「スティーブンはわたしのこと心底嫌いだから過労死を狙ってるのよ」
唐突に出てきた自分の名前に驚き、飲んでいたコーヒーをこぼしそうになった。彼女の言葉に自分だけじゃなく、少年もぽかん、とした表情で固まっている。はっとしたように意識を取り戻したと思えば、俺と彼女を交互に見ながら焦り始めた。
「いやいやいや!え!?そんな話してました!?今!」
「レオは優しいね、って話だったはずよ」
「でしたよね!?何で急にスティーブンさんが出てくるんです!しかも縁起でもないこと言わないでくださいよ!」
「あら本当よ?ねぇスティーブン」
「な、にを言い出すかと思えば。少年、タチの悪い冗談は聞き流してくれて結構だよ」
「え!え!?」
「レオナルド、温かいコーヒーありがとう。あなたの小さな優しさのおかげでわたしの心は満たされているわ。今からザップと落ち合うんでしょう?怪我しないよう気をつけて行ってらっしゃいね」
「え、あ、はい…行ってきます…」
なんだか腑に落ちない表情のまま事務所を出ていく少年に、にこりと笑いながら手を振る彼女だったが、少年が見えなくなった瞬間、糸が切れたようにソファーに倒れこんだ。さらり、と灰色の長い髪が床に触れることもお構いなしに、深い息を一つ吐いた。
「ああいう冗談は感心しないね」
「冗談じゃないじゃない」
「俺がいつ君のことを嫌いだと言った?」
「一番最初よ」
「いつの話だい。そんなもの、もうとっくの昔に時効になっているじゃないか」
「さぁね」
「おや、やけに冷たいね」
「いいの。あなたはそれでいいのよ。そこに不平も不満もないわ」
「………、だから、そうじゃな「スティーブン、一人くらい、そういう人間がいないとダメなこと、わかってるでしょう?」
「…それを俺に演じろと言うのか?」
「一番適しているじゃないの」
「まったく…人の気も知らないで簡単に酷いことを言う…」
ソファーに埋められた顔からは表情が見えなくて、ただくぐもった感情のない声だけが耳をざわめかせる。
彼女は誤解している。確かに第一印象を抱くことになったあの場面では、マイナスな印象しか受けることしかできなかった。それは彼女が我々の仲間になる前の話だったからだ。クラウスが彼女を引き入れたことによりその一件は終わったかのように思えたが、元々暗殺者として過ごしてきた彼女を快く受け入れろと言われても無理な話じゃないか。
それは自分だけじゃなく他の連中にも言えることだった。俺だけがそう言ったわけではなかったにせよ、いまだにそのことを引きずって今になってまだ掘り返してくるのは本当に勘弁してほしい。
「ナマエ、俺は君に優しくしちゃダメなのかい?」
独り言のような、それでいて聞き入れてほしい言葉のような、淡い願望。
もぞもぞと動き、仰向けになって天井を見つめる彼女に、先ほどの言葉が届いていると確信した。
「スティーブン。ライブラの人はみんな、優しすぎるわ」
「そうだな」
「だからこそ感謝しているし、みんながちゃんと活動できるよう援助することは全然苦じゃないの。クラウスに働きすぎだって言われても、レオが温かいコーヒーを淹れてくれるだけで疲れなんて吹き飛んじゃう。心が熱くなる」
「………」
「いつ崩壊してもおかしくないこの場所で守りたいものができたの。こんなどうしようもないわたしに優しくしてくれる人がいるこの場所は、ぬるま湯に浸かっているようで心地よくて気持ち悪い。今すぐにでも栓を抜いて、冷たい水を注ぎこみたくなるような、そんな世界」
「………」
「今まで自分がしてきたことを忘れてしまいそうになる。後悔しそうになる。だから、わたしを嫌って蔑んだ目を向けてくれる人がいないと、勘違いしちゃうのよ。お前の過去は決して消えないんだって、そう思わせてくれないと…この幸せが崩れたときに、立ち上がれなくなる。それが怖い。だからスティーブン、お願いだから、誤解を解こうとしないで。この距離を保たせてほしい。なんて、我儘もいいとこよね」
少年が渡したカップからはもう湯気が見えない。少年が彼女を思って温めたものは、その熱が冷め切ってから体にいきわたる。誰の何が、どう満たされているって?
「さぁて、明日からの君の仕事、どこへ配属させようか。何か希望はあるかい?この間はずっと病院だったから今度は空港にでもしようか?」
彼女のお願いに肯定も否定もしない。大きな独り言を聞き流したかのように、俺は彼女が寝ているソファーの、少し空いている場所に腰をおろす。泣きそうな表情で俺を睨んでは、視線をそらしてふて寝を決め込もうとする。
「スティーブンなんか嫌いよ」
「ふぅん。俺は好きだよ。君の目の能力がね」
「………」
「っ、痛ッ!こーら、女の子が足で人を蹴るんじゃありません。はしたないぞ」
「いい位置にいたもんで、つい。それと、このコーヒー冷めちゃったから温めなおしてくれる?番頭さんや」
「そういう素直じゃないところが好きだよ、ナマエちゃんや」
「わたしも、嘘つきなあなたがだーい好き」
あぁ、その営業用の妖艶な笑い方も好きだなぁって思ってしまうあたり、相当重症だ。こりゃ境界線を越えるのも一苦労だな、と重たい腰をあげて冷め切ったコーヒーを温めなおしに行く。猫舌な彼女には、ぬるいくらいが丁度いいだろうから。
愚直に愛し抜いたあとに死んでみたいものさ
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