珍しくコナンくんと談笑する彼女を、カウンターで作業をしながら眺めていたときだった。
多少荒々しく開いたポアロのドアに、視線がいき、常套句を口にしようとしてそれは叶わなかった。
「れい!」
ドアを開けた男性がそう口にした瞬間、体が強張るのがわかった。それでも直ぐに平常心を取り戻せたのは、その男性が自分を見てそう言ったわけじゃないと理解したからだ。
では誰のことを呼んだのか。男性の視線の先を辿ると、訝しげな顔をする彼女がいた。
「れい。仕事の話がしたいんだ」
そう言って彼女に近付く男性と、笑顔を引っ込めた彼女の顔を交互に見たコナンくんが、お兄さん、と男性を呼んだ。
「れいって弌さんのこと?」
そう言いながらもチラリと僕を見たコナンくんに、何故こっちを見るんだとジト目で返す。さっと僕から目を逸らしたコナンくんに、内心ため息をついていると、男性がそうだよ、と肯定しながら彼女の前へ当前のように腰をおろした。
彼女の顔から、依然笑顔は消えたままだった。
「弌さんはれいって名前なの?」
子供らしく彼女に聞いたコナンくんに、彼女はようやく引っ込めていた笑顔を滲ませた。が、それはにったりとした、言うなれば嫌な笑い方だった。まず子供にする笑い方ではない。現にコナンくんの顔が引きつっている。
「そうだよ。それは中学時代のニックネームの一つなの」
「ど、どうしてれいなの?」
「あぁ、それは「それはコイツが幽霊だからさ」
彼女の言葉を遮って、男性がそう告げる。
告げられた言葉にコナンくんは僅かに顔をしかめた。けれどすぐに元に戻して子供の特権をフルに使ったあざとさで、コナンくんの中で引っかかった何かを解決しようとしてる顔だった。
「ボク、弌さんの中学時代が知りたいなー!どんな学生だったの?」
わざとらしく元気良く話すコナンくんの口振りに乗っかるように、彼女は満面の笑みで「教えてあげる!」と身を乗り出した。
その様子を間近で見ていた男性が心底驚いた声をあげた。
「え!?」
「え?」
不思議そうに彼女が男性を見ると、男性は声のトーンを落としながらやめとけよ、と言った。コナンくんはすかさず男性にどうして?と聞き返した。
「だってあんな学校生活、子供に聞かせるわけにはいかないだろ…」
「あんな学校生活って?」
「………、いい思い出なんか一つもないから、聞いたって何も楽しくないぞ?少年」
彼女のことを、なぜ男性が代わりに答えるのか。コナンくんもそのことが気になったのか、男性の言葉に返事をせずに彼女の様子を伺うように見上げた。
彼女は少し首を傾げていた。なんだかその空間がとても奇妙なものを作り上げていた。
「わたし、中学はめちゃくちゃ楽しかったんだけど…」
彼女の返答に、男性は少しだけ感情的になった声色で「は?」と言った。
「高島たちにされたこと忘れたのか?高島だけじゃない。教員だってお前のことっ…!」
男性の口振りからして皆を聞かずとも彼女の中学時代がどういうものであったのかはなんとなく予想がついた。
けれどそれを過ごしてきたはずの彼女が、中学は楽しかったと答えている。我々が勝手に憶測した状況と異なっているのだろうか?
