なんやかんや色々あってもう三日もまともに飯を食っていない。ついでに風呂にも入れてねぇ。
何か少しでも食い物か金が落ちてねぇかさまよった挙句、新宿近くまで来ていたことに気づき、適当に切り上げればよかったと後悔した時だった。
ふわりと鼻先をくすぐる出汁の匂い。
この場所は新宿御苑の近くではあるが地区としてはまだ渋谷区だ。
なんとなくあたりを見渡すが、廃ビルや空きテナントが並ぶ殺伐としたビル街になんとも似つかわしくない匂いが漂ってくる。
すきっ腹にこの匂いは毒だ、と思いながらも匂いの出所へ誘われるようにフラフラと歩き出す。
ビルとビルの間の路地を行き、突き当りを左に曲がって進み、更に突き当りを右に行くとさっきまで歩いていたビル街の裏手に出てきた。
あまり足を踏み入れることのない場所だからか、新宿が近いからか、渋谷の喧騒からは断絶されたような静かな空間が広がっていた。
何も考えずに歩いてきてみたものの、本当にこの道で正しかったのだろうか。
たいして残ってなかった体力を無駄にしちまったかも、とげんなりした時、ふと一件の長屋が目に入った。
ビルとビルに挟まれたその建物は木造作りの純和風の長屋だったため、そこだけ別世界のような雰囲気を醸し出していた。
人気のない路地裏、人気のないビル街に、唯一人のぬくもりがある気がした。
そこでまた風にのってやってくる出汁の匂い。

「(もしかしなくてもこの長屋からなんじゃ…)」

興味本位で長屋に近づくと強くなる出汁の匂い。
それにともない虚無感で蓋をしていた空腹感がうごめきだした。

飲食店だったらいいのにな、と一縷の期待を胸に木の格子で作られた引き戸の前に立つが、すりガラスのため中の様子は何も見えない。電気すらついておらず暗い空間だけがぼんやりと透けていた。
ふと下に目線を落とせばプランターに植えられたであろうオクラ?みたいなものが5つほど連なっていた。

「(これ…食えっかな…)」

思わずしゃがんでプランターの植物をじっとみる。

「オクラなら食材だし最悪生でも食えんだろ」

無意識にプランターの植物へ手が伸び、オクラに触れようとしたときだった。
目の前にあった引き戸が勢いよく開き、驚きのあまり「ひょわっ!?」と情けない声が出た。
誰かが仁王立ちしている。恐る恐る足元から視線を上へもっていくと、そこには俺と同じくらいの年の女が立っており無表情で俺を見下ろしていた。
女の後ろに広がる景色は、自然光のみで照らされた室内ではあったがカウンター席とその奥に厨房が見えた。
戸が開いたことにより空気の流れができたのか、先ほどより強く出汁の匂いが襲い掛かってくる。
やはりあの匂いの発信源はここだったのだ。
そう理解した瞬間、ぎゅるるるるると盛大に俺の腹が鳴った。

「〜〜〜〜ッ!!!」

気恥ずかしさで思わず顔を背ける俺に、女は何事もなかったかのように第一声を発した。

「それ、オクラとちゃうから。チョウセンアサガオって言ってな、葉っぱ、茎、花、根っこ、どこ触っても毒あるから触ったらあかんで」
「オクラじゃねぇの!?っていうか毒あんのか…あっぶねぇ…」
「蕾がオクラと似てるから間違えて食べて食中毒起こした事例もあるから気ぃつけや」
「へぇ〜…」

第一声がそれかとか、耳馴染みのない関西弁だとか、オクラじゃなかったのかとか、毒があるってこととか情報量の多さに忘れていたが俺は今猛烈に腹が減ってる。
さっきから漂ってくる出汁の匂いで腹はずっとぎゅるぎゅる鳴りっぱなしだ。
そんな俺の様子をまたしても黙って見下ろす女は唐突に踵を返し厨房のほうへ戻っていった。
開け放たれた引き戸は閉じられることなく、女が目前からいなくなったことで中の全体が見渡すことができた。
看板も暖簾もないが恐らく飲食店なのだろう。リズムよく何かを包丁で切っている音が聞こえてくる。

