ごぽり、と口からこぼれていく酸素を視界の端におさめながら、命綱だけを頼りに海に沈む。昔はこんなものつけなくても自由に楽しめていたというのに。うっかり悪魔の実を口にしてしまってから、わたしは海に嫌われてしまったのだ。なんて腹立たしい。息継ぎに上がる気力すら沸いてこないとか致命的すぎる。
「ナマエ!」
ぐい、と力強い腕に掴まれたと思うと、一気に浮上する水圧でいやでも目が覚める。ざぱん、と水しぶきをあげながら海上へ顔を出したわたしたちを見て、ナミの怒ってる声が聞こえてきた。
「お前!死にたいのか!」
わたしを引き上げてくれたゾロがそう言って睨むけれど、わたしは別に死にたがりではない。だって、と口ごもるわたしの目はとても虚ろで、あぁやっぱり海のなかは苦しさしか残らない。
「別に、死にたいわけじゃないんだよ?ただ、恋しくなるんだけど、一生届かない。わたしが死ぬまでこの力は消えたりしないから」
「悪魔の実を食ったんだ。一生カナヅチなのは今に始まった事実じゃねェ」
「ゾロはいいなぁ」
「そういう話をしてんじゃねーだろ」
「そういう話だよ」
ぐったりと力が抜けた体をゾロがしっかりと支えてくれているから、もう命綱を外しても沈むことはない。
きっと船に戻るとナミとウソップにも怒られて、サンジくんとチョッパーとブルックに心配されて、ロビンとフランキーに呆れられて、そしてルフィに…。
「ゾロ、あと少しだけ海にいたいって言ったら怒る?」
「おれが怒られるわけじゃねェから別に構わねーけど、やめとけ。ルフィがキレる」
「やだなぁ。ルフィがキレると怖いんだよね」
「ま、もうキレてるけどな」
「えー尚更帰りたくないなぁ」
ゾロに抱えられているときはバタ足だってできるし、海を楽しむことだってできる。でもゾロの腕から離れてしまうと、満足に泳ぐこともできずただただ沈んでいくわたしの体。能力者たる所以がそこにはあって、どう足掻いてもその呪いから逃れることはできない。
「ナマエ!」
サニー号の海水に面しているところにくぼみがあって、そこからいつも船にあがるのだけれど、丁度そこには仁王立ちしているルフィがいた。
いつも楽しそうに笑っているルフィがこんなにも怒りをあらわにするのは珍しいことなんだって、いつだったかサンジくんが言っていた。
「ゾロより怖い顔してる」
「お前な。言っとくがおれは先に行くからな」
「え!やだよ!ゾロも一緒にいようよ」
「あほか。おれにも用事があんだよ」
「ただのトレーニングじゃん。行ーくーなァー!」
「はーなーせェー!」
ゾロの服を引っ張って引き留めていると、黙ったままルフィがわたしの手をぺしんと叩き落とした。え、地味に痛いんですけど。
「ゾロはもう行け」
「ええ!なんで!」
「はいはい」
「ちょ、ゾロ!」
「ナマエ!いい加減にしろ!関係ないゾロを巻き込むな!」
そう言ってものすごく怒っているルフィの後ろを、苦笑いで通り過ぎるゾロを恨めしそうに見送る。ちぇ、なんでいっつもわたしだけ怒られるんだろうか。
床に座り込んで海水を吸い込んだシャツや髪を絞っている間、ルフィはずっと怖い顔でわたしを見下ろしていた。
「ナマエ」
「なに」
「なんでおれが怒ってるのか、わかってないだろ」
「わたしが泳ぐとみんなに迷惑がかかるからでしょ」
「違ェ!一歩間違えたら死ぬからだ!お前は能力者なんだぞ!一生カナヅチなんだ!」
「そんなの!ルフィに言われなくてもわかってるし!」
「わかってねェから言ってんだろ!」
わかってないのはどっちだろうか。わたしは全部理解してやっているのだ。能力者として、カナヅチとして、それでも海に沈むことを選んでやっているのだ。わかっていなかったらこんな自殺行為、誰が好き好んでやるものか。
