その日の夕焼けはとても綺麗だった。
誰かの掘った穴に落ちてしまった私は、丸くくり抜かれた空を見てそう思った。後にその穴が蛸壺と呼ぶのだと知るけれど、私にとって蛸壺だろうが塹壕だろうが、落ちてしまえばそれは落とし穴と呼ぶ以外にない。
入園してまだ一週間も経っていないというのに、もうこの有様でこの先やっていけるんだろうかと不安になる。
「君は助けが必要か?」
誰がいつ私の存在に気付いてここへ来てくれるのだろうか、とぼんやり考えているところに、くり抜かれた空に一つの影がにゅっと生えた。突然のことに驚いて、一瞬言葉を失ったけれど、もう一度「助けはいらないのかな?」と問われたそれに、思わず「いります!」と答えていた。
聞いたことのない声だった。いや、むしろ聞いたことのある声のほうが少ない現状で、それは当たり前すぎて特に気にすることではなかった。
「君、何も持ってないの?」
逆行でよく見えない表情の人がそう言った。すぐに手を伸ばして助けてくれるものだと思っていたのに、その人はいまだに頭しか出していない。冷やかしだったらどうしよう。くだらない思考ばかりが過る。
「何も持っていないです」
「縄も?」
「縄も」
「苦無も?」
「苦無も」
「煙玉も?」
「煙玉も」
「なんで?」
「なんでって…まだ渡されていないからです」
「…?。あ!そうか!君一年生か!」
「はい」
「そういえばこの間新入生が入るって先生が言ってたっけ。そうかそうか。そういうことなら仕方ないな」
一人で納得したその人は「ちょっと待ってな」と言って顔を引っ込めた。そして何やら遠ざかっていく足音を聞いて、残された私は一気に怖くなった。
さっきまで見ていた綺麗な夕焼けが、だんだん夜の色と混じっていく様が相俟って恐怖を倍増させていく。もしかしてここに取り残されるんじゃないかって、よからぬ想像をしてしまいそうになる。
「お待たせ〜」
そう告げられた後に、一本の縄がするりと降りてきた。どうやらこれで引っ張り上げてくれるらしい。座っていた体制から縄を持ち、土の壁に足をついて登ろうと思ったけれど、それは簡単には叶わなかった。
「痛ッ」
「え?」
「すみません、足が、痛くて…登れそうにないですぅ…」
「なんと」
「どうしましょう…」
「落ちた衝撃で挫いたか。まぁまだ受け身の取り方も教わってないもんな。よし、悪いが君、少し壁際によって一人分あけてくれ」
「え、あ、はい…」
言われた通り、壁に体をぴったりとくっつけて、人一人分ぎりぎり入れるくらいの隙間をあける。これでどうですか?と問いかけるよりも先に、その人は音もなく穴の中へ降りてきて、瞬時に私の体を抱き、縄を使わずに壁を蹴って広い世界へと飛び出した。
瞬き一回くらいの速さだったように思える。一瞬すぎる出来事に、私は「へ」と間抜けな一言しか発することができなかった。ようやく外の世界へ戻ることができた頃には、もう太陽が完全に沈んでいて、それでも隠しきれない光が山のほうで滲んでいた。
「このまま医務室に行っても?」
「は、はい。構いません」
そう言って私を横抱きにしたまま歩き出したこの人は、よく見ると緑色の制服を着ていた。私はその色にとても見覚えがあった。少し深い色の緑の制服は、保健委員会で見た委員長が着てる色と同じだと思った。そこでようやくこの人が六年生だと知ることができた。
「おーい伊作やー。まだいるかー?」
「え!その声は名前!?帰ってきてたの!?」
「ちょっと戸を開けてくれ。手が塞がってるんだ」
「あぁ、ちょっと待ってくれ!っと!うわ!うわわわわ!?」
中から聞こえる善法寺伊作委員長の慌てた声のあとに、何かをひっくり返し、何かが散乱し、何かが倒れる音が聞こえた。戸を一枚挟んだ向こう側で一体何が起きているのか。安易に予想がつくのか、私を抱くこの人は呆れた表情で「うわぁ」と声を漏らした。