「いつまでもそんなとこでボサっとしてんと。入ってきたら?」

視線はまな板へ向けながら、俺に向けて投げかけてきた言葉に一瞬理解するのが遅れたが、どうやら招き入れてくれるようだ。
初対面ではあるが今はその言葉に甘えようとしゃがんでいた場所から一歩店の中へ入った。
どこからともなく風が通り抜けて、土間だからかどこかひんやりとした空気が流れている。
部屋の中いっぱいに広がる出汁の匂いを逃がすのがもったいなくて、思わずピシャリと引き戸を閉めた。
女が立つ厨房の前にカウンターが5席、その後ろには座敷の個室。俺が立つ場所の左側には二人掛けのテーブル席が2セット縦に並んでいた。
物珍しそうに棒立ちしながら店内をキョロキョロする俺にチラリと視線を向けた女は「あんた…」と次の言葉を濁す。
これでも渋谷区代表としてバトルをしているからか顔と名前の知名度があることくらいは知っている。
次にくる言葉がどれなのか勝手に予想していた。一飯の恩でサインなら書いてやらねぇこともない。

「ちょっと汚すぎるわ」
「は」
「さすがにヤバイからご飯できるまでの間風呂でも入ってきたら?」
「え!?飯食わしてくれんの!?」
「あんな盛大にアピっといて何を今更。たかりに来たんとちゃうの?」
「たまたまだわ!こんなとこ来るのも初めてだし店があるのも初めて知ったっつーの!」
「まぁなんでもええけど。ご飯炊けるのにまだ時間かかるから風呂行っといで」
「あのなぁ…風呂に入る金があったら飯買ってるっての…」
「何言うてんの。この奥に風呂あるからそこ入れって言ってんの」
「言ってねぇだろ!初耳だわ!」

入り口を入ってすぐの右奥、紺色の暖簾がかかった先に風呂があるのだそう。
この女マジ意味わかんねー!
何さも当たり前で周知の事実のように喋ってんだよ!
飲食店に風呂があるって思わねーだろ普通!
と、女の言葉に憤慨していると呆れた様子で作業の手を止めて「ついて来ぃ」と一言残し暖簾の奥へ歩いて行った。
しぶしぶ女のあとを追いかけるように暖簾をくぐると土間でつながった食材置き場が広がっていた。
米や野菜、調味料や料理器具などが棚や床に無造作に置かれている。
女がつっかけを脱ぎ一段あがったところは木目の床が広がっており壁には二階へ続く階段があった。長屋らしい狭くて急な階段だ。
その階段の前を通りすぎ引き戸を開けると中へ入っていく。
それにならって俺も同じ道筋をたどっていくとこじんまりとした洗面台、ドラム式洗濯機が置かれた脱衣所が広がっていた。
人一人分ほどの狭い廊下の奥、右側の引き戸に沿うように置かれた珪藻土マットをみて、そこが風呂場への入り口なんだと理解した。
が、引き戸を開けた先に広がった景色はこの狭い脱衣所からは想像できないような広い浴室だった。
一般的な家庭でよく見る浴槽ではなく、檜風呂のように木で作られた浴槽がかなり広い。洗い場は一人分の狭さではあるがなんし浴槽がヤバイくらい広い。
俺が足を思いっきり延ばしても肩まで浸かれるくらいなんじゃねぇかと思う。贅沢すぎる。

「なっなんじゃこりゃ!」
「風呂にはちょっとこだわりがあんねん」
「こだわり以前の問題じゃね!?」
「この容器がボディソープな。ほんでこれとこれがシャンプーとリンス。量は気にせずなんぼでも使ってくれてええから」
「(こいつマジで人の話聞かねーやつだな…)」
「あと着てるもん全部このドラムん中突っ込んで。もちろん下着も」
「はぁ!?」
「いや当たり前やん。綺麗になった体に汚いもん着るとかないわ」
「いや!でも着替え!」
「浴衣出しとくから。浴衣やったら別にノーパンでもええやろ」
「よっ、よくねぇよ!!」
「ええから言う通りしぃ。飯食わさんで」
「言う通りにしますッ!!」

