく似てるし…」
「そりゃ似たやつなんてそこらへんにいっぱいいるんだから本人とは限らねーだろ」
「でも、声だって…」
「他人の空似だろ」
「その冷たい言い方とかもすごく似てます!」
「でもおれはお前のことなんか知らねぇよ」
「………。やっぱり先輩ですよね?」
「しつけぇぞ有田。あ」
「!、や、やっぱり!!」
「有田?日向の間違いだろ?」

菅原さんが指摘するのも無理はない。
だっておれのことを有田って言う人はこの世のどこ探しても先輩しかいない。そこに間違いがないことを知っているのはおれと先輩だけだからだ。

なんで先輩が烏野にいるのかとか、また一緒にバレーしてくれるのかとか、聞きたいことはたくさんあったのに、おれが先輩を引き止める前にじゃ、と片手をあげて体育館から出て行ってしまった。
その背中を名残惜しげに見送っていたおれに、菅原さんがもう一度知り合いか?と聞いてきた。知り合いなんて、そんな軽い言葉で表せる関係じゃなかったって思ってるのは、きっとおれだけだ。

「はい。中学の先輩なんです。知ってると思いますがおれ、中学じゃまともにバレー部として活動できていなくて…中三になってようやく後輩ができたからあの最後の大会へ出ることができたんですけど…。それまでおれの練習相手になってくれていたのがあの先輩なんです」
「え?名字が?あいつバレーできんの?」
「はい!うまいです!」
「へー!初耳!田中とか縁下と仲良い繋がりでよくここに来るから喋るようになったんだけどさ、あいつ部活入ってないからてっきりそういうのと無縁だと思ってた」
「え?部活入ってないんですか?」
「うん。帰宅部らしい。まぁいろいろ理由はあるみたいだけど…」
「そう、ですか…」

先輩がいなくなった扉のほうをじっと見ていると、菅原さんが行ってきたら?と言ってくれた。まだそんなに遠くへは行ってないと思うから、と言葉を最後に、おれはただ頷いて一目散に走りだした。

体育館から校舎へと続く渡り廊下を抜けて、まずは昇降口!と足を進めようとしたら、背中に有田!と声がかかる。体全体に急ブレーキをかけておそるおそる後ろを振り返ると、扉近くの壁にもたれて腕を組みこっちを睨んでいる先輩がいた。こ、怖い。

「ったく。絶対来ると思った。部活さぼってまで来んじゃねーよ」
「でも菅原さんが行っていいって…」
「もー!スガくん!」
「せ、先輩っ!ほんとのほんとに先輩…、ですか?」
「………、さっきまでの威勢はどうしたよ。まぁいいや。ちょっとついてこい」

そう言って近くの階段をのぼりはじめた先輩の後を慌てて追いかけるおれを、一度だけ振り返って見たと思えば何も言わずにのぼる足を速めた。
相変わらず先輩は上履きのかかとを踏んで履いていた。なんだかその後ろ姿がすごく懐かしく感じた。
中学のときもかっこよかったけど、一年経って更にかっこよくなっていた。絶対女子にモテてると思う。そして田中さんが悔しがってる姿が目に浮かぶ。
先輩の学ラン姿をまた見れるなんて思いもしなかった。しかもそれが同じ高校の制服ということに言いようのない気持ちになった。

「先輩、なんで烏野にいるんですか?」
「いちゃ悪ィか」
「そ、そうじゃなくて…家から遠いですよね?」
「引っ越したから前よりかは近い」
「え!引っ越したんですか!でも表札変わってませんけど!?」
「見てんじゃねぇよキメェ」
「いやだって帰り道絶対前通るし!」
「おれだけ引っ越したの」
「一人暮らしですか!?すげぇ!」
「ちげぇし」
「え?違うんですか?」
「っつかお前さ、その頭でよくここに入れたな」
「そ、それは!頑張って勉強しましたから!」
「ふーん…」
「そういえば先輩はどうしてここ選んだんですか?あ!もしかしておれが烏野目指してるの知ってて受けたんですか!?とか言ってみたり…」
「………、そうだっつったら…、どうすんの?」
「え」

誰もいない放課後の校舎、階段の踊り場で思わず立ち止まったおれを、階段を登り切った場所から先輩が静かに見下ろしていた。

中学のとき、練習に付き合ってくれた先輩におれはずっと烏野の小さな巨人の話をしていた。バカすぎるおれの学力じゃ無理だなって笑った先輩に、烏野に入るために猛勉強するって息巻いたこともあった。
そうやっておれが烏野のことをずっと話してきたから、もしかしたら先輩も烏野に興味を持ってくれて、しかも一年後にはおれという後輩が入ってくるって思ったから先輩も烏野を受けたんじゃないかって。そんな考えが浮かんでは消えて、浮かんでは消えてってしてたけど、思い切ってそれを口に出したら予想もしなかった返答が先輩から発せられた。

