あ、と思った時にはもう遅かった。斬りつけられるはずだったオレの前に、瞬時に飛び込んできた背中の向こうで血しぶきが舞った。
ぐらり、とそのまま倒れるかと思ったら、なんとか踏みとどまって痛恨の一撃を放った。さっき以上に血が飛んで、ずしゃりと息絶えたのは敵のほうだった。
「ナマエ!!」
「ちょっとナマエ!大丈夫!?」
モブリットさんとハンジさんが、刃を床に突き刺して体を支えている彼女へと慌ただしく駆け寄って行った。オレはその様子を見ながら、体が震えてそこから一歩も動けなかった。そんなオレの隣に静かに近づいた兵長が、険しい顔で彼女たちを見ていた。
「かはっ…!くっそ、まじ痛い…!めっちゃ痛い…!」
「ちょっと!喋らないで!モブリット!早く横に!」
両膝をついて前かがみにうつむく彼女が、ゆっくりとオレを振り返った。その瞳と、オレの視線が交わって、オレは息がひゅっと止まった。
もう聞き飽きたであろうオレの謝罪が口から飛び出す前に、忘れてた、と彼女が呟いた。
「そういえばあんた、別に斬られても死にゃあしないんじゃん…くっそ…やられ損、かよ…」
それを最後に完全に意識を飛ばした彼女は、その後三日間目覚めることはなかった。その三日がどれほど長く感じたか、彼女は知らないだろう。
もう目覚めないんじゃないかって思うと酷く怖くなって、巨人になる実験にすらまともに参加できなかった。見かねたハンジさんが兵長に言って、オレを彼女のそばに置くことを許してもらった。
浅く呼吸を繰り返す姿に、いるかどうかもわからない神に願った。お願いだから、まだ彼女を連れて行かないでくれって。そうやって彼女のそばにいる間、不思議と眠たくはならなかった。
「………、ナマエさん…」
独り言のように呟いた彼女の名前に、あろうことか酷く掠れた声で返事が聞こえた。驚いて声の発生場所を見ると、薄く開いたまぶたの奥、彼女の瞳がオレを捉えていた。
「…あのさ」
「ナマエさん…!」
「濡れたタオル、持ってきてくんない?口の中…気持ち悪ィ…」
開口一番、彼女はそう言ってまた目を閉じた。けれど眠ったわけじゃなかった。ただ部屋の眩しさに慣れず、数回瞬きを繰り返しては眉間にしわを寄せていた。
そんな様子を見てほっとした途端、急激に眠気と疲労が襲い掛かってきたけれども、彼女が濡れたタオルを持ってこいって言ったから取りに行こうと思う。ふらふらする足で、無事に持ってこれるかどうかはわからないけれど。
「エレン」
廊下へつながる扉へ手をかけたとき、彼女の口から久しぶりに自分の名前を聞いた気がした。いつも彼女からは"あんた"とか"お前"とか、簡潔に呼ばれることのほうが多くて、オレの名前なんかとっくの昔に忘れたのかと思っていた。
ぼんやりと天井を見ている彼女の視線は、一向にオレの視線と交わる気配を見せない。それでも呼び止められた理由があるはずだと眠い頭で考える。
「はい」
「どう?これでわたしも巨人の仲間入り」
「…は?」
「死にかけたけど生きてる。ということは…この傷もいつかは治るし、時間が経てば元通り。またいつもみたいに攫われたあんたを迎えに行くことだってできる」
「………」
「あんたは別に特別なんかじゃない。切り落とされた腕が生えようと、手を噛み千切って巨人になろうと、わたしにとってそれはあんたを特別視する要素にはならない。あんたはわたし以下のただの調査兵団の新兵で、ただの凡人。巨人を駆逐したいってその気持ちも、あんたが一番強いわけでもない」
「………」
「勘違いすんなよ?助けたわけじゃない。体が勝手に動いちゃっただけ。それは助けようと思って動いたわけじゃない。そこに理由はない。ただの条件反射。それだけ」
「…はぁ」
「言い訳がましいって?起きて早々よく喋るなこの豚野郎とか思ってたり?ははっ、それも結構。ただやっぱり伝えておきたかったの。わたし、絶対やられ損だって」
わかったらさっさと濡れたタオルとってこいグズ、と罵られ、オレはようやく廊下へ出るための一歩を動いた。
彼女はオレのことが好きじゃない。かといって嫌いでもない。それはよくわかってるし、何度も何度も本人に聞かされたから嫌というほど耳に残ってる。だからといって、そのすべてでオレも彼女と同じ気持ちを抱くことはできなかった。
そりゃはじめは捕まるたびにめちゃくちゃ怒られて怖いって思ったことはあっても、嫌いとか苦手とか、そういうマイナスな感情を持つことがなかった。オレが彼女にプラスを持てば持つほど、自分で彼女との間の溝を深くしている気にもなった。
やられ損だって言った。勘違いするなって。助けようと思ったわけじゃないって彼女は言った。けれど、ただの条件反射だって言葉に、オレは問いたかった。その反射的な行動を起こすことになった条件とは一体なんだったのか。
そのことを眠すぎて働かない頭で考えようと、明日ちゃんと睡眠をとった後の頭で考えようと、答えは一緒のような気がした。
つまりはプラスの、どう足掻いてもオレが関係していることには変わりないんじゃないかってことで。でもそれすらも、彼女に言わせるときっと、そこに好きも嫌いもないと鼻で笑うだろう。
いっそ嫌われたい
そのほうがもっとずっと楽だと思った。
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