初対面で普通ここまでするか?という疑問もあったが飯にありつけるのであれば言うことを聞くほかない。
しかも風呂まで入らせてくれるというんだから願ったりかなったりだ。
現金な俺の様子に女は満足そうに笑った。
ここに来て初めて女が笑った顔を見た。
パッチリとした二重と薄い唇が緩い弧を描いた。

そこでようやく女の容姿に目が行く。
無造作に高い位置で結ってる深緑の髪に、俺の鎖骨より下にある頭。
半袖からスラリと伸びる手は女らしい軟っこそうな白さだった。
ふと目がいった胸元もまぁそこそこでかい。
俺の視線に気づいたのか一瞬で笑顔を引っ込めてジト目で見つめ返してくる。
やべっとなった俺は慌てて女を脱衣所から追い出し風呂に入る準備を進めた。
コートを脱ぎ上の服を脱ぎ、ズボンのチャックに手を置いたとき「せや」と言いながら無遠慮に引き戸を開けた女に俺はビシッと固まった。

「体も頭も2〜3回洗ってから湯舟浸かってな」
「お前っ!マジで信じらんねぇ!普通開けるか!?外からでいいだろ!」
「やってホンマに臭いんやもん。生ゴミといい勝負やで?」
「ンなこたぁ俺が一番よくわかってんだよ!」
「わかってんねやったらええんやけど…」
「早く閉めろ変態!」
「ハッ…初対面のクソガキに誰が欲情するかいな」
「浴場だけに?」

まったくもって失礼な女につい思ったことを口に出したらピタ、と動きが止まった。

「(やべ。関西人は笑いにウルセーからな…クソおもんなとか言われんだろうな…っていうか早くソコ閉めてくんねーかな)」
「あははッ!はははははッ!!」

何がツボったのか予想外にも腹を抱えながら大口を開けて爆笑した女にやっぱ意味わからん奴すぎて怖ぇと思ったのは内緒だ。
目尻に涙を浮かべながら「あーおもろ〜」と言って満足したのかやっと戸を閉めてくれた。
っていうかクソガキって言われたけどお前も俺とそんな年変わんねーだろうがと思っていたが風呂上りに年齢を聞くと9歳も年上で絶句したのは言うまでもない。



「よー!若葉!飯食いに来てやったぞー!」

意気揚々と長屋の引き戸を開ける。
俺が行くことを事前に知らせていたからか、いつものように厨房に立ち作業していた店主は手を止めて顔を上げた。

「たかりにきたの間違いやろ?」
「違ぇ!あやかりにきたんだ!」
「何が違うん」

呆れながらも小さく笑いながら作業に戻る店主の姿を視界に収め、定位置であるカウンターに腰をかける。
店主の姿を目で追いながらとりあえず今日あったことから順番に話していく。
時折ツッコミを入れながら相槌を入れて聞いてくれるだけで、まだ飯は食ってないのになんだか少し早くも満たされていたら…。

「名前さーん、今日もよろしくお願いしま…って!え!?シブヤの!?」
「お前…えーっと…確かブクロの………、えっ!?」
「あぁ、おはよぉ一郎くん」
「あ、はい…おはよう、ございます…」

突然の来訪者であるバスターブロスの山田一郎がカウンターに座る俺を見つけて凄まじく驚いた顔をしていた。
かくいう俺も同じ顔をしていたんだと思う。
店主と挨拶を交わしテーブル席の上に荷物と上着を置いて暖簾の奥へ入っていく。
まさかアイツも風呂!?と思っていたら黒いエプロンをつけてすぐに戻ってきた。
そうしてしれっと厨房にいる店主の横に立つと微妙な顔をしながら蛇口を捻り手を洗い出す。
その一連の動きを疑問に思っていると、馴れ馴れしく店主に話かける。

