ヒーローがいなくなったトレーニングルームは思ってた以上に静かで広く感じた。これからここがわたしの居場所となるのだ。
急ピッチで作り上げたにしては上出来の部屋に、わたしの要望したものが次々と運び込まれていく。白を基調とした保健室らしい部屋の割に、黒革のソファーやテレビ、冷蔵庫なんかが置かれる度にどんどんと保健室らしさから遠のいていく。

ファイルや資料、カルテなどの書類が大量に入った段ボールに混じって、わたしの私物が入ったものまでもが部屋を覆いつくすように置かれていって足の踏み場がない。
部屋の外に飛び出した荷物も明日までには全部片付けなくちゃいけないなんて、そんな鬼畜な指示を出すのは彼女しかいない。


「ねぇアニエスさん。わたし一人でこれを全部片付けるのは無理がありますよ」
「あなたがちゃんと9時に来ていたらもっとスムーズに事は運んだわ」
「で、ですよねー…」
「まぁせめて外にはみ出した分はちゃんと中に入れときなさいよ」
「っていうか書類ばっかなんで別に箱から出さなくてもいいですよね」
「それはあなたに任せるわ。今日からここがあなたの部屋なんだし」


そう。今日からここが、わたしの部屋。医者としてのわたしが存在できる場所。


「それはそうと名前」
「はい」
「体調はもう大丈夫なの?」
「はい。おかげさまで」
「まったく。これからは今までのようにはいかないのよ?気を引き締めなさい。もういい歳なんだから」
「アニエスさんよりは若いですよ」
「一言余計よ?」
「いだいいだいいだい!ぼっべいだい!」
「折角の人が心配してあげてるのに態度がなってないわ」


ぎゅうっと思いっきりつねられたほっぺはヒリヒリと痛みを訴える。しかも彼女の綺麗にとんがった爪が食いこんでて更に痛かった。これ絶対赤くなってるよなぁ。

わたしの体温を吸収しすぎてもはや冷やす目的を忘れた冷えピタをはがし、ゴミ箱へと放り投げる。お疲れ様でした、と帰っていく業者さんに挨拶をしていると、いつの間にかわたしと彼女しかいない状態になっていた。


「アニエスさん。本当に、色々とありがとうございます」
「お礼を言うのはまだ早いわよ。あなたにはやるべきことの成果をちゃんと残してもらわないといけないんだから。サボるとクビだから真面目にやることね」
「わーお。相変わらず素直に感謝を受け取らない人ですね。まぁそれでこそアニエスさんなんだけど」
「よくわかってるじゃないの。じゃ、後は一人で頑張りなさい」
「はい。遅くまで付き合わせてしまってすみませんでした」
「本当にね。わたしの24時間を占領したお礼なら受け取るわよ?」
「容赦ないなぁ…また今度、おごりますよ」
「楽しみにしてるわ。また明日ね」
「はい、また明日」


誰もいなくなった空間に一人、片付けるか、と意気込んだものの、数分で飽きてしまう。一人でもくもくと作業していると思いださなくていいことまで思い出してしまうし、見たくない資料だって出てくる。なんだかヤル気が起きないなぁなんて。
外で一服でもするか、と白衣のポケットに愛用してる煙草とジッポを忍ばせてジャスティスタワーから抜け出した。夜の街を照らす街灯の下でぐっと伸びをして一息入れる。

この街にいると時々息がつまりそうになる。死にたくなる。明日なんていらなくなる。けれどわたしが必死に足掻いて今日を生きる理由は、左手の小指にはめられた指輪にある。

はぁ、と溜め息をついて考えるのをやめた。ポケットから煙草を取り出そうとしたとき、あれー?と間延びした男性の声が聞こえた。


「先生じゃない」
「ワイルドタイガーさん」
「いや、今の俺はそっちじゃないからヒーロー名は遠慮したいんだけど?」
「それはすみません。鏑木さん」
「お、知ってくれてんの?嬉しいねぇ」
「一応わたしの患者さんですからね」
「そりゃそうか。っていうかまだいたんだ?帰らねーの?」
「帰りたくても帰れないんですよ。片付けがあって」
「あー…明日になったらわかるって言ってたやつか」


ふわりと風にのって漂う空気の中に、微量のアルコール臭がして、ああこの人飲んでるんだと漠然と思った。いいなーわたしも飲みたいなー。


「鏑木さん」
「んあ?」
「これから帰るんですか?」
「んー…まぁそんなとこ?これといって行くあてもないし?」
「それなら、わたしと飲み直しませんか?おごりますよ」
「いやいやいや!え?未成年じゃないよね?」
「未成年で医者とかやっていけませんよ」
「それもそうか」
「美味しいとこ知ってるんです。それに、丁度退屈してたんで相手してください」
「そこまで言うなら、乗ってやらんこともねーなぁ〜」
「じゃあすぐ行きましょう!」
「え?その格好でか?」
「はい」
「っていうか今日二日酔いでグダグダだったくせにまだ飲むのか?」
「お酒ってね、飲みたいときに飲まないと美味しくないんです。我慢は禁物ですよ?」


ニヤリ、と笑ったわたしに同じようにニヤリと笑い返すワイルドタイガーに、大丈夫、わたしの思惑はバレてないようだ。飲まなきゃやってられない。そう思った時のわたしの飲みっぷりは凄いんだから。今日は帰しませんよ?

心の中で明日は二人して二日酔いだなぁなんて考えながら、そんなことになるとは思ってないだろう彼を引き連れて行きつけのバーへと向かう。

アニエスさんが般若のように怒り狂う姿が今からでも安易に想像できた。一緒に怒られましょうね、ワイルドタイガーさん。ここでわたしと出くわしたのがあなたにとって運の尽きなんですから。



Day when tiger became cat

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