目が覚めて一番最初に飛び込んできた光は、ここ最近見慣れていたどんよりと鈍く照らす蛍光灯ではなく、太陽が照らす自然の光だった。
真っ白な壁に反射して柔らかい光を放つこの部屋は、どうやら病院の一室らしい。開け放たれた窓から心地良い風が入ってきて、レースカーテンを揺らしていく。
閉じ込められていた地下室からじゃ考えられないほどの現実味のある外の世界に、思わず音もなく涙がこぼれた。
スン、と鼻をすすれば木々の匂いがし、耳を澄ませば鳥のさえずりや人々の声が聞こえ、不健康そうな自身の手を照らす太陽はじんわりと温かかった。

「また…飽きもせず生きることを繰り返すのね…」

独り言を呟けば思った以上に声が掠れ、音にならない言葉となった。
ふと傍らに静かに立ちすくむ黒い影が目に入り、言い表せないほどの感情が体の底から湧き上がるのを感じた。

「………」

慈しむように黒い影を見つめ、言葉を選ぼうと頭を働かせるが、何一つうまく表現できない感情が酷くもどかしく、ただただ涙を流すことしかできなかった。
少しずつ、外から入ってくる風が黒い影の一つ一つを攫っていく。早送りで風化する様子を見ているみたいに、黒い影が立っていた場所には証拠一つ残らず元の床がただそこにあるだけだった。
ここはあの研究室じゃない。わたしがいた地下室でもない。影が消えたことで、組織とはなんの関わり合いもない場所にいることを理解した。
涙に歪んだ視界の奥で、窓際に置かれたカモミールの花が小さく揺れ動いた。



ひとしきり泣いたあと、ゆっくりと体を起こし、異常がないかを確かめた。点滴が繋がれている腕を見て、咄嗟に引き抜こうとして、やめた。
今更引き抜いたところでパックに入っている液体の大半は体内に流れていることに変わりはなく、例えそこに毒物が混じっていようとも足掻くつもりなど毛頭なかったのだ。
全てを受け入れて、ただ死ぬのを待つのみだった。自分にできることと言ったらそれくらいしかできないのだからと、自嘲気味に笑みがこぼれた。

こんな晴れやかな天気の下でその考えに至るほど、今まで受けてきた傷は深かった。死ねば外傷なんてなくなる。けれど心の傷だけはリセットされないのだ。
方法が一つだけあるにせよ、それを実行する勇気がまだ持てないことに、結局"生"に飽き飽きしていながらも執着しているんだと再確認させられる。

ぼんやりと窓から見える景色を眺めているときだった。ノックもなしに病室の扉が開いたのだ。一瞬にして体に力が入り、心臓が急激に動き出す。
またあの地下室へ戻されるのではないかと、またあの地獄のような日々が続くのではないかと、恐怖に染まっていく体はとても正直で、小さく震え出した。
しかしいつまで待っても扉を開けたであろう人が近寄ってくる足音がしないことを不思議に思い、恐る恐る扉へと視線をやれば、一人の男の人が目を見開いて立ちすくんでいた。

その男の印象と着ている服からして、嫌な予感がした。自分を地下室へ閉じ込めたあの組織の一員なのではないか、と脳内がけたたましく警報を鳴らした。と、同時に、それならば何故自分はこんなにも自由に寝かしつけられており、男はいつまでたっても病室へ入ってこないのかと考えた。

「驚いたな」

一言目に言われた言葉は、久しぶりに聞いた日本語だった。
言葉が通じる。そう理解した瞬間、自分の話を聞いてもらおうと身を乗り出そうとして寸のところで思いとどまる。
男が、味方だとは限らない。組織の人間じゃないとも限らない。簡単に人を信用してはならない。これまでの数々の経験のなかでそう学んだことを思い出し、出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。

「そっちへ行っても?」
「………」

男の言葉の真意を探るためか、極力こちらから何も話さないスタンスでいこうと決めたことに対し、男は焦りもせず一歩病室へ入り後ろ手で扉を閉めた。
言わんとしていることを読み取ったのか、勘のいい男はそれ以上近づくことなく顎に手をやった。

