座学の授業が終わって、この後は委員会に行くだけだなぁなんて考えていたときだった。教室から出ていく先生の背中をぼんやりと見送っていると、入れ替わるように自分が入ってきた。ぎょっ、として固まっていると、どんどん自分へと近づいてくる自分自身に、教室中がざわりとした。
誰かが「鉢屋、か?」と訝しげに声をあげた。いつものように「また鉢屋か」と断定できないのには理由があった。何故ならば今現在、五年ろ組は実技訓練で裏裏山のほうへ出向いており、まだ誰も帰って来ていないからだ。今日の昼に雷蔵がそう言っていたからそこは間違いないはずだ。
仮に本当に鉢屋だったとして、一番乗りに学園に帰ってきてすぐ、こういう悪戯を俺に仕掛けるとは思えない。なら目の前にいる俺自身は一体誰が化けているというのか。ちらりと視界の端に捉えた兵助の姿に、限りなく選択肢がなくなっていくものの、当てはまる人物が思いつかなかった。
にこにこと笑っている自分を、怪訝な顔で見る俺。いい加減気持ち悪い、なんて思っていたら懐かしい声が聞こえた。

「やぁやぁ勘右衛門。久しぶり。元気にしてたか?」

片手をあげて嬉しそうにそう言った自分は、外見は自分なのに声だけは違った。その声の主を、俺は嫌というほど知っていた。

「えっ!?名前先輩!?本物!?」
「ん?まやかしに見える?今日は何もしてないはずだけど…」
「うわ…!ほ、本物だ!」
「なんだその反応は。気持ち悪い」
「え。酷くないですかそれ」

ばさり、と着物の一部を引っ張って全身を隠した後、その向こうからあの黒門名前先輩が姿を現した。先輩の動きに合わせて、ふわりと花の匂いがしたような気がした。
相変わらずこの人の妖者(ばけもの)の術は凄い。まぁあの変装名人と名高い鉢屋三郎にその技術をたたき込んだだけはある。そのことを知っているのはほんの数名だけだから周りが知らないのも無理はない。

「うおー!名前先輩の変装ってやっぱり完成度高ッ!」
「っていうか先輩結局まやかし使ってましたよね!?身長が変わってます!」
「いつ帰られたんですか!?どれくらい学園にいます!?」
「俺勉強見てもらいたいんですけど!時間あいてますか!?」
「おいお前抜け駆けすんなよ!」
「先輩!私も!」
「俺も!手合せしたいです!」

先輩の突然の出現に俺たちのクラスは一斉に騒ぎ出して、あれよあれよという間に先輩の周りには人だかりができてしまった。相変わらず人気者だなぁ、と感心しながらその様子を見ていて思い出す。先輩は俺に何の用だったんだろうか、と。
もみくちゃにされる先輩を眺めていると、ふいに右手を掴まれて廊下へと連れ出される。いつの間にか兵助も同じように連れてこられていて、俺たちは顔を見合わせて首を傾げた。俺たちの手を引っ張る五年生に見覚えはない。
どこまで行くのか、教室から随分離れた場所まで来ると、そいつはぴたりと足を止めた。そしてその五年生が振り向いた瞬間、霧がはれたように視界が広がって名前先輩が満面の笑みで俺たちを見ていたんだ。

「えっ!あれっ!?名前先輩!?」
「…そうか、教室にいる先輩もまやかしだったのか」
「えぇ!?いつから!?」
「さぁて、いつからだったと思う?」
「………、教室に入ってきた先輩が勘右衛門に化けていたのは本当だと思う。正体を明かそうと着物で自身を覆ったとき、微かに花の匂いがした。多分それ以降がまやかしだったんだろう」
「あ!そういえば花の匂いした!」
「なんと。兵助はいつの間にそんなに賢くなったのか。秀才だとは思っていたがこれほどとはなぁ。いやぁ感心感心」
「先輩!俺もちゃんと花の匂いわかりましたよ!」
「当たり前だ。わかって当然だ。あえて匂わせたんだから」
「ええー!」
「今も教室のみんなは騙されているんですか?」
「それはもう解いた。学園長先生の生首フィギュアのかかしが転がっている頃だろうなぁ」
「うわぁ…」
「…いやな身代わりですね」

悪戯が大成功したときの無邪気な笑顔で、先輩はそれはもう楽しそうに笑った。久しぶりに見る先輩の姿は、前会ったときと全然変わっていなくて、もしかしたらそれもまやかしなんじゃないだろうかと疑いそうになる。
深い緑色の制服によく映える先輩の茜色の髪が、先輩の動きに合わせてゆらりと揺れた。

「次はいつ出ていかれるんですか?」
「へぇーすけぇー…、帰ってきたばっかりのおれにもう出ていけと?」
「ち!違います!そんなつもりで言ったんじゃなくて…!」
「先輩!卒業までいますよね!?」
「…こんな風に強引に来てくれてもいいんだぞ?」
「っ、じゃあ…卒業までいてください」
「ん。努力しよう」
「ずるい!その返事はずるいですよ先輩!」
「はいはい。文句はおれの部屋で聞いてやるから来い。ろ組が帰ってくるまではお前たちに付き合ってやるから」

その言葉に俺と兵助は顔を見合わせて途端に笑いあう。嬉しくなって先輩の背中に飛びついた俺を、よろけはしても倒れることなく受け止めてはそのまま背負ってくれる優しさが、酷く懐かしく感じた。嬉しそうに走ってきて隣に並んだ兵助の頭を先輩が撫でると、年相応の笑顔を見せる級友に俺も嬉しくなる。
今俺たちは心の中で、きっと同じことを考えているに違いない。ろ組、まだ帰ってくんなってね。

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