久しぶりの何もない休日。前日の夜に決めていた今日することをやり遂げるために、朝食を食べてすぐいそいそと準備を始める俺に、伊作は不思議そうな顔をした。
「どこか出かけるのかい?」
「ん?いや、そろそろ頃合いだと思って」
「あぁ。なるほどね」
そう返事をすることで瞬時に理解できてしまうほど、俺のこの行動は最早定期的な習慣になっていた。
「休日返上でするなんて留三郎も相変わらずだね」
「まぁ好きでやってるからな」
「それ、留三郎だから許されるんだよ」
「そうか?」
「なにを今更!すっとぼけちゃって!僕は立ち入り禁止の身だからね!」
「一人のとき限定だろ?わからんでもないがな」
じゃあ行ってくる、と部屋を出る俺に、後でお茶を持っていくよ、と言われた伊作の言葉に素直に喜べなかった。廊下待機で頼む、と苦笑いする俺に包帯が飛んでくる前に戸を閉めたから当たることはなかったが。
六年長屋の一番奥、他より少し狭い一人用のその部屋の主は今はいない。同じ組だというのにもう何日も顔を合わせていない学級委員長は、学園にいないことがほとんどだ。
たまにふらりと帰ってきては幻術のかけなおしをしてまたふらりと出ていってしまう。六年生に上がってからはその回数が増し、顔を合わせないことが普通になってしまった。
彼の部屋の前にある柱には彼がどこかから持ち帰った夕顔の弦が巻き付いている。学園にいない彼の代わりに長次が世話をしていると聞いた。夕顔というだけあって、太陽が昇り始めた今でも花は蕾のままだった。
廊下にまではみ出して乱雑に積まれている本や巻物が、太陽の光に当てられて日焼けしてしまっている。その様を見て部屋の中がどんな状態なのか、開けなくても簡単に想像できてしまうあたり、彼がいかに片付けが苦手かを物語っていた。そのくせ収集癖があるもんだから、部屋は散らかるばかりだった。
すっと開けた戸の向こうは少し埃っぽく薄暗く、そしてひんやりとしていた。床や机に積み上げられた本が今にも崩れそうに持ちこたえている。まるで書庫として扱われているかのように、人が住んでいる気配なんてものはなかった。
彼のかける幻術は非常に出来が良く、年を重ねる毎にその難易度は増していき、今この学園内で彼に勝るものはいない。それは教職員を含めても同じことが言えるのだ。
変な話、彼の存在自体が幻なんじゃないかという噂も出ていた。最初は鼻で笑っていた者たちも、彼の素性が明らかでないことや、学園にいる頻度が少なくなってきたことも相俟って、にわかに信憑性を持ち始めたその噂を信じる者も出てきたくらいだ。
かくいう俺も、こうしてずっと同じ組で過ごしてきたにも関わらず、時々ふと幻なんじゃないかと思う瞬間があったりもする。
だが幸いなことに、六年生になったときその噂の信憑性は脆く崩れ去ることとなった。
新入生として入ってきた一年生に、黒門伝七という彼の実の弟が現れたのだ。最初こそ誰も気付かなかったが、仙蔵が委員長を務める作法委員会の顔合わせでその事実が露見したのだ。
その話を伊作から聞いたとき俺は心の底から安心した。彼がちゃんと存在しているという裏付けを取ることができ、噂は噂として本来の役割を取り戻したからだ。あの日以降、彼にそのことを伝えることもなく、詳しく掘り下げることもできないまま、今に至る。
「それにしても、本当に汚ぇ」
頭に巻いていた頭巾を取り、鼻と口を覆う。戸と小窓を開け放ち、新鮮な空気と光を取り入れる。俺が歩く度に舞う小さな埃たちが、差し込む光に反射してきらきらと輝いていた。
こりゃ一日かかる大仕事だな、と再確認し、やはり休日返上でするべきことに納得をしたときだった。
「やぁやぁ、留三郎。いつも済まないな」
所々煤で汚れ、黒い装束を身にまとった部屋の主が、のんきに笑いながら部屋をのぞき込んでいた。
「名前!?」
「おはようさん。朝から精が出ますなぁ奥さん」
「片づけやめるぞ」
「あぁ!嘘嘘!ほんといつもすみませんありがとうございます留三郎様!」
茶化して言ってくる彼に、誰の為にやってると思っているんだと睨むと、慌てて深々とお辞儀をする。その際にさらりと流れるように落ちる赤い髪すらも、所々色がくすむほど汚れていた。風に乗って僅かに漂う火薬や硝煙の臭いに、こいつがどこで何をしていたのか嫌になるほど想像がついてしまった。
「とりあえずお前、風呂行ってこいよ。そんな汚い成りで汚い部屋に入んな」
「えぇーーー…風呂かぁ…それよりも寝たいんだけど…」
「は?布団汚れんだろ」
「留三郎が風呂に入れてくれんなら入る」
「あほか。こっちのが優先に決まってんだろ」
「えーじゃあ誰に頼めば…」
「いや一人で入れよ風呂くらい」
「何もかもが面倒だ…」
「じゃあそのへんの廊下にでも転がっとけ。終わったら連れてってやるよ」
冗談のつもりでそう言ったのに、本当にそうしてしまうあたり、よっぽど動くのが面倒くさいのだろう。何をしてきたのかは知らないが、相当疲れているのが見てとれる。
