僕は兄のことがよくわからないでいた。血を分けた実の兄である黒門名前は、この学園で知らない者はいないほど有名で、誰からも親しまれ、誰からも敬われていた。
浦風先輩も、立花先輩も、挙句の果てには僕の担任である安藤先生までもが兄のことを高く評価するのだ。そのことに対して疑問もあったし不快感もあった。どうしても信じられなかった。ここで聞く兄の評価は、僕が家で見てきた兄とは全然違っていたからだ。

「綾部先輩は兄と親しいんですか?」

委員会の休憩中、穴を掘りに行こうとした綾部先輩を引き止めてそう問いかけた。綾部先輩は何も言わずに僕のほうを見ると、突然僕の手をとって外へと引っ張った。そしてそのまま鋤を使い、ざくざくと穴を掘り進めていく。
僕への返答を待ちながらひたすらその光景を見ていると、綾部先輩は土がついた頬をそのままに、独り言のように「親しくなりたいとは思っている」とだけ小さく告げた。

「どうしてそう思うんですか」
「名前先輩ほど偉大な人はいない」
「それ、大袈裟すぎませんか?」
「どうして?」
「どうしてって…」
「弟である伝七が先輩のどういう姿を見てきたのかは知らないけれど、この学園にいる者で先輩を尊敬しない人はいないよ」
「だからどうして、そんなふうに尊敬する対象として見れるんですか」

綾部先輩は掘るのをやめて、遠くを見るような目をしたあと、そのまま僕を見た。流れるような視線に含まれた微力な棘に、ドキリ、と心臓がはねた。その視線の意味もわからない僕は、ただ綾部先輩の次の言葉を待つしかなかった。

「伝七。入園してどれくらい経つ?」
「えっと、もうすぐ一ヶ月になります」
「…学園の外の景色、普段通りの空の色、通り過ぎていく鳥」
「え?」
「安心して受けれる授業、いつも通りの日常、脅威に脅かされることのない平和」
「なんですか?それ…」
「そういう日々がもう当たり前になってるでしょ?」
「何が言いたいんです?」

綾部先輩の話すことはいつも遠まわしだ。すぐに答えをくれる返答をしない。それは委員長である立花仙蔵先輩にも言えることだった。委員長の色濃く受け継ぐのは、別にそういうところじゃなくてもよかったのに、と一人愚痴る。

「伝七、外から門を見たことある?」
「…ありますけど。それが何か」
「"忍術学園"って看板がかけてあったよね?」
「はい」
「ここは忍者を育てるための学園で、一般の人には知られてはいけないし、自分が忍たまだってことも秘密にしなきゃいけない。なのにどうして隠しもせずに堂々と看板をかけていられるのか」
「それは…そうですね。場所はおろか、そういう学園が存在すること自体普通なら隠さなければいけないはずです」
「うん。プロの忍者や刺客から襲われかねないからね。普通は隠さなきゃいけない。けれどどうして大した襲撃もなく平和に暮らせているのか。伝七みたいに入ったばかりの一年生はまだ知らないからしょうがないんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。そのことと兄のこと、何がどう関係あるんです?まさか守っているとでも?兄一人で?はははっ!それは有り得ないですよ!」
「………」
「いやいやいや………、嘘でしょう?っまさか………、本当に…?う、嘘ですよね…!?」

ざわりと風が吹き抜けていく。吹き抜けていった風を見送るように、外の景色へと視線を移す。太陽が傾きはじめ、ゆっくりと赤みを増していく空を鳥が羽ばたいていく。

「私たちには普段通りに見えているこの景色も、他の者からすればここはただの森。誰も入りたがらない、鬱蒼と生い茂った深い森となって映る。この学園にはそういうまやかしがかけられているからね」
「まやかし…?この学園に…?そんな大がかりな幻術…かけられるはずがない!」
「それをやってのけるんだから…尊敬せざるを得ないでしょ。みんなが口を揃えて敬う理由はちゃんと存在するよ?」
「嘘だ…!だって…、そんなわけない…!そんなっ…!」

今まで僕が見てきた兄はなんだったのか。それさえも幻術だったのだろうか?それともただ僕が、兄のことを単純に理解できていなかっただけなんだろうか。

「これでもう、大袈裟だなんて言えないはずだけど?私が言った通り、黒門名前先輩は偉大な人だってわかったでしょ?」

滲みだした赤色が、瞬く間に空一面を染め上げた。薄い笑みを浮かべる綾部先輩が、慈しむように空を見上げて目を閉じる。
今日も何事もなく、この学園の一日が終わろうとしていた。それがどんなに有難く、かつ難しいことか、今の僕にはまだわからないでいた。

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