ゆっくりと震えるように開かれた目は、宝石のルビーのように太陽の光を吸収しキラキラと輝いていた。そんな青年の視界に一番に飛び込んできたのは、眩しいくらいの青空だった。
さわさわと心地良く吹き抜ける風に、遠くで聞こえる人々の荒々しい声。その中で二度寝を決め込もうとする青年の瞳が今まさに閉じかけたとき、どしんどしんと恐竜でも歩いてるのかと思いたくなる足音が響いた。
まさか気付かないうちに特撮映画の撮影現場に来てしまったんだろうか、と慌てて上体を起こした青年の目が点になる。
じっ、と青年を見つめる大きな瞳。そのあまりにも大きすぎる眼球に、反射した青年の間抜け面がはっきりと映し出されていた。しかしこの青年、間抜け面とは言え、それさえも絵になるほど整った顔立ちをしていたのだった。
青年は顔だけを固定したまま、目だけを見える範囲すべてに移動させ、そこから情報を得た。そうして自分が屋根の上にいるのだと理解した。その屋根の上にいる青年の目の前にある大きな顔は、見た目は人間が巨人化したようなソレだけれど、どうも何かが違う。
「なんで裸なの?」
ここに第三者もとい、青年の身内である血を分けた弟がいれば「着眼点はそこなの?」と呆れかえっているであろう。しかし残念ながら今ここに青年の純粋なボケに冷静かつ鋭い突っ込みを入れる弟はいない。
こて、と首を右に倒して青年が問いかけると、目の前の巨人も同じようにこて、と首を倒した。言葉は通じているのだろうか?
「っていうか、ここ何処?イタリア…じゃ、ないよねぇ。なにあの壁みたいなもの…」
ようやく頭ごと動かして見渡した景色に、まるで景観を邪魔しているかのように連なる壁のようなもの。それを目で追いかけてみるも、ずっとずっと周りを囲むように繋がっているようで、それは途切れることなくはるか向こうまで続いていた。
「万里の長城かっての。なぁ?」
いまだにこて、と首を倒したままの巨人にそういうも、返事はない。どうしたもんか、と頭をかきながら青年は目の前の巨人を観察した。
あまり敵意の感じられない視線を受けながら、青年はまずどうしても聞かなければいけないことが一つだけあることを思い出した。それを聞かないことには始まらない。
いまだに相手からちゃんとした言葉を聞いていないだけに、青年が質問をしたとして、それに答えられるかどうかはわからない。けれど、聞かずにはいられない。それは青年が今までのスタイルを貫き通すのにとても重要な質問だったからだ。
ざわざわと木々が揺らめくのを聞きながら、いつものようににっこりと、虫すら殺さないような柔らかい笑みを張り付けて、青年は目の前の巨人に問う。
「それより一個だけ聞いていい?」
「………」
「お前、"人間"か?」
瞬間、巨人の体に雷が落ちたような、そんな電撃が走った。弾かれたように繰り出された長い腕が、青年めがけて振り落とされる。
そうなることがわかっていたかのように、難なくそれをひらりとかわした青年は、くるりと後ろへ一回転し、音もなく着地する。その際、隠し持っていた短刀で迫ってきた指をいくつか切り落としていた。
「へぇ、案外簡単に切れるんだね。もっと硬いと思ったけど呆気ないなぁ」
そうして心底楽しそうに笑った青年には、返り血すらついていない。いつものように切り刻んだ快感に浸る間もなく、青年は驚愕の光景を目の当たりにした。
自分が切り落とした巨人の指が、もう生えようとしていたのだ。じゅわじゅわと蒸気のようなものを発生させながら、血は出ているのに痛がる様子もない。
「え?ん?ちょっとちょっと、なんか指生えてない!?え?おかしくない?普通生えないでしょ!っていうかもっと痛がってよ!指切り落とされたんだよ!?えー?もしかして痛覚がない?それともただ鈍いだけ?」
巨人について一人ぶつぶつと考えながら振り下ろされる指やら腕やらを、短刀でほいほいと切り落としていく。けれどそのたびに、じゅわじゅわと音を立てながら修復されていく様子を見て、青年は目を輝かせた。
「すごい!すごいねお前!なんで回復するの!?そんな人間がこの世のいていいのかい!?ブラボー!まさにボクの最高のおもちゃになりえるよ!」