「何をされてたの?」
コナンくんの口調が強くなり、さっきまであった子供らしさがとんと消えた。彼女はまたにったりと笑った。
「きっかけは肩がぶつかったの。それに対してすぐに謝ったんだけど、高島さんはすごく痛がったの。でもわたしはぶつかったことに対してすでに謝ったあとだから、お大事にと言ってその場を去ったの。そしたら次の日上靴がなくなって、その次の日には体操服がなくなって、その次の日には教科書やノートがなくなったの。日を追うごとに何かがなくなっていって、最後には居場所がなくなったの。ならばいっそのこと存在も消してやろうって思って幽霊になったの」
「弌さん!それって!!」
「イジメだって言いたいんでしょう?だけどそれは違うよコナンくん」
「何も違わないよ!」
「違うよ。だってわたし被害者じゃないもの」
「えっ!?」
「わたしは暇そうにしてた高島さんに刺激を与え、高島さんの日常に彩りを与えた。わたしも高島さんからもらう刺激を日々楽しんでいたの。明日は何がなくなるんだろうかって。幽霊になったのは高島さんがどうしても自分の手は汚したくないって言ったから、わたしが自分でなってあげたの。教員もそう。高島さんと一緒になってわたしに刺激を与えるものだから、わたしも相応のものをお返ししたの。そこに加害者も被害者もないのだから、イジメなんてものは起きてないの。賢いコナンくんならわかるでしょう?それにわたし、体調不良以外で学校休んだことないし!」
彼女の言葉に、店内がシンと静まり返った。コナンくんは何とも言えない表情で彼女を見つめていた。男性の表情はこちらからはわからないけれど、言葉が詰まっている状況からして良いものとは思えない。
しかし彼女だけは楽しかった思い出を振り返るかのように笑っていた。
「はは…そうか。そうだよな。辛い記憶なら書き換えられて当然だよな。なにも、驚くことはないさ…」
自分に言い聞かせるように男性が言った言葉を聞いた瞬間、また彼女から笑顔が消えた。
「俺が助けてやれればよかったのに、俺にはそんな勇気がなかった…だからお前の心に深い傷を負わせたんだ…」
そう言って落ち込む男性の背中越しに見た彼女の瞳は酷く冷たいものだった。
仮にも、自分を庇護するかのように話す同級生の言葉を聞いて、こんなにも冷めた表情ができるだろうか。
「弌さん…」
「なあに?」
「どっちが本当のことを言ってるの?」
「あら?あらあらあら?疑われてる?」
「だって…」
コナンくんの言いたいことはすごくよくわかる。だが拭えぬ違和感があることは確かだった。
見るに堪えなくなって、僕はカウンターから出て彼らの元へ向かった。
「まず最初に、男性が”あんな学校生活”と言ったものだから、その時点で普通ではなかったのだと固定観念が生まれてしまった。そして弌さん自身が楽しかったと答えた中学時代は、傍から聞くとイジメのようにも聞こえる。けれど弌さんは違うと答える。だけど男性が”辛い記憶を書き換える”と言うものだから、弌さんが精神的ストレスで記憶置換を起こしたのだという結論に至る。そんなところかな?コナンくん」
僕の言葉に力なくうんと頷くコナンくんを見て、彼女は僕を見上げるとにったりと笑った。
「安室さんはどっちだと思う?」
そうきたか。内心、僕は彼女が嘘をついているように見えないけれど、男性の言葉を聞いて本当に記憶を書き換えたのではないかと思った。
何も答えずにいる僕に、彼女は更ににったりと笑った。
「上靴がなくなればスリッパを履けばいい。体操服がなくなれば制服で出ればいい。教科書やノートがなくなれば内容を全部記憶すればいい。記憶するだけで済むなら机がなくなったところでなんの問題もない。居場所がなくなれば自分で作ればいい。存在がなくなればわたしもみんなも自由に過ごせて良い事づくめ。楽しい楽しい学校生活を送れるわけ。ね?」
「…弌さんは普通じゃないですね」
「そう捉えてしまうのはあなたたちが日本という世界に身を置くからよ。わたしの行動や精神が異常なものだと思ってしまうのは、この国の”普通”とする基準が生まれたときから叩き込まれているからそう感じるだけ。だからそう思ってしまうことを責めたりはしないわ。高島さんや教員を加害者と思ったこともないし、自分を被害者と思ったこともない。わたしにとって彼らと過ごす日々が楽しくてしょうがなかったから、責めようもないじゃない?」
まるで自分が狭い箱の中にいるかのような錯覚を起こす。彼女も生まれた時からこの国で過ごしているはずなのに、まるで自分だけ違うみたいな言い方をする。
責めたりしないと言っておいて責められているように感じるのは、僕の中の”普通である基準”に彼女の言葉が突き刺さったからだ。ここにいる誰もがそれを感じただろう。
「何言ってんだよお前…俺の所為でこんな風になっちまったのか…?」
信じられないモノを見るかのように、男性の手が少し震えていた。男性を見る彼女の視線は、いつにもまして冷たかった。
「そんなに信じられないなら、卒業アルバム見る?」