なるべく早く片付けてやるか、と思うが、いかんせん物が多いこの部屋だ。綺麗にするには昼をゆうに超えるだろう。まぁ待ってる間にどうせ寝てしまうだろうから時間を気にする必要はないと踏んで、もくもくと作業に移る。
「留三郎、最近どうだい?」
てっきり寝ているものだと思っていた彼から声がかかり、振り返ると廊下で仰向けになって寝転ぶ彼は目を閉じたまま口だけ動かして俺に問いかけていた。それを見て俺は手を止めることなく彼の質問に答える。
「どうって…まぁ新入生が入ってきたし俺たちも最上級生だし、気持ちは引き締まるかな」
「ほうほう」
「聞いたぞ名前、お前の弟が入ってきたんだってな」
「………んあー、それね」
「知らなかったんだって?身内から文とか届いてなかったのか?」
「届いてても確認しようがないけどね。ま、そのことでちょっと実家に帰ったんだけど」
「珍しい。滅多に帰りたがらないくせに」
「だってそれとこれは別問題だろ」
「いいじゃねーか。兄としてたくさん学ばせてやれよ」
「はぁ?ぜってーヤダ」
「仙蔵の評価は高かったぞ?良い弟じゃねーか。邪険にしてやるなよ」
「留三郎は優しすぎる」
「普通だろ」
「いいや。優しすぎる。ここは本当に、みんな優しすぎるんだって…」
最後の声が、少し泣きそうな声色だったからか、思わず動かしていた手を止めてしまった。ちらり、と盗み見した彼は、腕で両目を覆い泣いているようにも見えた。
「………なんかあったのか?」
「なんで?」
「や、………ないならいいんだ」
「………」
「いい加減寝とけ。起こしてやるから」
「忍者ってさぁ」
「あ?」
「憧れや面白半分で目指すもんじゃねぇよ」
「そりゃそうだが、別に弟はそういうつもりでここに来たわけじゃないだろう?」
「おれはあいつに何一つ教えるつもりはない。一族から忍者を目指す者が出るのはおれ一人で充分なんだ。なんでまた、こんなとこ来ちまったんだか…」
「なるほど。心配なんだな」
「はぁ!?違いますけど!?」
「なんだかんだお兄様してるじゃないか名前」
「だから〜違うってば留三郎〜もぉやだ。そういう受け取り方しないでくんない?」
「俺にも弟がいたらなぁ。上しかいないから羨ましいもんだ」
「血の繋がりさえなけりゃ可愛がってやれるのになぁ」
「普通逆だろ」
仙蔵から聞いた話を伊作から又聞きしたとき、彼は弟が苦手だと言っていた。
普段の彼を見ていると後輩との付き合い方は良好だ。むしろ絶大な尊敬と支持を持たれているといっても過言ではない。年下との接し方が悪いわけでもないし、苦手としてるようにも見えない。
けれど実の兄弟ともなれば彼の中で差が生まれるのだろう。事実、弟のほうもこの兄が苦手だと言っていたそうな。家によって家族という形がそれぞれ違うように、この兄弟、いや、黒門家にもまた他とは違う家族の形があるのだろう。
「留三郎、これ見て」
「ん?」
呼ばれて振り返ると、悪戯っぽく笑った彼が、柱に巻き付いている夕顔を指さしていた。
そういえば蕾がいくつかついていたな、と思い出していると、鉢から伸びた弦が廊下を這い、部屋の中にまで伸びてきた。突然のことに驚いて声すらあげれないでいると、一つ、また一つと弦についた蕾が咲き始めた。
唖然としていると全ての蕾が開き、色とりどりの夕顔が朝日に照らされて部屋を彩っていた。
「初めて見たかもしれん…」
「は?いつも見せてたじゃん」
「幻術じゃなくて。夕顔が咲いたところをだ」
「それはそれは、留三郎の貴重な初体験を頂戴できて優越感がこみあげますなぁ」
「なにが優越感だ。全く…いっつも鉢屋と尾浜と一緒に悪戯しまくってしょうもないことに幻術使うくらいならこういう使い方したほうが百倍いいな」
そう言って夕顔を見る俺の顔を、どういう表情で見つめているのかはわからないが、こちらに視線をくれていることだけはわかった。だけどなんとなく、今は彼の顔が見れないと思った。
「………綺麗だな。こんな埃っぽい部屋で咲いてるのが可哀想なくらいに」
「…たまにはさ、良いと思って」
「うん」
「ただおれが救われたいだけなんだけどな」
言わんとしてることがわかった。けれど、それを掘り下げるつもりもなかった。
敵を欺き、惑わし、背後を取る。それが彼の技術であり戦術であり生き延び方だ。
悪いことではない。確かな技であり誇るべきものだと思う。
けれど彼が、その枷に苦しむというのなら、しょうもない悪戯だろうがなんだろうが、許せると思えた。自分が笑えて、誰かを笑顔にできる使い方をしたって誰も文句を言ったりはしない。
彼に守られているだけで終われないのは、俺だけじゃない。
守る守られる関係ではなく、対等に並んで歩んでいくことこそ、友として願わせてほしいと思った。
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