「わたしは!ルフィみたいに子供のころから悪魔の実を食べたわけじゃないもん!しょうがないって事実を受け入れて過ごしてきたわけじゃない!もともと海と一緒に暮らしてきたわたしが!もう一生泳げないなんて!そんな事実理解したくない!いつものように水と一体化になって自由に泳げる感覚を覚えてるわたしの体は、どう足掻いたってまた海に戻りたくなる!そういうわたしの気持ちはルフィには絶対わかんないよ!!」
そうまくしたてるわたしに、ルフィは何も言わなかった。
下を向くと髪の毛から海水がぽたぽたと落ちていく。わたしの目からも、しょっぱいものが落ちていく。それが重なって大きな水たまりを作っては床の木目に吸い込まれて消えていく。
「…うん。わかんねェ」
ルフィにしては珍しい、とても小さな声で言われた言葉に、わたしは少しだけ顔を上げた。涙の膜で覆われた視界はぼやけていて、それでもルフィの掌がぐっと握られているのだけはなんとなく見えた。
「おれだって、自由に海を泳げるゾロやサンジたちが羨ましいって思う。けどな、悪魔の実を食って、この力を手に入れたことを後悔したことはねェ。なんでかわかるか?」
「それはルフィが強いからだよ」
「全然違ェ」
「その能力がルフィと合ってたからだよ」
「これはちゃんと使えるようにエースやサボと修行したからだ」
「誰それ」
「おれの兄ちゃんたち」
「ふーん。だからわたしにもちゃんと使えるように修行しろって言いたいの?」
「そうだけどそうじゃねェ」
「なんなの一体…何が言いたいのルフィ…」
また床に戻ったわたしの視界に、ルフィの足が見えたと思ったら、濡れた頭にぽんと手が乗せられた。いわずもがな、それはルフィの手だ。
じんわりとした温もりが冷たいわたしの頭に広がっていくのを感じながら、ルフィの声色が優しいものへと変わっていくのがわかった。
「後悔なんかしてねェ。結果的に全部良かったって思ってんだ。この力があったからおれは今ここにいるんだ。こうやってあいつらに出会えたのも、この力がなきゃ出会えてねェかもしれねェだろ?」
「ゴム人間じゃなくてもルフィは強いと思うけど」
「当たり前だろ」
「当たり前なんだ」
「じゃなきゃお前らを守れねェからな」
「なにそれ」
「ししし。それにナマエを仲間にできたのも、この力のおかげだしな!だから後悔はしてねェ!」
眩しいなぁもう。そんな風に言われたら、わたし、何も言えなくなるじゃんか。
この力に助けられて、ルフィの心に救われて、だから今わたしもこうしてこの船に乗っているわけで。
「ルフィはわたしがなんの実を食べたか知ってる?」
「知ってるぞ。トリトリの実だろ?」
「モデルはツバメだけどね」
「いいじゃねーか!鳥!空飛べるだろ?」
「そりゃわたし一人だけだと飛べるけど誰かを乗せることなんてできないし、得意なことと言えば雨を読むくらいだし。でもこの船には優秀な航海士がいるから別に読む必要なんてないし…あんまり役に立たない能力だし…」
「だからどうした!」
「だからどうしたって…」
「そんなこと!お前を船から降ろす理由にはならねェぞ!」
また少し怒った声でそう言ったルフィに、わたしは胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。この苦しさは、海に沈む苦しさとはまた違う、どう処理していいかわからない感情にうまく息ができないだけだ。
「ナマエ!お前がおれの手を取ったときから、お前の命はおれのもんだ!勝手に粗末にすんじゃねェ!わかったか!」
どうやらわたしを溺死させるのは悪魔の実でも海でもない。この目の前にいる男だと、今ようやく気が付いたけれど、もう逃れられない場所まで来てしまっていることが絶望のような希望のような。
それは息をひきとる感覚に似ているらしい
そうだ、次からはルフィも道連れに海へ入ってやろう。
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