どこから出したのか、彼女は中学時代の卒業アルバムを取り出し、自分のクラスのページを探して僕らに見えるように机に広げてくれた。
「これが当時の桐島くんだね。彼は生徒会に入ってたんだよー。クラス委員だったし。そしてこれがわたし。見て?超楽しそうに満面の笑みで映ってるでしょう?楽しくなかったら、こんな顔できないと思うけどなぁ」
懐かしむようにアルバムを眺めて、集合写真などで自分が映っているところを指さしで教える彼女の写真には、本当に楽しそうに笑う女の子がいた。
どの写真も常に笑っていて、彼女が辛い中学時代を過ごしたなんて話はデタラメだったのか思うほどだった。
だけどどこか、異常さを感じる。同じことを思っているのか、コナンくんと目が合った。僕と同じことを思ってるのか確かめるような視線だった。
「ふざけるなっ!」
急に荒々しく声をあげた男性は、彼女からアルバムを奪いとって投げ捨てた。
あまりの唐突な出来事に僕もコナンくんも唖然とした。彼女は、男性を見てにったりと笑った。
「全部合成だろ!?このためだけにお前が作ったんだろ!?そんなにお前を救えなかった俺を責めたいのかっ!?」
男性の言葉に、彼女は首を傾げる。
「何度も言ってるけど、わたし中学校はめちゃくちゃ楽しかった記憶しかないんだってば。そもそも桐島くんに助けを求めたことなんて一度もないんだから、救うとか責めるとか最初から存在しない言葉だよ」
「お前…有り得ねぇ…ははっ…なんだよそれ…。人間じゃねぇな………」
力なくこぼれた言葉を聞いた彼女が、何を今さら!と言って盛大に噴き出して腹を抱えて笑い出した。
嫌な汗が、すぅっと流れていくのを感じた。
「なにがおかしい!?」
「わたしが人間じゃないって桐島くんはちゃーんと知ってるじゃない」
「は、ぁ?」
「だってずっと、わたしのこと”霊”って呼んでたじゃん。最初からわたしを人間扱いしてない桐島くんに、人間じゃないって罵られる意味がわかんなぁい」
にったり、にったり。
彼女の嫌な笑みが一層深くなる。
「あれ?でも待てよ?わたしを幽霊だって思って接してるってことは〜…。桐島くん、ずっと、誰と喋ってるの?」
刹那、目の前にいる彼女が消えた。いや、実際は消えてなどいない。視界として目が映す空間に確かにいるはずなのに、存在がない。
それは今まで経験したことのない奇妙な感覚だった。『彼女はここにいる』と強く信じないと『そこにいるのは誰だろう?』『果たしてそこに誰かいただろうか?』と思わせる何かがある。
うわぁ!と声を荒げて男性が立ち上がり、ガタガタと体を震わせながら一歩、また一歩と離れていく。何故この男性は怯えながら後退していくのだろうか、と疑問に思ったとき、彼女の声が聞こえてハッとした。今、確実に僕自身彼女の存在を忘れていたのだ。
「やだなぁ。どうしたの桐島くん。おばけでも見たような顔しちゃって」
声は確かに聞こえるのに、彼女の姿は目に映っているのに、彼女が確かにここにいる確証が持てないことが酷く気持ち悪い。
声にならない声を発しながら喫茶店の入り口へ必死になって向かう男性の背中に、彼女は「桐島くん」と呼び止めた。その一言から、今まで不確定だった彼女の存在が、確かにここに在ると感じることができた。
男性は荒くなった息を整えることもせず、彼女のほうへ振り返ることもせず、かといって店から出ることもせず、彼女の次の言葉を待っていた。
「さようなら」
とても柔らかく、慈愛に満ちた表情で彼女はそう言った。別れを告げる言葉を、何故こうも幸せそうに伝えることができるのだろうか。今までの一連の流れを見ていて、彼女がこの表情で別れを告げる意味がわからなかった。
男性はゆっくりと扉を開けて喫茶店から去っていった。その背中を見送る彼女は、笑顔を絶やさずひらひらと手を振っていた。きっと、あの男性は二度とここには来ないだろう。理由はわからないが何故だがそう確信できた。
「弌さん…あの人…」
「彼はもう二度とわたしの前に姿を現さないし、このお店にも二度と来ないから安心してよ」
「………どうしてそう思うの?」
「コナンくん。わたしが異常だと感じてるのはわかるよ。でもね、彼と遊ぶのはもう飽きちゃったし、何よりもずっとつまらなかったから…さよならしただけだよ。時には見切りをつけることも大事だからさ」
「あの人は弌さんに何をしたの?」
「彼はわたしを被害者に仕立て上げて、自分が正義になりたかっただけなの。親のコネを使って学校、教員、生徒に圧力をかけて”わたし”という被害者を作り、自分が弱き者を助ける強き者を演じたかっただけ。すべてを自分の都合のいいように解釈をし、誰かを下に見立てることで自分の築きたい地位を作り上げていった。本当に記憶を書き換えていたのは彼のほうだと言うのに、あたかもわたしが精神的ストレスで病んでいるかのように見せかけて、手の込んだ虚像を生み出したの。最初はそれすらも楽しんでいたのだけれど、彼ストーリーを展開していくセンスが皆無でね。飽きちゃったの。だから、さよならしたんだよ」


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