※原作後のお話。
「進藤ヒカルって人はいる?」
塔矢と和谷と三人で棋院に行き、エレベーターから出た瞬間に聞こえてきたその言葉に、両隣が揃ってオレを見る。そんな視線を視界の端でおさめながら声の発信源を見ると、受付の人と話している女の人が見えた。
紺色のパンツスーツに身を包んだスラリとした立ち姿に、後姿だけでも綺麗な人だと思わざるをえない。自然と足がそちらへと向けば、オレの姿を捉えた受付の人が小さく「あ」と声を漏らした。それを拾って女の人が振り返る。
刹那、息をのんだ。
「(!、この人…雰囲気が佐為に似てる…!)」
切れ長の瞳に、艶やかな長い黒髪、醸し出す空気が何故か佐為を思わせる。
思わず立ち止まるオレを見て、女の人は驚いたように目を見開いて、声を震わせながら「君が…?」と言った。
「進藤?知り合いか?」
「すげー綺麗な人じゃん」
塔矢と和谷がオレに話しかける間、オレと女の人の視線が逸らされることはなかった。
食い入るようにオレを見つめていた瞳から、唐突にポロポロと涙がこぼれていく様を見て、オレたち三人は言葉を失った。
「っ………え!?」
「「え!」」
急に泣き出した女の人にオレたち三人はあたふたとするし、受付の人も慌ててティッシュを渡していた。
その中でふと既視感に見舞われた。この人と会うのは初めてなはずなのに、この人の泣く姿を見たことがあるような、そんな不思議な感覚に囚われた。
なんとなく昔のことを思い出していて気付いた。初めて佐為がオレに取りついたときの、じいちゃんとした最初の一局のときだ。嬉しくてオレの後ろで涙を流した佐為の、あの姿に似てると思った。
「進藤!女性を泣かすなんて!何をしたんだ!?」
「え!オレは何もしてな…!」
「じゃあなんでお前見て泣くんだよ!名指ししてまで来たんだぞ!」
「いやだからオレも初対面で!」
「もー…、頼むから泣かないでよ…」
「へ?」
ぼそり、と呟かれた言葉は女の人が自分に言った言葉だった。どういう意味だろうか、と考える間もなく、その人はオレを呼んだ。
「…進藤君」
「あ!はいっ!」
「ごめんなさい。これは気にしないで」
「え、でも…」
「君の所為じゃないから」
「ですよね?「進藤!」あ、いや!ごめんなさい!」
なんでオレが塔矢に怒られなきゃなんねーんだ、と塔矢を睨んでると、和谷が身を乗り出して女の人へ声をかけた。
「っていうかお姉さんさ、進藤と知り合いなんですか?さっき受付で聞いてたみたいだし…」
「え?あぁ、少し彼と話がしたくて…」
「話?オレと?」
「ん?………あぁ、うーん…、えー………」
「「「?」」」
「はぁ………、ここに一般の来客でも碁が打てる場所があったらしいんだけど、今もある?」
「えっと、あります、けど…」
「進藤君、一局お願いできるかな?」
「オレが?お姉さんと?」
「うん。え?そうなの?」
「は?」
「いやいや、ごめん。こっちの話。えっと、プロと打つのってお金いるんだってね。ちゃんと払うからお願いできる?」
「え!いや、お金なんていいです!一局打つだけだし!」
「そう?じゃあお言葉に甘えさせてもらうわね」
心底面倒くさそうにそう言った女の人は、目尻をちょっとだけ赤くしながらオレに近づいてくる。
微妙に会話にならない返しや、こっちの話だと区切られたり、時々変な方向に視線が言ったり。なんだかさっきから当事者じゃないような言い方をしたり。
そんな女の人を見ていて少しの違和感と懐かしさを感じた。その感情がどこからくるものなのか、まだよくわからなかった。
とりあえず女の人を一般スペースへと案内した。別に何を言うわけでもなく、当然のようについてくる塔矢と和谷に対し、ちらりとその様子を見てからオレの後を歩き出す。
「ここがその場所です」
一般の人たちがちらほらと碁を打つなか、誰もいないスペースを指でさし、あそこがいい、と指定した。別にオレはどこでもよかったけれど、なんとなく周りに誰もいないほうがいいと思った。
お互い席に座って用意をする中、オレの隣に和谷、女の人の隣に塔矢が座った。この対局の末を見届けようと二人の視線は碁盤へと集中していた。その様子を傍らに、オレがニギろうとしたとき、女の人が言いにくそうに二人へと声をかける。
「あのさ、申し訳ないんだけど二人は離れててくれる?」
「「えっ?」」
「このフロアにいてくれるのはいいんだけど、碁盤を見られたくないの。見えない位置からならどこにいてくれても構わないから」
「どうして碁盤を見てはいけないんですか?」
女の人の申し出に、尤もな問いかけをする塔矢に、和谷がそうだと言わんばかりに頷く。それに対して困ったように眉を寄せた女の人は、窺うようにオレを見た。そしてそのまま塔矢を見ると碁盤へと視線を戻した。
「彼が、困るだろうから…」
「え?彼って…?」
「………」
少しふてくされたようにオレを見る女の人に、先ほどの"彼"がオレをさしていることに気付いた。え!?なんでオレ!?
