出勤して病理医の扉を開く一歩手前、何故だかいつもと違う気がしてドアノブを握ったまま手を止める。
かすかに感じる人の気配に森井さんが来ているのだろうか、と不思議に思いながらドアを開けるとふわりと鼻をくすぐる紅茶の匂いがした。
森井さんが紅茶?珍しい…。
「森井さん?」
「ふぁ!?ほふぁほうほはひはふ!」
恐らく"おはようございます"と言ったのだろう。奥からカップを片手に口いっぱいに何かを詰め込んだ女性が出てきた。
持っていたカップから漂ってくる匂いに、紅茶の匂いの正体が判明したのはいいが女性の正体は不明のまま。
「どっ!どちら様!?」
バッと目の前に出された掌が"ちょっと待って"を意味していると気づいたのは、女性が必死に口の中のものを胃へ押し込んでいると気づいたからだ。
そんなに急ぐと食道が詰まりそう…。あぁほら言わんこっちゃない。
苦しそうに胸をたたきながら紅茶を流し込む姿に背中をさすらずにはいられなかった。私と同じくらいの背丈の女性に近づいて最初に目に入った胸の大きさに一瞬で真顔になった。いや私は標準ですけど!?
「ンンッ!すみません。ありがとうございます。申し遅れました。今日と明日のみ臨時でお手伝いに来ました検査技師の名字名前と申します。短い間ですがどうぞよろしくお願いします。宮崎先生」
「えっ!なんで私の名前…」
「それは「はよざいまーす。あ、名前さん久しぶりっすね。来るって聞いてましたが今日だったんすね」
「森井くん!おひさー。今日と明日よろしくね」
「ずっといてくださってもいいんですよー」
「ははっ。ジョーダン!」
「いやマジで」
スン、と真顔になった森井さんの表情に、言わんとしていることがわかった私と女性もまたスン、と真顔になった。
紺色の薄いカーディガンを羽織ってはいるものの、よく見れば森井さんと同じ検査技師の制服を着ている女性、もとい名字さんは何度かここに来たことがあるようだ。
ふと名字さんと目が合うと嬉しそうに目を細めて笑った表情に同性であったとしても思わずドキッとした。
「むさくるしい場所に女性の先生が来てくれて嬉しいなぁ。宮崎先生!めげずに頑張ってくださいね!」
「宮崎先生が来てくれたことだしこの際名前さんも移ってきたらどうです?」
「いやぁジョーダン!」
「いやだからマジで」
無言で森井さんと攻防を繰り広げる様子を眺めているとガチャと扉が開き岸先生が入ってきた。
その音に名字さんが振り返り岸先生とお互い無言で見つめ合っていた。最初にその空気を壊したのはニコリと笑った名字さんだった。
「岸先生おはようごいざいます。今日と明日、よろしくお願いしますね」
「………。あぁ。はいはい」
いつもより人数の多い病理室でいつもと違う空気が漂う中、いつもとは少し違う一日の始まりが訪れた。
森井さんが読み上げる今日のスケジュールを聞きながら名字さんがパタパタと動き出す。
「いやぁ今日は徹夜回避間違いなしだなぁ」
隣でそうもらした森井さんの言葉を拾って名字さんを見ると、先ほどの人当たりの良い笑みはどこにもなくもくもくと作業をこなしていた。
その手際の良さとスピードは森井さんと同じくらいだ。
「森井くん。急ぎの分は森井くんがやっちゃって。急がないやつを全部こっちにまわしてくれたらいいから」
「いやぁ頼もしい」
「エースが何言ってんの」
二人とも口を動かしながらも手は休めずに仕事をこなしくていく。
こりゃ森井さんが徹夜回避と嬉しくなるのも頷ける。
「そういえば名前さん。今日の昼っていつものアレだったりします?」
「ん?あー…ごめんねぇ。今日はないんだぁ〜」
「え!」
「「「え?」」」
なんの話かつかめずにいるため聞く側に徹していると、同じように話を聞いていたのか岸先生が一人びっくりしたように声をあげた。その反応を聞いて他三人が音の出所へと振り返る。
呆然と名字さんを見つめていた先生はバツが悪そうに視線を泳がせたあと、ボソッと「ショック…」と呟いてもそもそと作業に戻っていく。先生のこんな反応、レアだ!レア!