すごいすごい!とはしゃぐ青年を見つめる大きな瞳が、少しだけ困惑の色を見せたけれど、青年はそれどころではなかった。目の前の巨人をいかに自分のものにするかを考えていたのだ。
「ボクが人間に興味を持ち、その上生かして傍に置くために頭を使うなんて!こんなすごい日はないよ!お前は今、ものすごい瞬間に立ち会えているんだよ!わかるかい!?あぁそうだ、つまりはボクとお前が家族になるってことだ!そうだとしたらまずは名前だ!名前を決めないと!お前に名前はあるのかい!?」
「………」
「名前だよ名前!あるなら言ってごらん!ボクが気に入ったらそのまま呼んであげるからさ!ほら、ワッチュユアネーム!」
「………」
「ないのかい?いいよ、ならばボクがつけてあげよう。んーっと、そういえばお前って女なの?男なの?胸…はないから男だよね。女みたいな顔してるけど。あ、っていうか裸なら下見れば早いんじゃね?そうだよ!いやでもこんだけ巨人なら性器も相当なんだろうなぁ…ちょっとグロテスクだけど興味ありまくりだよ!ん?あれ?ついてない、ね?え?ついてない?隠れてるとかそこだけ人間サイズとかそういうもんじゃなくて?毛すらはえてないよ?…え?マジでついてないの?え?どういうこと?なんでなんで?」
屋根の淵から身を乗り出して巨人の股間を見ている青年の頭はがらあきだ。
その隙を目の前の巨人が無駄にするはずもなく、いまだに巨人の性器がないことに多大なるショックを感じている青年は、切り落とされた指が復活している腕によって何度目かの攻撃を仕掛けられていた。
押し寄せる腕による風圧で、攻撃がくることがわかっていた青年は、寸のところでひらりとかわし、またもズタズタに腕を切り落とす、…つもりでいた。
けれど青年がそう動くよりも先に、巨人がゆらりと傾いて青年の視界から消えていったのだ。どしん、と巨人が倒れると、全身から蒸気が立ち上がり、そうして二度と起き上がることはなかった。
その様子を茫然と見つめていた青年の隣に、ガシャガシャと屋根を踏み鳴らしながら誰かが近づいてくる。
肉が溶け、骨が見え、じゅわじゅわと消えていくさっきまで巨人だったものを見つめ、青年は絶望の色を顔に宿した。
「大丈夫!?怪我はない!?」
駆け寄ってきた一人の人間を視界に入れた青年は、小さく小さく大丈夫、と返した。
さっきまで見ていた巨人ではなく、今度は聞かずともわかる人間に、青年はいつもの質問をすることすら放棄し、ただただ巨人だったものを見下ろしていた。
「ここは危ないから早く安全なところへ!っていうかそんな短い刃一つでよく巨人に食べられなかったね!?強運すぎるよ!」
慌ただしく声を出すほうへ視線を向け、青年の赤い瞳と視線を交えた人間は、ぐっと押し黙った。そして興奮気味だった自身を落ち着かせ、冷静さを取り戻しはじめた。
この異様な状況について疑問点がいくつか芽生えたのだ。ここで生きる人間にとって脅威である巨人を相手にし、これほどまでに無傷で済む青年の佇まいに、ただならぬものを感じたのだ。
「その…変なこと聞くようだけど…、あなた、人間?」
その聞きなれたフレーズが、まさか他人の口から、そして自分に降りかかるなんて思いもしなかった青年は、はっとしてそれを問うた人物へと向き直った。怪訝な表情で青年を見つめる視線に、青年はネジが外れたように腹をかかえて笑い出した。
「ぶはっ、あはははは!なにそれ!あはははは!おっかしー!それってばボクのセリフなのに君が言うなんて!こんなこともあるんだね!いやぁ人生って何があるかわかったもんじゃないね!やはり人生は謳歌するべきなんだよ!こんな衝撃的なことが重なる日なんてないよ!ははは!最高だ!」
「え、ちょ、あの…頭大丈夫?」
「いやぁ、今日は間違いなく人生で最高の日だ。ありがとう、君のおかげだよ」
「え?はぁ…どうも…」
「そして、あの巨人のおかげともいえる。もう会えないけれど。あの子といてボクは最高に楽しかった」
「えっ!?」
「そうだ、君に質問したいことがあるんだ。聞いてもいい?」