「名前さん。なんでこいつがここにいるんですか?」
「ほら前に言わんかった?薄汚い野良猫介抱したって」
「あぁ、あれってこいつのことだったんスね…」
「薄汚ねぇ野良猫ォ!?!?!?」
「名前さん人が良すぎますよ。もっと用心してくださいね?お前も名前さんが優しいからってあんま迷惑かけんなよクソギャンブラー」
「あ゙あ゙!?てめぇ誰目線だコラ!っていうか名前じゃねぇし!若葉だしな!!」
「は?」

ブクロの野郎が口にする聞きなれない名前にイラ立ちを感じ訂正するも、心底意味がわからないと言った様子で顔を歪める。
その様子を聞いていたのか声を押し殺しながら笑う店主を見て、口では笑ってんじゃねぇ!と怒りはするが内心笑顔が見れたので良しとする。

「あのなぁ…言っとくけど若葉って名前は名前さんの偽名の一つだからな」

呆れを含ませてそう言い捨てると「米とってきます」と暖簾の奥へ消えていった。
ブクロの野郎がいなくなったところでポカンとした俺はハッとなって店主を見る。
俺の視線に気づいたのか目を合わせるとまた小さく笑った。

「え?今のマジ?」
「マジマジ」
「はぁ〜〜〜〜〜〜!?もうお前ホント意味わかんねぇ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「ふふっ」
「ふふっ、じゃねぇよ!俺に偽名使う必要ある!?そんな信用ねぇの!?」
「これはまぁ一種のお遊びやから」
「お遊び!?俺もう若葉って呼び出してから結構経つけど!?」
「安心しろ。俺も最初やられてっから」
「せやった?」
「そうだよ。あん時双葉って名乗ってた」
「よぉ覚えてんなぁ〜えらいえらい」
「いやそんな雑に褒められても。それに忘れるほうが無理」

騙した本人はあっけらかんと笑うだけで終わり。
かくいう俺は飯と風呂と宿の提供をしてくれるこの店主に頭があがらないでいるし、こんなクズにも優しくしてくれるからそれはもう信頼していたのだ。
それがどうだ。偽名?なんのために?築いていた信頼にピシっとヒビが入ったのがわかった。
幻太郎につかれる嘘より、店主につかれる嘘のほうが気持ち的にこたえるものがあった。
むくれっつらになった俺の顔を見て困ったように笑うが別に謝りはしない。
つまり悪いと思ってないのだ。店主の中で所詮俺はそういう扱いなんだと理解した。

「いっちょまえに何スネてんだよ。お前だけやられたワケじゃねーって言っただろ」
「じゃあ今の名前って名前が嘘じゃねぇって証拠あんのかよ」
「………、それは…」

俺の言い分が正しいと思ったのか、こいつもこいつで思っていたことがあったのか、様子をうかがうように店主のほうを見やる。
そんな俺たちの様子など微塵も気にしていない店主はお玉で味見をしてヨシ、と頷いていた。

「それにしてもちょっと意外やったわ」
「え?何がです?」
「そんなん気にするタイプやったんやね?」
「………」

ツーンと無視するとブクロの野郎が「ガキか…」と憐れんでくる。
お前のほうがガキのくせして何言ってやがる。

「わたしはどっちかっていうとホンマに大事なもんって誰にも見つからへんところに隠しておきたい性質(たち)なんよ」
「それとこれとどう繋がるってんだよ」
「その言葉に乗せた響きやったり、その響きを聞いた情景やったり、芋づる方式にいろんな感情がブワーって来るときってあるやん?そのブワーってくる思い出には他人の手垢をつけてほしくなくてな〜誰にも暴かれんところに隠しておきたいんよ」
「…つまり、名前さんにとって名前で呼ばれるのって迷惑ですか?」
「ぜ〜んぜん!」
「「へっ?」」
「むしろもっと呼んでほしい。できたら背高くてオールバックで眼鏡かけてて緊張しいでせやけど芯は暑苦しくて一見美人やけど好物が子供っぽい先生みたいな人が言う感じで言ってほしいかも」
「いや注文多いな!?」
「具体的すぎねぇ?絶対モデルいるじゃん」
「せやからな、だいちゃんにも名前って呼んでほしいな〜って思うようになったからネタばらししたってことやねん」