「ボクたちが碁盤を見ると進藤が困ると?そうなのか?進藤」
「え!や!オレは別に見られても構わないけど…」
「本人はこう言ってますけど?」
「わたしも困るの。後々めんどくさいことになるのは目に見えているからね。意味わかんないかもしれないけど、お願いだから聞いてちょうだい」
そう言って二人に頭を下げた女の人に、それ以上塔矢が強く出ることもできず、二人は自然とオレに見解を求めてきた。
「………えっと、一応オレからも頼むよ。あとでどういう一局だったか教えるからさ。それならいいですよね?」
「まぁ、進藤くんが教えてもいいと思える対局だったならお好きにどうぞ」
「じゃあ、そういうことだから…」
「………、わかった。行こう和谷」
「お、おう…」
なんでか女の人の意見を尊重しなければならないと思った。オレまでもがそう言うもんだから、二人は渋々離れていき碁盤が見えない位置へと座った。視線はオレたちを見たままだったけれど。
そんな二人にありがとう、と言った女の人は、オレへと向き直り、白でいいから始めようと言った。ニギっていた碁石を戻し、黒を持つ。
「…お、お願いします」
「お願いします」
そう言って一度深呼吸した女の人は、気迫迫る表情で碁盤を睨みつけた。その空気にドキリとした。どこかで味わったことがあるような、そんな空気だった。オレの最初の一手を待ち望むその姿に、オレも自然と力が入る。
オレが一手目を打ってすぐ打ち返してくると思っていたのに、女の人は序盤で手を止めた。それでも碁石から手を離すことなく碁盤を見ているのだから、きっと長考しているんだろうと思った。
一分くらい過ぎた頃だろうか、女の人が一度ため息をつき真上を見上げるように首を動かした。そのまま見上げていたと思ったら酷く優しい笑い方をした。何かを許すような、そういう笑い方だった。
その後はまた視線が碁盤へと戻り、再度一分くらいが過ぎてからその人は一手を打った。すらりと細い指が白い碁石をパチリと置く姿は、とても品があって綺麗だと思った。打ち方からして、まるっきり初心者じゃないことはわかった。
それからしばらく打っていて、オレはふと手を止めた。そんなはずない、と頭が言ってる。
「(この人…強い…!でもなんだろう…この強さ、オレはよく知ってる。でも有り得ない。絶対ありえないんだ。だって佐為は…、もう、いないんだから…!なのに…)」
この人の打つ一手一手が、佐為を思い出させる。これも、あれも、佐為だったらこんな風に打ってきたって思えるような、そんな碁だった。
動揺と戸惑いから、オレの心が乱れていくのがわかった。まだ中盤だというのに、どれだけ先を読んでもオレの黒が勝つ道は残されていない。この圧倒的な強さは佐為以外の何物でもない。けれど今目の前にいるのは佐為じゃない。
「………ッ、負けました…」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました………、あの、お姉さんの名前…聞いてもいいですか…」
少しの希望を持ちつつ、答えを待つ。
ありえないけれど、もし思い描く名を言ったのなら、俺は自分を抑えられる自信がない。
「………、名字名前と言います」
少し躊躇したような、そんな答え方だった。
心のどこかで想像と違っていてよかったと何故か安心している自分がいた。
「名字…名前…。ははっ、やっぱり、違うか…」
泣きそうになった。けれど、こんなところでは泣けなかった。必死に感情を誤魔化して笑うオレを見て、その人はオレにしか聞こえないほどの声で言った。
「…藤原佐為と、名乗ったほうがよかった?」
「ッ!?」
何故、誰も知らないはずの佐為の名前を、こうして他人の口から聞くことができるのか。
その名前は、オレしか知らないはず。それをどうして、この人が知っているのか。
「なんで…その名前…!どうしてっ、あんたが知ってるんだっ!!」
「進藤!?」
「進藤どうした!?」
思わず立ち上がった音と、思っていたより大きく出てしまった声と、線が切れたようにあふれ出てきた涙に、離れて見ていた塔矢と和谷が慌てて寄ってきた。
それを見た女の人はすぐに碁盤の石をぐしゃぐしゃにし、その一局をなかったことにした。
「…ヒカル、強くなりましたね」
「えっ!?」
「これは伝言です」
「だ、れの…」
「そんなの、君なら言わなくてもわかるよね?進藤君」
丁寧に白石を片づけて席を立った女の人は、今日のところはここまで、と言って帰ろうとした。思わずその人の腕を掴んで行く手を止めたオレに、塔矢と和谷が心底驚いたように見る。
「待って!オレ、聞きたいことがある!いっぱいあるんだっ!」
「それはどっちに?」
「どっちって…それは…」
「ふふ、ごめんごめん。ちょっと意地悪しちゃった」
「え…」
「答えてあげたいけど、わたしにも仕事があってね。もう行かなきゃいけないの。だから、明日進藤君の時間があいてるときでいいから、ここに電話してくれない?」
そう言って一枚の名刺をオレに渡した女の人、もとい名字さんは、にこりと笑ってオレの頭を撫で帰って行った。塔矢と和谷が詳しく説明しろ!と囃し立てるなか、オレの頭を撫でた名字さんの温かい手の温度が忘れられなかった。
袖口で目元をぬぐっても、伝言だと言い聞かされたあの言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え、オレの涙腺はしばらく緩みっぱなしだった。夢じゃないはずなのに、夢を見ている気がして、このまま今日が終わってしまうのが怖くなった。
佐為がいなくなったときの喪失感をもう二度と味わいたくない。だからこそ俺は、たった一枚の紙きれで繋がる可能性を捨てきれないでいる。もう一度佐為に会えるなら、その為ならタイトルを落としてでもなりふり構わず走っていける気がした。
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