「まずは自己紹介をしようか。俺はFBI捜査官の一人で赤井秀一と言う。数日前に起ったとある製薬会社の事件を担当していてな。我々のボスが倒壊した製薬会社から君を保護し、この病院へ搬送した。俺たちの監視下の元、君が目を覚ますのを待っていたところだ」
「………」
「何か質問はあるか?」

男が言っていることが本当なのか嘘なのかはわからないし、男がどこまでこの体のことを知っているのかもわからない。こちらから下手なことは言えないが、聞きたいことはたくさんあった。
訳も分からないまま監禁され、非道な人体実験をされ、言葉も通じないから助けすら呼べない。許しを請うこともできなかった。
ここが日本ならば誰か助けてくれただろうか?その自問に自答するのならば、それは否。場所がどこであろうと、この体の秘密を知れば、人は人でなくなってしまう。
知的好奇心が生み出す尽きることのない探求心が、時には人を鬼や悪魔に変えてしまう。それをずっと目の当たりにしてきたのだ。
この男の言葉にどれほどの真実が混じっていようとも、全てを警戒し全てを受け入れてはいけないのだ。結局どこへいってもわたしのような存在には、居場所などないのだから。

「…聞き方を変えよう」

返事がないことに微塵も苛立ちを感じさせない声色で、男は言葉を紡ぐ。

「何か欲しいものはあるか?」

荒波が立つ心の真ん中に、ストンと宝石が投げ込まれた。それはきらきらと光を放ちながら、深い海の底へ沈んでもなお、そこにあるのだとわかる程輝きを失わずに光っていた。
嵐が通り過ぎたあとの穏やかな海辺のように、さっきまでの荒波が嘘のように、宝石が投げられた場所から一つの波紋が出来、一切の飛沫を封じ込めた。

欲しいものは、ある。
喉から手が出るほど望んでいるそれを、この男が与えてくれるとは思わないけれど、それでも欲しいと願わずにはいられないものがあった。
止まったはずの涙が、ぼたぼたとこぼれ落ち、震えそうになる声を必死に抑えながら男に伝わればいいと思った。

「………っ、普通が、欲しい…」

この意味が男にわかるだろうか?学校へ行ったり友人と出かけたりバイトをしたり。世の中のみんなが当たり前のように進んできた人生は、どれほど普遍的で愛しいものだったのだろうか。
誰もそのことを実感して生きてはいないだろうけど、その普通こそが幸せな日々だったんだと、失ってからようやく気付くのだ。
普通に生きて、普通に死ぬ。命は一つしかなく、人生はこの一度きりなのだと。その普通を生きているであろう男に、はたしてこの意味が伝わるのだろうか?

止まることを知らない涙が、渇きを覚えることなく次々と水分を生み出していく。
どんなに望んでも二度と手に入らない望みだとしても、欲しいと思うことをやめられないのだ。手を伸ばさずにはいられないのだ。光りの届かない深海に落ちてきた宝石を掬い上げる術を持たないのだ。穏やかな水面が少しずつ波を作っていく工程を、ただただ海の底から見上げていることしかできないのだ。
ふと、音もなく乗せられた頭上の掌は、言葉にできないほどの優しさと温かさを持ち合わせていた。弾かれたように驚いて顔をあげると、扉前にいるはずの男がいつの間にか隣に立っていた。
武骨な指でたどたどしく、けれどしっかりと頭を撫でていく手に、父と母の顔を思い出した。もう会えない家族の顔を、涙でぼやける視界の奥で鮮明に思い出したのだ。

立てた膝の上にあるシーツへ顔を埋めるようにして思いっきり泣いた。声を出してもくぐもった音にしかならないのを良しとし、ため込んでいた感情を一つずつ吐き出すように泣いた。
そんな姿を黙って見届けていた男の翡翠色の瞳が、苦しく歪んていたとは知る由もない。





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