その店はやや渋谷区寄りではあるが新宿と渋谷の間にある純和風のこじんまりとしたお店だ。
少し歩いた先に新宿御苑もあるため店の二階の座敷からは御苑の木々が見える。
が、観光客はまず来ない。なぜなら入り組んだ場所にあるため知ってる者しか訪れず、基本的には完全予約制で夜のみ不定期で営業しているため一般人は来ない。むしろ来ても入れないのだ。
どういうわけか今時のネット社会における口コミすら広まっておらず、まさに秘境の店ともいえよう。
評判がいいのにも関わらず口コミが広がらない理由としては行った人が自分だけの秘密にしたくなるようなお店であることもその要因の一つだが、最大の理由として利用客がただの一般人ではないからだ。
業界や政界、その他諸々の重鎮たちが秘密裏に使う場所として重宝されているのだ。
お店の入り口は人通りも少なく、それでていて喧騒から離れた場所にあり密談をするにはうってつけの場所なのだ。
そのうえ提供される料理と酒が美味いとくれば継続して使わない手はないのであった。
毎日開店させてあくせく働かなくても一度の予約で経営していけるほどの売り上げががっぽり入ってくる。
その現状を店主である女は「楽できてラッキー」としか思っておらずなんとも軽い。
弱冠29歳にしてその地位に上り詰めることができた手腕はまごうことなき凄いことなのだが、いかんせん軽すぎるのだ。
実力と現状の上に胡坐をかいていると指摘されればぐうの音も出ないほどに、だ。

「だいちゃんお腹すいたやろ?何食べたい?」

そんな各ジャンルの大御所たちしか来店しない敷居の高すぎるお店であるにも関わらず、今店主に呼ばれた青年は1階の座敷で大の字になって寝転んでいるのであった。
その座敷では先日、警視総監が同僚を招いて酒盛りしていた場所でもあった。

「んー…なんでもいい…」

そんな場所と知ってか知らずか、いや、店主に聞いて知っている上で特になんとも思っていないのだろう。青年は気の抜けた返事をしていた。
それもそのはず、そよそよと流れ込んでくる風にのって鼻先をくすぐる畳の匂い。
真昼間であるにも関わらず立地的に日当たりが悪く陰っているこの場所はクーラーをかけなくてもどこかひんやりとしていた。
妙にまったりとした時間が流れているためか、はたまた腹が減りすぎて力が出ないだけなのか、青年もとい有栖川帝統は天井に描かれた鳳凰をぼんやりと眺めてだらだらしているのであった。

「それが一番困るんやけどなぁ。まぁだいちゃんなんでも食べてくれるからあるもんで適当にしよかぁ」

そんな彼の様子をもう見慣れた光景とでもいうのか、それとも店主自体さほど気にしない性格なのか、気の抜けた返事に言及することもなく会話を続けていた。

店主が作るご飯にはハズレがない。
名前が決まってる料理を出すこともあれば、名前のない創作料理を出してくることもある。
そこはくさっても料理人。お店をここまで敷居の高いものにした腕は嘘ではなく、歴とした実力と努力が伴っているのだ。

そんな店主とは打って変わり、彼には定住する家も職も収入もなく、その日暮らしで日々を過ごす根っからのギャンブラーなのだ。
どういう縁があってこうなったのかは追々明かすとして、彼がこの店に来るにはある一つのルールがあった。
店主と初めて会った後に取り付けられたそのルールはギャンブル好きの彼にとっては賭けに近いものであったため今も律儀に守られている。