「ふふっ。なんちって〜」
「………はぁ。そういうのよくないと思う」
「なんのことでしょうか〜。あ!宮崎先生の分もあるのでご心配なく!」
「え!私の分ってなんですか!?」
「名前さんが作ったお昼ご飯」
「え!ご飯!」
「もしかして何か持って来られてます?」
「いや!何も!食堂かカップ麺にしようかと思ってました!」
そう答えた瞬間、今までにこにこ笑っていた名字さんが急に冷ややかな視線をそそいできた。
何か地雷を踏んだようです。
「ホント病院で働く人はなんでこうも不摂生が多いのか…。今日明日だけでもちゃんと栄養あるもの食べてくださいね。お口に合うかはわかりませんが」
「名前さんのご飯マジで美味しいんで期待して損はないですよ」
「え〜?嬉しいこと言ってくれるじゃん森井くん〜!じゃあ明日は森井くんのだけちょっと豪華にしようかな!」
「わ〜!私お昼がこんなに楽しみなの久しぶりです!」
こんなにお昼の時間が待ち遠しいのはいつ以来だろうか、とまだ見ぬお昼ご飯に想像を膨らませていると岸先生から控えめに言葉が発せられた。
「森井くんだけズルい」
「何がでしょう〜」
「僕だって美味しいって思ってる」
「そうなんですか〜?初耳です〜」
「なんか今日いつにも増して僕に冷たくない?」
「心当たりないんですか〜?」
「………?な「ありますよね?」
名字さん顔は笑顔なのに醸し出す空気がヒヤ〜としていてあの岸先生が押し黙っている。
この二人、なんかある!
「森井さん。あの二人って…」
「友達以上恋人未満って感じっすね」
「付き合ってはないと?」
「名前さんは否定してますね」
「へ〜」
ん?名字さんは?え、じゃあ岸先生は…?
そんな疑問を抱えながら迎えたお昼ご飯。
岸先生と森井さんには白米だけが入ったものが渡され、二人の真ん中にはそれぞれ色んなおかずが入った大きなタッパーが3つ置かれていた。
私はというと捨てれる容器に入った一人前のお弁当。おかずは男性陣に出したものと同じだったが唯一違うのはフルーツの盛り合わせが別で渡されたことだった。
みんなでいただきますをして食べ進め、私の第一声は「うまっ!」という大きな一言だった。
おかずや野菜、彩も量も丁度良いそれは食堂やカップ麺に飽きていた今身に染みる味だった。
私に渡したお弁当より一回り小さい容器で食べる名字さんに賞賛の言葉を送り続けると「恥ずかしいからもうヤメテ」と怒られてしまうほどだった。
「俺これ好きなんすよね〜」
「あぁ、菜の花のワサビマヨね」
「わっ私は!えっと…えっと…!あ〜〜〜!全部美味しくて選べない!」
「宮崎先生はかわいいなぁ〜」
「ええっ!?私のどこがっ!?名字さんのほうが可愛くてお料理もできてお嫁さんに来てほしいくらいですよっ!」
「何言ってるんですか宮崎先生は〜!」
「いやだから僕いつも言ってるでしょ?はやく僕んとこ来たらいいのにって」
「「「………え?」」」
岸先生以外の全員、時が止まったようにフリーズした。
「初耳ですけど…」
「そうだっけ?言ってなかった?」
「びょ!病理に!病理にってことですよね!?」
「いや?嫁に」
「ほええええええええ!?!?」
「よけい初耳だわ」
突然のことに頭がパニックになっているのはどうやら私だけのようで、なぜか当事者二人はとても冷静だった。
森井さんは「先越されたー最悪ー」と呑気に言っていたがどうしてみんなそんな落ち着いていられるのか不思議でしょうがない!
だってあの!あの岸先生がこんな大っぴらにそんなこと言う!?
「で?いつ僕んとこ来るの?名前」
「態度がなってないからダメ。やり直し」
「ふーん。じゃあこの態度直せばオッケーもらえるってことだ?」
「ハッ!いっ今のなしっ!!今のなしーっ!!」
「今なら俺世間が言うリア充爆発しろって気持ちがわかる気がします」
「私もです」
あとで聞いた話だけども、森井さん曰く名字さんの臨時のお給料は岸先生のポケットマネーで支払われているらしく、時折こうして呼ばれてくるのだそう。
どこから繋がった縁なのかは森井さんも知らないらしいが岸先生が名字さんが逃げられないように外堀を埋めに埋めて自分のところ以外の逃げ場をなくしたそうな…。
それなんてホラー?な話だが本当のことなのだそう。
っていうか名字さんが今日来ることも、そもそも臨時で検査技師さんが来ることも全部初耳だったんですが!ほんとそういうところですよ岸先生!
岸先生、初耳です!!
もういろんな意味でごちそうさまでした。
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