遂にやってしまった。でもそこに、微塵も後悔なんてなかった。あるとしたら、彼になんて詫びようかと思ったくらいだ。彼の近くで彼の推理や信念を見てきたわたしが、彼が一番犯してほしくない罪を犯したのだから。
もう高校生じゃなくなったあの名探偵は、これ以上ないわたしの裏切りを許してくれるだろうか。怒ってくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。
*
父親だったものが血を流して倒れているのを茫然と見ていた。右手に握っている包丁だけじゃなく、全身についた返り血が物語るのは計り知れない憎しみだけだった。夢中になって何度も刺した気がする。興奮していて全然覚えてないけれど。
今まで抱えていた恐怖や纏わりつくシガラミが綺麗さっぱりなくなったような、そんな解放感に満ち溢れていた。涙なんか出るわけもなかった。
唐突に海が見たいと思った。ここから一番近い海を検索したら東京湾って出たけれど、もっと綺麗な海が見たくて神奈川までの行き方を調べた。手元にある二万円で充分辿り着けるだろうから、汚れた体を洗って財布だけ持って家を出た。誰かから着信があった気がしたけど、もうそんなことどうでもよかった。
都会でこの肌寒さなら夜の海辺はもっと寒いだろうな、と思案する。各駅停車でのんびりと景色を楽しみながらでも行こう、と決めてからは少しだけワクワクした。逃げる気なんて毛頭なかった。あの海で、彼を待とうと思った。
「あれ?名前さん?」
米花駅へ行く途中、聞きなれた声がして思わず振り返ると、そこには温かそうな恰好で寒さを凌ぐ黒羽くんがいた。きょとんとした顔でこちらを見て、首を傾げている。
「黒羽くん。どうしたの?」
「今からどこか行くんですか?」
「うん。海を見に」
「夜に?どこの?」
「神奈川の」
「え!?今から!?しかもそんな薄着で!?」
「今何時?」
「八時過ぎてますけど…」
自分の腕時計を出して時間を確認しながら、黒羽くんは心底驚いたようにわたしを見た。
言われて気が付いたが、確かに少し薄着だったかもしれない。コートを羽織っているとはいえ冬用ではないし、マフラーもしていない。こりゃ風邪引くかもなぁ、と考えていると、ふわりと首元が温かくなった。
「黒羽くん?」
「使ってください。見てて寒いですから」
「でも…」
「次会った時に返してくださいよ」
青と黒が混じるタータンチェックのマフラーを丁寧に巻きつけていく黒羽くんに、わたしは返す言葉を失った。次会った時、というのはきっと、わたしは檻の中だろうから。それまで黒羽くんにこれを返せないと思うと、本当に申し訳ない気持ちになった。
でも温かいこの温度を手放したくなくて、黒羽くんの匂いがするマフラーを、一人で見る海辺に連れて行きたかった。欲が出た。だから断れなかった。
「………ありがとう。返すの、きっと遅くなるだろうけど…絶対ちゃんと黒羽くんに返すからね」
「そんな大袈裟な」
「………」
「名前さん?」
目の前の存在に思いっきり縋りつきたくなる衝動をぐっとこらえて、黒羽くんを巻き込んではダメだと必死に心に言い聞かせた。優しい彼のことだから、わたしが理由を話すと心を痛めてしまう。自分のことのように苦しんで、泣いてしまうだろうから。
「黒羽くんは、何も知らない黒羽くんでいてね」
「なんですかそれ?」
「あと、工藤くんに伝言を頼めるかな?」
「え!オレが!?なんで!?」
「わたし今ケータイ持ってないの。家に置いてきた」
「え?」
黒羽くんは咄嗟にいぶかしげな顔をした。もしかしたら、ちょっと怪しまれたかもしれない。鋭いなぁこの子は。
「明日の朝、工藤くんに伝えてほしい。待ってるよって」
「待ってるよ?海で?」
「余計なことは言っちゃダメ。待ってるってことだけ伝えてほしいの」
「………」
工藤くんと同じ、何もかもを見透かすような青い瞳が、真っ直ぐにわたしを捉えている。わたしが隠してる心情を解き明かそうとする視線は、なんとも居心地が悪い。まだ、黒羽くんに知られるわけにはいかないというのに。
負けを認めるように黒羽くんから視線を外し、彼の靴のつま先をぼんやりと見つめた。
「黒羽くん。わたしの、一生のお願い…」
「小学生みたいなこと言いますね。そんなこと言って、どうせまたそのフレーズ使うんでしょ?」