『ゾロ目が二個揃った時にだけおいで』

サイコロを振り、ゾロ目が二個揃った時だけ店主に連絡し賽の目の写真を撮る。
そうして来店時にその写真の詳細を見せてちゃんとその日に撮られたものであるかを確認できたらご飯と宿にありつけるというものだった。
ただそのルールにはイレギュラーが存在する。
それは店主のほうから連絡があった時だけその限りではないということだ。

今回は、彼の運が勝ち取った訪問だった。

「この間だいちゃんが来たときに出したやつあるやん?」
「この間?それってたしか1か月くらい前だよな?」
「は?そんなマジレスいらんねん」
「………」
「あんとき適当に作って出したやつな、結構イケてたやろ?せやからちょっと前にコースで出してみたんやけどコレがまぁウケてなぁ〜!」
「へぇ〜…」
「お得意さんの口にも合うたみたいでな、定番化しよかなーって思てんけどあかんわ。作るのめっちゃめんどくさい。コースに向かんし何より時間かかってしゃーないから諦めてん」
「ふ〜ん…」
「創作料理考えんのも楽ちゃうわ〜〜〜。あ、嘘やん。大葉切らしてたわ。え〜〜〜使お思て進めてたのに〜〜〜。あると思たらあらへんのかいっ!」
「………」

よく喋る店主である。
話相手のテンションを置き去りにし、最後には存在さえも必要としなくなった。
彼に話をふっているかと思いきや最後は独り言になっているそのテンポに、彼は慣れているのか小さくため息をついた。

普段の接客姿からは180度違う店主の姿に最初は大いに戸惑いをみせた彼だったが、なんだかんだ今の店主の姿を気に入っている彼は何も言わないのであった。

「だいちゃん暇してんねやったらお風呂入ってきたら?」
「え?いいのか?」
「ええよ〜。こっちもゆっくり作りたいし。なんやったら今着てる服も洗ってしまい。洗剤のある場所と使い方はこの間教えたからもうわかるやんな?」
「じゃあ乾燥フルコースで。あ。でも着替え…」
「浴衣出しといたるわ」
「浴衣ぁ〜?」
「ほら、よく旅館とかに置いてる洗えるやつ。浴衣はサイズ気にしゃんでええからだいちゃんみたいに体格良い人には丁度いいんよ」

丁度食欲をそそるような出汁の良い匂いがあたりを充満し、空腹時には堪えるな、と思っていたところだったのだろう。
店主からの有難い申し出に勢いよく体を起こし、ご飯が出来上がるのを待っている間の時間つぶしを手に入れた彼はいそいそと準備を始めていた。
以前にはなかった着替えとしての浴衣が追加された旨を知り、彼の脳内には浴衣が似合うであろうチームメイトの一人がふと頭によぎったのであった。

「ほ〜ん。ま、着れたらなんでもいいわ」
「ノーパンでも着れるから安心しぃ。ちゃんと下着も一緒に洗うねんで?」
「おっ!まえ!なぁっ!いちいちンなこと言わなくてもやるっつーの!」
「ハァ〜〜〜出汁のええ匂いやな〜〜〜最アンド高やん〜〜〜」
「…〜ッ!こいつのこういうとこすげぇ嫌…」

仮にも女性である店主には恥じらいがないのか、まるで弟を世話するような口ぶりに恥ずかしさを覚えたほうが負けなのだ。
ここはもうさっさと風呂場に逃げたほうが良いと踏んだのか、厨房の更に奥へつながる土間をドスドスと足音を立てながら進んでいく彼の様子を横目で見送っていた店主は「かわえー」と一言こぼしていた。
完全にからかっている。
運悪くその一言を彼の耳が拾ってしまい、さらにうなだれるのであった。
腹いせに浴室に置いてある高級ボディソープをふんだんに使ってやろうと決めた瞬間でもあった。