いまだにじっとおれを振り返って見つめる先輩の視線から、1ミリも逸らすことができない。
目が乾きそうだ。おれ知ってる。そういうのドライアイって言うんだ。

「先輩…!もし!もしそれが本当なら、おれ…!めちゃくちゃ喜んでいいですか!?」
「声でか。うるさ」
「先輩!本当ですか!?」
「さぁな。その弱い頭で考えろ」
「なら!なら!先輩バレー部入りましょうよ!」
「え?お前おれの話聞いてた?キャッチボールできてなさすぎて怖いんだけど」
「野球じゃなくて!バレーしましょうよ!ね!?」
「ヤダこいつ、マジ怖い。ガクブルなんだけど」
「先輩バレーうまいんだから!やらなきゃ損ですよ!」
「なにその買わなきゃ損みたいな言い方。やっぱお前営業セールスマン向いてるわ」
「先輩ィィィィイイ!バレーしましょぉぉぉおよぉぉぉおお!」
「無理。おれバイトしてるから。部活やってる時間ない」
「え!バイト!?なんで!?」
「お前が知らないだけで色々あんだよ」
「っ………、な、なんですかそれ!おれが知らないのは、何も言わない先輩の所為じゃないですか!なんでそれをおれの所為みたいに言うんですか!」
「はぁ?なに勝手にキレてんだよめんどくせぇ」
「おれは知りたいです。先輩のことがもっと知りたい。だから、そんなこと言う前におれに教えてください。どんな些細なことでも、先輩のことが知れるならなんだっていい!」
「………なんでそんなに知りたがるわけ?お前に関係ねーだろ」

心底呆れた目で返されて、おれはその理由を話してもいいのだろうかと考える。だってこれは、先輩にとってあまり掘り返されたくないものだと思う。
それでも、目の前に先輩がいて、またこうしておれと向き合ってくれるなら、今言いたいこと全部ぶちまけようと思った。

「おれ、もう先輩のことで後悔したくないんです」
「は?なにそれ」
「おれが先輩に初めて会ったとき、おれは先輩の噂のことなんか知らなくて、だから先輩がわざとおれを遠ざけてもすぐに距離をつめることができた」
「!」
「でもたまたま友達が話してる内容を聞いちゃって…初めて先輩の噂の存在を知って、先生たちがこそこそと話してる会話も聞こえるようになって、先輩との接し方がわからなくなった。だから線を引いた。先輩もそれがわかったから、必要以上におれに関わること避けたんでしょ?」
「………」
「先輩の家が怖い人たちのところだってわかっても先輩が怖いわけじゃなかったのに。周りの噂に踊らされて、自分の気持ちも流されて、そんな自分が嫌になった。そうやってうだうだ悩んでる間に先輩は卒業しちゃって。心のどこかにぽっかりと穴が開いて、それがなかなか埋まらなくて、吸った空気が抜けていく感覚が気持ち悪くて、それに慣れた気でいたけど…」
「………」
「今、少しずつそれが埋まっていくのがわかる。やっぱりおれ、昔みたいに先輩に関わっていたい。知らないことを知りたい。もう線を引いたりしない。先輩を一人ぼっちにさせたりしないから、またおれと一緒にいてほしい!」
「………」

全部言い終わってようやく、おれはいつになく感情的になっていたのがわかった。
伝えたい一心でやけに熱くなって、拒否られることを想像して怖くなって、心臓がバクバクと動いている。

階段の踊り場にある窓から差し込んでくる夕日が、先輩のすすき色の髪を照らしていた。窓の外で風になびく木の枝が、葉っぱが、陰になって先輩に降り注いでいた。

いつもならすぐに飛んでくるおれを貶す言葉が聞こえない。何かを噛み締めるような沈黙に、今にも泣きそうな顔が見えるのは見間違いだろうか?
こんな大人しい先輩初めて見る。すっごいレアだ。やばい。そんな先輩を一秒でも長く見ていたくて、おれは忘れないように記憶に刻んでいた。

しばらくして、先輩が一度深呼吸をした。そして独り言のようにポツポツと言葉を紡ぎ出した。
気を抜いたら聞き逃しそうな声を全部拾いたくて、咄嗟に三段、先輩に近づいた。先輩はもう逃げなかった。
近くなった距離に先輩の鼻筋の通った整った顔がおれの視界を埋めるように映し出す。