「え…」
「あの子は切っても切っても修復と回復を繰り返してさ、全然死なないんだよ。だからボクのおもちゃにしようと思ってどうやったら捕まえられるかを考えていたんだ。名前だってまだ決めてなかったんだよ?なのに君がいとも簡単に殺してしまった。それはどうして?あの子は何故死んだの?どうやって殺したの?もしかしてどこかに弱点があったりするの?君が人間でボクの標的対象だとしても、まずはそこを教えてくれないと君を殺すに殺せないよ」
こて、と首を右に倒した青年は、心底不思議そうに、かつ当たり前のようにそう述べた。
それを聞いて先ほどの巨人のようにこて、と首を倒す可愛げを持ち合わせていなかった人間は、ただただ青年の言葉に困惑し、そして疑問しか浮かばない。
けれどそれは一般的な普通の人間だったなら、の話だ。
目の前の人間、もといハンジ・ゾエは一般的な人間ではなかった。だから青年が放った言葉の意味を理解し、そうして青年が普通じゃないことを瞬時に悟ることができた。
「全ての質問に答えてあげてもいい。けれどやっぱりここは危ないし落ち着かないから場所を移そうと思う。それでいいかな?」
「うん、いいよ。そのあとなら殺してもいい?」
「それは私のことを言ってるのかい?」
「そうだけど?だって君人間でしょ?」
「………、とりあえず、あなた丸腰だから私に捕まってくれないかな?じゃないと移動できそうにない」
「え、そんなあっけなく背中見せちゃうの?そんなに早く死にたいの?」
「違うから!ほら、あの壁まで行かなきゃいけないんだから早くして!」
「どうやって?」
「どうって…、もう!全部の説明はあっちでするからさ!」
「怒らないでよ〜」
「危機感足りないからだよ!ああもう!言わんこっちゃない!別の巨人がこっちに来たじゃないか!」
「ねぇ、あの巨人捕まえられない?さっきの子死んじゃったから別にあの子でもいいよ。ボクのおもちゃにしたいんだ。あ、間違った。家族にしたいんだ」
「はぁ!?今は無理!」
「なら後ならいいの?」
「ほら早くして!」
「もう、せっかちだね〜。せっかちな男は女にモテないよ?まぁボクの場合そんなことはどうでもいいんだけどさ。っていうか君って男?女?さっきの巨人もそうだけどなんか性別っていう壁を越えてるよね。あ!そうそう、巨人って性器がついてないの?さっき見た限りだとちゃんと見えなくてもしかしてそこだけ人間サイズだったりしない?それとも「興味深い視点と思考だけど今はちょっとホント黙って!後で全部答えてあげるから!」
渋々ながら自分の背中にひょいっと捕まった青年を確認すると、ハンジは立体起動を駆使して今のところの安全圏である壁へと向かった。その際後ろにいる青年が立体起動に大はしゃぎし、危うく巨人のエサになりかけたりもしたが、なんとか仲間が待つ場所まで辿り着けることができた。
なんとも言えない疲労感がハンジを襲うが、それどころじゃなくなったのは背中に背負った青年が醸し出す空気ががらりと変わったからだ。調査兵団の面々が押し寄せるその場所は、青年にとって人間という標的対象が多すぎたのだ。
そのため殺戮衝動に駆られる青年の心情は穏やかではなくなり、ハンジの指先がピリピリと微弱な電磁波のようなものを感じていた。やばい、と本能が警告しているが、どうにもこうにもその元凶を背負っている所為で動きようがない。
「聞くまでもないけど一応聞いておくよ。ボクのポリシーでもありそれを聞かずとしてボクは動けないからね。でさ、君たちは、"人間"かな?」
厄介なものを連れて帰ってしまった、と後悔してももう遅い。巨人が人類を支配するこの世界で、人類を脅かす存在は巨人だけではなくなったのだ。
青年、折原名前という人間嫌いをこじらせた人間が、なんの因果でこの世界へ落とされたのか。それについて答えられる者など誰一人として存在しなかった。
残酷な世界で生きる人類に、幸か不幸か、青年の存在がこの世界に亀裂を入れたことだけは確かだった。
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