「ううん。これが最初で最後だよ」
「………」
「だから…お願いできる?」
「………」
「お願い…黒羽くん…」
「………、わかりました」
釈然としない。腑に落ちない。そういう顔でわたしを見る黒羽くんの目に、わたしはどう映っているのだろうか。
それじゃあ、と黒羽くんの視線から逃げるように踵を返し駅へ向かおうとした時、彼の手がわたしの腕を捕まえた。捕まれた場所から全身に鳥肌が立った。一瞬で心臓が熱くなって脈が速くなって黒羽くんの顔が見れなくなった。
「名前さん。何かありましたか?」
「………黒羽くん」
「何かあったんでしょう」
「離して」
「名前さん!」
有無を言わさないくらい、腕を掴む力が強くなった。もう喉まで出かかっているこの真実を何度も何度も飲み込んで、緩みそうになる涙腺を抑え込んだ。
「本当に何もないから大丈夫」
今できる精一杯の笑顔で振り返ると、黒羽くんは面食らったように動きを止めた。そうしてわずかに弱まった彼の手から素早く自分の腕を取り返した。
「またね」
まるで明日以降もこうして会えるかのように、わたしは"またね"と言った。何か言いたそうに、けれど言葉が出てこないのか、黒羽くんは最後まで心配そうにわたしを見つめていた。
黒羽くん。わたしの伝言、ちゃんと工藤くんに伝えてね。警察よりも早くわたしの元へとやってくるであろうあの名探偵を、一歩も動かずに海で待ってるから。
ああ、オフィーリア、あなたの夢でいたかった
彼女と連絡がつかなくなってかれこれ二時間は経過した。夜の七時を回った時計を見ながらため息をつく。いつもなら電話の後にすぐに折り返しがあるのにそれもない。
どうせまたうたた寝が深くなっているんだろうと思った。体も痛めるし風邪をひくからソファーで寝るなってあれほど言ってるのに彼女は一向に聞く耳をもたない。急ぐ用事でもないし、明日にしようと諦めた。
もう長い付き合いだ。コナンのときからなにかと世話になっていたし、元の体に戻ってからは右腕としてオレの傍で動き回っていた。
三歳年上の彼女に早く追いつこうと走るけれど、時間の流れは常に一定で正確だった。縮まることも伸びることもなかった。どうにかもがいてようやく高校生を卒業した。あともう少しで世間が言う大人になれる。そんな時だった。
「工藤。話がある」
早朝、大学へ行く前に彼女の家へ寄ろうと少し早めに家を出た矢先のことだった。見慣れた自分の顔かと思いきや、高校卒業時に彼女に紹介された黒羽がいた。正直どういう関係なのか詳しく知りたい所だったけれど、有耶無耶に彼女に流されてしまってからは触れてはいけない話題なんだと悟った。それが気に食わない。
だから必然的に黒羽に良い印象はなかった。そんな黒羽がしかめっ面でオレの前に立つ。
「なんだよ。朝っぱらから」
「名前さんから、伝言を預かってる」
「名前?」
「待ってるって伝えてほしいって頼まれた」
「はぁ?」
このご時世ケータイという便利なものがあるのにも関わらず、彼女はわざわざ黒羽を使ってオレに伝言を託してきた。その内容が"待ってる"の一言だけなんて、意味がわからない。
「なんだそれ。どこで待ってんだよ?家か?それとも推理しろってか?」
こんな少ない情報で?彼女らしい悪戯だと笑った。けれど黒羽はいつになく真剣な目でオレを見据えてくる。
「名前さん昨日なんかあったんだ。でも教えてくれなかった。何でもないって言って笑うんだ。絶対なんかあったんだ!でもオレじゃそれが何かわかんねぇ!頼む工藤!嫌な予感しかしねぇんだ!手遅れになる前に名前さんのところに行ってくれ!」
「な、んだよそれ…何言ってんだオメー…」
「名前さん神奈川の海に行くって言ってたんだ…」
「はぁ!?」
「でもケータイも荷物も何も持ってなくて…全部家に置いてきたって…夜の八時だぜ!?おかしいだろ!?」
「ならなんでその時に止めなかったんだよ!」
「止めたさ!止めたけど…!止めたけどっ………!」
黒羽の話を聞いて、黒い影がじわりと背中へとにじりよる気配がした。悪寒にも似た警告が脳内で響いた。
神奈川の海にいると黒羽は言った。すぐに走り出そうとして出た一歩に制止をかけたのは、探偵として感じた少しの違和感だった。
「工藤?」