「噂の通り、おれの家は普通じゃない。どう普通じゃないのかを知っている大人たちはみんな、ビクビクしながらおれを腫物を扱うかのように接してくる。おれの機嫌をうかがってる。そんな周りや環境が嫌で家に帰らなくなった。行き場のない気持ちを喧嘩で発散させることで解消していたけど、それは全くの逆効果だって早々に理解したけど、気づいたときにはもう遅かった。噂が現実味を増して結局は事実になった。お前が聞いたのもその内の一つだろうな。別に避けられたことに対して怒ったりしてねーよ。当然の反応だしな。まぁ、ほんの少しだけ悲しくはなったけどよ」
「………先輩」
「こんなこと言うとお前、絶対調子に乗るから言いたくねーんだけどよ…おれは結構感謝してたんだ。お前の存在に。お前が知らないだけで、おれは何回もお前に救われてる」
「………、えっ?」
「どんなに些細なことでもお前に必要とされて嬉しかったんだ。喧嘩以外で気持ちを楽にするができたり、なんでもないことを話せたり…。夢を抱くことがどれほどカッコよくて強いことか、全部お前が教えてくれた気がする」
「えっ!えっ!?」
「烏野に入るために周りの反対押し切ってまで自分の意思を貫いたんだ。その条件として、今居候させてもらってる家の手伝いと学校での成績、自分の金は自分で稼ぐってことを実行してんだ。だから、誘ってくれるのは嬉しいが、悪い。部活はできねーんだ」
「…そう、だったんですか…」

初めて先輩の口から先輩のことを聞くことができた。
おれが何も考えずにバレーの話ばっかりしている間、先輩はいろんなことを考えていろんな人の視線に悩んで過ごしていたんだと思うと、やるせない気持ちでいっぱいになった。
抱いていた罪悪感もあったけれど、助けられてばかりだと思っていたけれど、おれも先輩のことを助けていた。おれの存在に救われたって言ってくれた言葉に嘘がないなら、こんなに嬉しいことはない。
事情があって部活ができないことは本音を言うとちょっと寂しい。でもそこはおれが飲み込まなきゃいけない。これ以上おれが先輩を困らせたらだめだ。

「だけどまぁ、部活外の練習とか…そういうのなら…うん、付き合ってやらんこともない」
「え!」
「言っとくけど”たまに”だぞ?毎回毎回バカ犬みたいにバレーしましょうとか喚いたら即やめるからな」
「まっ、マジですかっ!?それ!嘘じゃないですよねっ!?」
「さてね。自分で考えろ」
「お、おれ!都合のいいように考えちゃいますよ!?いいんですか!?」
「…好きにしろ」
「!!」

冷たく突き放すような言葉だけれど、それを言ってる先輩の顔はなんだか嬉しそうに見えた。
そういうおれだって、いつになく嬉しくてニヤけそうになるのが止められない。

「満足したならもう行けよ。部活の途中だろ?」
「じゃあ先輩も一緒に行きましょ!」
「は?なんでだよ。おれもう田中に用ないし」
「田中さんじゃなくて!おれとバレーしましょうよ!」
「話聞いてた?部活外の練習でって言ったよな?」
「でも先輩今暇そうにしてるし。バイトもなさそうだし」
「ちょー忙しい。マッハで家に帰んなきゃだし」
「え?でも全然忙しそうに見えないですけど…?」
「大人の余裕ってもんだ」
「先輩高校生ですよ?まだ二十歳にもなってないのに大人って!ぶへっ!?」

先輩のあーだこーだ言う言い訳にいちいち突っ込んでいたら突然のビンタをかまされた。
距離を詰めて近くにいたから当然先輩の攻撃範囲内にいるわけで。ものすごく痛い!そして目の前に最高にイラついてる先輩の顔があって心底ヤバい。

「ちょ、調子乗ってすんませんっしたぁ!」
「おう」
「部活戻りますっ!」
「おう」

くるり、と向きを変えて先輩の機嫌が更に悪くなる前に体育館へ戻るおれの背中に、小さく声がふってきた。

「またな、翔陽」

リズムよく階段を降りていた足を止めて、思わず振り向いた先には誰もいない。先輩が遠ざかっていく足跡だけが聞こえてくる。
心臓が早くなって、今すぐにでも追いかけたくなって、でも行ったら絶対怒られるだろうから行けなくて。

「先輩ッ!おれッ!頑張りますッ!!」

先輩が遠くに行ってしまっても聞こえるくらいの声を腹から出した。
返事はなくてもいい。ちゃんと先輩の耳に届いているなら、それでかまわない。

しん、と静寂が包む校舎内に「うっせーボケナス」と先輩の声が聞こえた気がした。





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