この店は飲食店ではあるが店主の第二の家でもあるため、客が入ることのない厨房の奥と二階の座敷の奥の間が住居スペースになっているのだ。
必要最低限ではあるが何故か風呂にはやたらとこだわっており脱衣所より広い浴室が広がっており、なおかつ浴槽が木でできているのだ。温泉でよく見るヒノキ風呂に近い作りである。
体格の良い彼が足を思いっきり足を延ばしても当たることなく湯舟につかれるのだ。気に入らないはずがない。
彼にしてみれば二日ぶりのお風呂であったわけで、湯舟に浸かることも1か月ぶりだったものだから思っていた以上にゆっくりしすぎたようで、店主がご飯ができたことを知らせにくるまで堪能していたようだった。

「えらい気持ちよさそうに入ってたなぁ?でも長風呂するんやったら水分ちゃんと持って行かんと!ちょっと逆上せてんのとちゃう?顔赤なってんで」

カウンターでぐでっとなった彼を見て配膳しながら心配そうに見ていた店主は、彼の背中から顔を覗き込みおでこに自分の手を滑り込ませた。

「ひっ!?」
「ほら〜〜〜めっちゃ熱いやん!ゆでだこやわ。これで冷やしとき!」

さっきまで水仕事をしていたのかひんやりとしたものが額に触れて変な声が出た彼を特に気に留めることもなく、冷蔵庫の奥から出してきた瓶ビールを彼の頬へ押し当てるように突き出した。
たった一瞬ではあったが自分の体に女性の手が触れた、という事実に童貞のような反応をしてしまった自分に対し更に恥ずかしさで体温が上昇する。
が、そんな感情もつかの間。目の前に並べられた美味しそうなご飯を見て今は色気より食い気が優先されたのだ。
ほかほかと湯気が立ち、白いお米が光り輝いている。
本当に久しぶりにありつけるまともなご飯に、思わず絶句するかのように視線はご飯へ一直線だった。

「いっ!いただきまっす!!」
「はいどうぞ〜」

かぶりつくように勢いよくご飯をかきこむ彼の様子に呆れたように笑った店主だったが、その気持ちのいい食べっぷりに作り甲斐を感じていた。

「?、お前は食べないのか?」
「ん?あぁ、ちょっとこっちのやることやってから食べるから気にしゃんといて〜」
「ふ〜ん…」
「おかわりいる?ついでこよか?」
「ん」

差し出された空っぽのお茶碗を満足そうに笑って受け取った店主を見て、また先ほどの気恥ずかしさが舞い戻ってきた。

「おかず足りる?」
「ちょっと足りねぇかも」
「んじゃ追加でなんか作ろかな」
「か、簡単なヤツでいい!」
「え〜?例えば〜?」
「………卵焼きとか?」
「はははっ!」
「なんで笑うんだよ!」
「いやそれ絶対目玉焼きのほうが簡単やねんけど!」
「じゃあそれでいいって!」
「まぁ別に?名前さんにかかれば卵焼きも簡単にできちゃうんやけどな〜?」

楽し気に笑いながら卵を冷蔵庫へ取りに行く店主の背中に小さく舌打ちをする。
何気なくリクエストしたメニューではあったが、そこには彼なりに店主の負担を減らそうとした気遣いが含まれていたのだが、それを笑いで打ち消されてしまった。
卵焼きを作っているであろう音と店主の鼻歌をBGMに止めていた手を動かし気を紛らわすようにご飯を頬張る。
そうして作られた卵焼きを持って彼の隣に店主が腰をかけると不思議そうに彼が店主を見やった。

「やることあったんじゃねぇのか?」
「ん〜。だいちゃんが一人で食べるのは寂しいって言うから一緒に食べることにしてん」
「いっ!言ってねぇだろ!」
「言ってなくても伝わったで〜?言うてももうだいちゃんほぼ食べ終わってるけどなぁ」
「いや。普通にまだ入る」
「ええ?どんだけ腹空かしてたん。あんたって子は〜」
「うめぇんだからしょうがねぇだろ」
「あらら。嬉しいこと言うてくれるやん。料理人冥利に尽きるわぁ」
「ご飯まだあるならおかわりしていいか?」
「ええよぉ〜。もう自分で食べる量注いどいで」
「そうする」
「」

ALICE+