「名前はなんでケータイを持っていなかったんだ?何で家に置いてきたって言った?まるでわざと置いてきたことをお前に聞かせているようだ」
黒羽が八時頃に彼女と会っていたのなら、オレが電話をした時間はまだケータイを持っていた可能性が高い。それを敢えて家に置き、黒羽にその旨を伝え、神奈川の海だなんて曖昧な場所を指定する。
これを黒羽から聞いたオレが彼女の家へ行き、ケータイで調べたであろう海の位置情報を見なければいけない、ということか。
「黒羽!先に名前の家へ行くぞ!」
「え?海じゃねぇのか?」
「名前はきっと行き先を調べてるはずだ。それを見れば神奈川のどのあたりなのかわかるだろ」
「!、そういうことか」
黒羽が言っていた通り、ものすごく嫌な予感がする。それがどういう結末へつながるのかはわからないが、早く彼女の元へ行かなければならない気がした。
黒羽と共に彼女が住むマンションへ行き、もう何十回と見慣れた彼女の部屋の前に立つ。何故だか鍵がかかってない気がして、ドアノブを回した。
「!、開いてる!?」
勢いよく開け放った先に広がった視界に、オレと黒羽の言葉が詰まる。
真っ直ぐ奥に伸びた廊下の、リビングへと繋がる扉が全開にされたその先に、それはあった。薄暗い部屋に、外から差し込む太陽の光でぼんやりと照らされるそこに、息絶えている彼女の父親の姿があった。隣で咄嗟に口元を抑えせき込む黒羽を心配してやる余裕なんてなかった。
口の中の水分が一気に消失し、乾いた喉にごくりと通る生唾。おぼつかない足取りで部屋の中へ進むと、オレの手の支えを失ったドアが思いっきり音を立てて閉まった。光が遮断され、一段と暗くなったその空間はとてつもなく異様だった。
「っ…まさか!…そんなっ…!」
「工藤…なんだよこれ…」
死体の周りに溜まった血の量と、死体に残る傷跡から察するにめった刺しにしたのは違いない。ふと視界に入ったテーブルの上には凶器と思われる包丁と、血のついた彼女のケータイ、返り血で汚れたであろう彼女の服が無造作に置かれていた。
フラッシュバックのようにここで談笑しながら晩飯を食うオレと彼女の姿が浮かぶ。料理は苦手だと愚痴る彼女にわざわざ作らせたご飯を食べ、ソファーにだらけて二人で他愛もない会話を繰り返す。
そのまま泊まっていく日もあれば帰る日もあって。歯ブラシやコップ、着替えなどオレの生活感が少しずつここに残されていった。彼女と一緒に過ごす時間は、たとえ家の中だけじゃなくても心地良いものだった。
オレが二十歳になったら一緒に飲もうって飾っていたワインボトルが、ベランダの手前で粉々に割れているのが見えた。照明が暗くなってきたから買い替えたいって言ってた天井の蛍光灯も割れていて、飛び散った血がついていた。
一目ぼれして衝動買いしたソファーも、オレの母さんから譲り受けたカーテンも、仲良くなった依頼人の店で買ったベッドも。目も当てられないほどめちゃくちゃになっていて、所かまわず血で汚れていた。
この部屋に残る彼女との美しい思い出が、黒い絵の具で塗りつぶされたかのような影が灯る。事件現場なんて嫌というほど見てきているというのに、この部屋の光景だけは腹の底から気持ち悪いと思わせた。
推理しなくてもわかる。
父親を殺した犯人は彼女しかいない。
この事件に名探偵の存在など初めから必要としなかった。
信頼を寄せていた人間が、こんなふうに残忍な殺し方ができるなんて、知りたくもなかった。彼女と父親の間に何があったのかは知らない。彼女はそれを断固としてオレに話そうとしなかった。
もし無理矢理にでも聞いていれば、こんな未来はこなかったはずだ。彼女が自分の手を殺人という罪で汚すことを防げたはずだ。それができる唯一の存在といっても過言じゃなかったのに、オレはそれができなかった。彼女がそれを許さなかった。
一番近くでオレを見てきた彼女が、この行為に及ぶに至るまでを想像すると、胸が張り裂けそうだった。父親を殺した動機がなんであれ、彼女が抱えていた闇がこんなにも深いものだとは思わなかった。心臓の奥が刺されたように痛くて、思わず泣きそうになった。
昨日の夜に、黒羽に"待ってる"と伝えた彼女の心の内を、オレはどれだけ汲み取ってやれるだろうか。探偵としてのオレが彼女にしてやれることは、一体どれくらいあるのだろうか。