少しの静寂のあと、弱弱しく開いていく戸の隙間の奥に人影はなく、私は首を傾げる。下のほうで微かな呻き声があがり、私は慌てて下を見ると、そこには先ほど別れたときよりもボロボロになった伊作先輩がいた。
「大丈夫か?」と酷く呆れを含んだ声で問われたことに対して答えようと顔をあげた伊作先輩は、答えるよりも先に私の姿を見て心底驚いた顔で「乱太郎!?」と言った。
「ん?知り合い?」
「知り合いもなにも、さっきまで一緒にいたんだけど…」
「………もしかしてこの子、保健委員?」
「そうだよ。今年新しく入ってきた一年生でね。今日は顔合わせをしていたんだ。それがさ!聞いてくれよ名前!今年は一年生が二人も入ってきたんだ!これは保健委員にようやく運気が傾いてきたってことじゃないかな!?」
「あぁ、不運な方向に?」
「良い方向に!」
「いや、間違いなく不運な方向だろ。現にこの子委員会の帰りに蛸壺に落ちて足挫いてるんだから。これを不運と言わずになんと言う?」
「…乱太郎、足を挫いたのか。どれ、手当をしよう」
「あくまで認めない、と」
手当をするために降ろされたことで、今まで私を抱いていた人をちゃんと記憶するために見上げると、また夕日が目に飛び込んできた。
茜色とはまさにこういう色のことだと再認識できるほど、とても綺麗な髪色がそこにあった。着ている緑の制服が夕日に照らされる山々のようで、まるでその人がそこに立っているだけで沈んだはずの夕焼けの景色を見ているようだった。
「あの、ありがとうございました。えっと…」
「ん?あぁ、黒門名前と言う。礼には及ばないよ。猪名寺乱太郎くん」
「え!どうして私の名前!」
「そりゃ、君がこの学園に入学してくれたのだから、覚えないわけにはいかないさ」
「え?」
「乱太郎、気にしなくていい。これは彼の使命みたいなものだから」
「使命?」
「そ。まぁそれはここに慣れてきたら追々知るだろうから今すぐ知る必要はない。むしろそんなことよりも先に覚えなければいけないことのほうが多いんだから、気にしていてもすぐに忘れるよ」
「そう、ですか」
「さて。あとは伊作に任せておれはもう行くよ。学園長先生が待ちくたびれているだろうからね」
それは少なからず私を助けてくれた所為でもあるんじゃないか、と思ったけれど、黒門先輩が言うに、私を助ける前からすでに待たせていたから大丈夫だ、と豪快に笑った。
それを聞いて同じように笑うことができなかったのは私だけではなかった。伊作先輩が「彼の悪い癖だ」と困ったように笑ったけれど、そこに棘は含まれていなかった。よほどの仲なんだろうと思った。
「乱太郎。君が保健委員ならばもう落ちないようにとは言わない。が、酷い怪我だけはしないよう注意をするように。そのためにはまず受け身をとれるようになること。君が最初に修得するべきはきっとその技術だ。空いてる時間に担任の先生か伊作にでも教わることをおすすめしよう」
「は、はい!」
「ん。いい返事だ。伊作は凄いぞ〜?助けることすら面倒になるほど落ちるのに、大した怪我もなく生きているんだ。落ちることに関しては専門分野だから伊作に聞くのが一番いいかもな」
「ちょっと名前!後輩の前でそういうこと言わないでよ!僕の威厳が!」
「もうないよなぁ?」
「あるし!」
怒った伊作先輩が投げる包帯や薬草をひょいひょいと軽やかに避けて、保健室を後にした黒門先輩は、音もなく気配を消した。それは一年生の私にでもわかるくらいはっきりと、そこにいるであろう先輩の存在が戸の向こう側でふいに無くなった。
凄い!と心底感動した私の耳に、小さい声で「僕の威厳が…」と呟く伊作先輩の切ない独り言が届いた。
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