もうすぐ新入生が入ってきて最初の予算会議が始まる。その準備と打ち合わせに忙しなく動いていたとき、角から酷く疲れた様子を隠しもせずに歩いてくる同期を見つけた。
足を止めた俺に気付き、力なく笑いながら片手をあげる。今にもぶっ倒れそうだ。

「やぁやぁ…、もんじろうじゃないか」
「酷い有様だな」
「君も人のこと言えないよ?」

自分の目の下をとんとんと叩き、俺の隈のことを教えているのだろう。普段より一層濃くなっているであろうそれに、鏡を見なくてもわかっているつもりだった。

いつもの制服ではなく黒い装束を着ているところから、きっと外に出ていたのであろう。ちらりと横目で見た学園の壁の向こうに広がる空に、俺は僅かに眉を寄せた。その一部始終を見ていたのか、奴も同じように空を見上げた。

「どうだい?変わりないかい?」
「ん?あー、まぁな」

本当に変わりなく穏やかな青空が窺える。学園の外からじゃここに学園があることすらも認識できないというのに、内側から見る景色は驚くほど普通だった。
奴の幻術は非常に出来が良く、それはプロの忍者の目すらも欺けるほどだった。一体いつの間にこれほど高度な術を身に着けてきたのか見当もつかない。

「実は今日、ある実験をしていたんだ」
「実験?」
「このままの状態をどれくらい離れても維持できるかっていう実験をね」
「それは時間か?距離か?」
「どちらもだよ」
「んで?結果はどうなんだよ?」
「そうだなぁ。時間よりも距離のほうが難しいな」
「へぇ」

曰く、どれだけ時間が経とうがこの幻術が解けることはないが、奴自身がここから離れすぎるとそれも難しくなるというのだ。そういえば昔、何度か幻術が解けたことがあったな、と思い出す。

あれは奴が四年生の時だ。
実技訓練と称して木刀を用いた模擬試合をしていた時だった。もともとあまり実技を得意としていなかった所為もあってか、対峙していた長次の重い一発を頭で受け止めてしまい、一瞬で意識を飛ばしていた。
ぐったりと倒れ込んだ奴の周りに皆が一斉に駆けだした際、そのとき担当をしてくれていた大木雅之助先生がものすごく慌てていたのを覚えている。目を覚まさない奴を見て「これはまずい…」と先生が呟いた言葉を聞いて、当時の俺は奴の状態のことを言っているんだと思った。視界の端で何かがぐにゃりと歪むのが見えた気がしたが、それを追及するよりも奴を医務室に運ぶことが先決だった。

その日の晩、いつもより物々しい様子の学園に違和感を覚えた。
入れ替わり立ち代わり先生方が動いていて、なんだか学園中が殺気立っていたように思えた。まさか奴の生死に関わることが起きているんじゃないかと肝を冷やしたが、新野先生が大したことないと言っていたのでその言葉を信じて眠りにつくことにした。が、なかなか寝付けなかった。それは俺だけじゃなく仙蔵も同じだったようで、二人して眠るまで他愛のない話をした気がする。

今になって思えば、あの時から奴は幻術を習得しており、それを学園にかけていたのだ。今と同じ、外から見れば鬱蒼と生い茂った森に見える幻術を、だ。奴の意識が深く閉ざされたことにより、その幻術が解けることを知っていた先生方が夜通し交代で学園の外を見張っていたのだ。
まぁそれも杞憂に終わったから良かったものの、奴の幻術に全面的に頼るというのは腑に落ちないものがあった。だから鍛錬を積んだ。この先もしまたこういうことがあったとしても、その機に誰かが奇襲をかけてこようとも、すぐに対応できるようにと。
自分の力不足の所為で後輩が死に、悲しむであろう同期を見たくない。と、いう理由ではない。これは俺のためだ。俺がそうしたいからしてるだけの話だ。

「文次郎には感謝してるさ」
「あ?」

昔話に意識を飛ばしていた俺の耳に、奴の声が入ってきた。

「文次郎だけじゃない。先生方や級友たち、できた後輩にもな」
「なんだ急に」
「おれはこれしかできない。だけどおれの欠点を補ってくれる仲間がいる。いつか散り散りになろうとも、その存在はおれが力を発揮する糧となるんだ」
「…死に際の語り部か?」
「やだなぁ。まだ死なないよ」
「なららしくねぇこと言うんじゃねぇ。胸糞悪ぃ。そもそもお前が勝手にしてることだ。俺は別に力を貸してるつもりも協力してるつもりもねぇ。お前の力に頼って生きてるわけじゃねぇ。なかったらなかったでそれもまた良い鍛錬になる」
「ふぅん?」
「お前はソレ以外てんで駄目な野郎だからな。ここ卒業して三ヶ月持てば褒めてやるよ」
「なんでそんな上からなんだ?」
「お前より断然強いからだ」
「………、文次郎…その隈酷すぎるよ?どれ、おれが顔色をよくしてやろう」

そう言ってパチン、と指を一つ鳴らした奴に咄嗟に身構えたが、何かが変わった様子は感じられなかった。訝しげに奴の顔を見る俺とは正反対に、非常にいい笑みを携えた奴は、いつの間にか着ている服が緑色になっていた。

「心配してくれてありがとう文次郎。だが問題ない。おれは何もこの力だけで生きていくつもりは毛頭ない。盗むべき技術はお前たちから充分頂戴しているからな」

元々その制服を着ていたのか、そもそも最初に出くわした姿が幻術だったのかは見分けられないので問う気はない。
相変わらず気分屋で紛らわしいことをしやがる。生憎俺は奴の遊びに付き合ってやれるほど暇じゃない。これから予算会議の案件を安藤先生に見てもらわなくてはならないのだから。

「お前の心配なんか誰もしてねぇよバカタレ」

そう言って奴の横を通り過ぎたときに微かに火縄銃の臭いがした。なにが幻術の実験だ。いけしゃあしゃあと息をするように嘘をつきやがる。そんな風に強かにいられるのだから、誰が心配する必要がある。そういうところが心底腹立たしいったらない。

その上あの一瞬で俺の顔に化粧を施した幻術をかけていたとは。安藤先生が教えてくれなければ気付きもしなかった。道理ですれ違う度に唖然とした顔を向けられるわけだ。
すぐさま委員会室に戻るところを奴の自室へと足を向けた俺に、安藤先生の呼び止めがきくはずもなかった。あの阿呆はっ倒してやる。予算会議でも覚悟するんだな!

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