そうだ、早く、彼女の元へ行かなければ。
「………黒羽」
「ん?」
「悪ィ。あと、頼んでいいか…?」
「…、ん」
血の指紋がついた彼女のケータイを掴みオレは家を出た。淀んでいた空気を長く吸っていたせいか、外に出た瞬間生き返るほどの酸素が送り込まれた。濁っていた思考が、クリアになっていくのがわかる。
走り出したオレの顔はきっと、犯人を追いつめる探偵の顔をしてるんだと思った。
爪が食い込むほど愛してやろうか
どれくらいここにいるだろうか。随分時間が経ったように思えるけれど、実際のところはそんなに経っていない気がした。
荒れた潮風がびゅうびゅうと髪を巻き込んで乱れさせる。曇り空からは今にも雪が降りだしそうだったけれど、まだそんな季節じゃないことは知っていた。黒羽くんに借りたマフラーが、唯一わたしの体温を維持してくれていた。
目を閉じると、わたしのした行為が鮮明に浮き上がる。刺した感触が、まだじんわりと残っている。
"わたしが、この手で、あの男を殺したんだ"
現実がそう言い聞かせるように、記憶の逃避行を許さなかった。ぶるり、と体が震えた。寒さで震えたわけじゃないのは確かだった。これは歓喜だった。
「誰かを殺して歓喜なんて、工藤くんが知ったら怒るだろうなぁ…」
黒羽くんは彼に伝えてくれただろうか。彼はわたしの部屋へ行っただろうか。あの情景をどう思ったんだろうか。もし一緒に黒羽くんも見てしまったのなら、本当に申し訳ないことをしたなと思った。
ふと、後ろから砂を踏む音が聞こえた。少しずつ近くなるそれは、確実にわたしへと向かってきている。あぁ、ようやく、お迎えが来てくれた。
「………」
「………」
音もなくわたしの隣へ腰をおろしたのは、紛れもなく工藤くんだった。開口一番、怒鳴られるだろうなと身構えていたものだから、波音だけが聞こえる静けさに拍子抜けした。
お互い口を開くことなく、ただぼんやりと海を眺めていた。わたしから話すことは一つもなかった。
『来てくれてありがとう』『行かないの?』『裏切ってごめんね』『待ってたよ』
そのどれを口にしても不正解だと思った。わたしが話すのを許されるのは、彼が先に何かを語ったあとだと思った。案外、その時は来ないのかもしれないと思った。
きっと彼も思案している。第一声にわたしにかける言葉をどれにしようか迷っていると思う。言いたいことや聞きたいことがたくさんあるはずだ。だけど結局のところ、何を最初に口にしてもやはりそれは不正解しかないのだった。だからまさか。
「………、名前」
まさか彼に。
「………好きだ………」
今この瞬間、告白されるだなんて思いもしなかった。名探偵の思考回路は本当に理解できないと思った。同時に、納得のいく正解にも思えた。
「は」
「散々頭ひねって絞り出した答えが、結局のところ全部こうなっちまうんだ」
そう、あっけらかんと言ってのけた。優しい目をした彼の瞳に、わたしの呆けた顔が映っていた。
「言いたいことも聞きたいこともスゲーあるんだけどさ…肝心なことを、まだちゃんと言えてないことに気付いたんだ。そしたらもう、そのことしか頭になかった」
わたしの髪をかき乱していた潮風が、彼の柔らかい前髪をあっちこっちに煽っていく。
「名前が好きだ。それはずっと変わらない。今までだってそうだったんだ。これからだって変わるわけがない。だから…」
海の色を反射したような彼の瞳に、薄く水面ができる。この距離で気付けるくらい、彼の目には決壊しそうなほどの涙が溜まっていた。
それをこぼしてしまわないように、寸のところでとどめている。
「今度はオレが、待っててやるから…」
あ、今。一つこぼれた。わたしからも、こぼれていった。
「早くっ、帰ってこいよ…」
「………く、どう…くん…っ」
「じゃなきゃオレの右腕、誰かに譲っちまうからなっ…!」
引き寄せられた彼の腕の中は、わたしと同じくらい冷たかった。けれど頬に落ちてくる生ぬるい水滴が、雪のように温度をなくして伝っていく。彼の服にシミを作るわたしの雫が、遠くのほうで聞こえるサイレンによって激しさを増した。
彼が二十歳を迎える、7ヶ月前の出来事だった。
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