彼は私の嫌がることはしてこない。むしろさりげなく助けてくれることのほうが多い。けれど、一つだけ、彼が頑なに譲ってくれないことがあった。
「キヨちゃん、お待たせ〜」
着替えを済ませて出てきた彼は制服に身を包んで私のそばへとやってきた。壁にもたれさせていた背中を正すと、帰ろっか、と笑う。
それを少し離れたところで見ていた日向と影山が、付き合ってるのかな、と小声で話しているのが聞こえた。この距離で私が聞こえているのだから、きっと彼にも聞こえているはずだ。ちらり、と様子を窺うために見上げると、少し困ったような苦笑いをしていて。
「弁解してきたら?」
「え?あぁ、いいよ別に。そう見えてしまうのも無理ないし。大地たちが説明してくれるっしょ。キヨはいいの?」
「私は、別に」
「なら問題なっしんぐ」
学校から近いから別に送ってもらうことなんてわざわざしなくても大丈夫だし、この辺は歩き慣れているから一人で帰ることだってなんとも思わないのだ。けれど、彼がこのバレー部に入ってきてからは彼と一緒に帰ることが私の日課となってしまった。
私がみんなと別れて一人帰る姿を見た彼の心底驚いた顔といったら今でも忘れない。当時いろんな人に茶化された私との関係を、彼は一体どう受け止めたのかは知る由もない。
けれど、今もこうして続けてくれているあたり周りはそういうものとして認識したようだ。それに彼の性格を知っている人からすれば、彼がやましい気持ちでしていないということを説明せずともわかるはずだ。
私のことをキヨと呼ぶのも、こうしてタメ口になることも、嫌だと思ったことはなかった。初めてそう呼ばれたときはさすがにどう反応していいかわからなかったけれど、彼が特に気にする様子もなかったから私も気にしなかった。田中と西谷には思いっきり騒がれて彼が心底めんどくさそうにあしらっていたのが懐かしい。
彼と歩く帰り道では話で盛り上がる日もあればそうじゃない日もある。だけど無言も別に苦にならないほど、私も彼もいい距離感を保てている気がした。
「名字」
「ん?」
「今は私一人だけど、この先マネージャーを増やそうと思ってるの」
「へぇ?いいんでね?マネージャー業も一人じゃ大変だし受け継いでくれる人がいないとおれたちも困るし」
「まだ探してる途中なんだけど、もし新しい子が入ってきたら、どうするの?」
「どうするのって…、送ること?」
彼は本当に察しが良い。
頭の回転が速いのか、私が言わんとしていることをすぐに察知して的確に答えてくれる。わかっているのにわからないフリはしない。本当にわからなければわからないとはっきり言ってくれる。たまに濁してほしいときもあるのだけれど、それが彼の良さの一つだから言わないでおく。
「んー、別にやめる気はないけど」
「帰り道が私と真逆だったらどうするの?」
「えー?そりゃ二人まとめて一遍に送れたら一番いいけどさすがのおれも分身はできないし。その時はその子と同じ方向の奴に任せるしかないかなぁ。力とか信頼できる奴なら安心だろ?」
「…そう」
「………、あのさぁ」
「?」
「おれは別にフェミニストでもなければ、女の子が大好きなわけでもねーよ?ただこうしてキヨのことを送ってるのは純粋に女の子の一人歩きを許せないってのもあるけど、マネージャーもバレー部の一員なんだし、守れるときにちゃんと守らないと何かあってからでは遅いしさ。選手だけが大事じゃない。キヨだってちゃんと一部なんだ。欠けちゃダメだしいてくれなきゃ困る」
そう言って真剣な顔つきで前を向く彼は、少しだけふてくされたように歩く。
私は、彼の言葉にじわりと心が温かくなった。マネージャーとしての業務を日々淡々とこなしていくなかで、私ですら忘れかけていた大事なことを思い出させてくれた。周りが忘れそうになることを彼が言葉にして言い聞かせてくれた。そのことがどうしようもなく嬉しく感じたのだ。
「何ふてくされてるの」
「いやぁ、なんか勘違いされてる気がして」
「勘違い?」
「おれの中で勝手に義務化してるけどさ、それをキヨが重荷に感じたりはしなくていいし、おれがしたいからしてるっていうか。大事にしたいんだ」
少し照れたように笑って素面でそう言ってのける彼に、どれほどの女の子が恋に落ちただろうか。かくいう私も今のは危うかった。
「まぁ完全に下心がないとは言い切れないけどな。おれにとっちゃ役得だし文句はねぇけどさ」
「あら。それは私も言えることだけど?」
「え?なになにどういうこと?」
「一学年上の事情なんて知らないだろうけど、結構人気者よ?よく聞かれるし。付き合ってるのかって」
「へー!意外!接点ないのになぁ〜」
「付き合ってないってはっきり言うけどね」
「正解のような不正解のような…複雑だぁ…」
彼の言うように接点はほとんどないはずの同級生でさえ、彼の魅力に引かれて好きになる。その気持ちはすごくわかる。好きになりそうになる。
けれど、彼はそれ以上好きにならせないために確実な一線を示してくる。察しが良く、人のことをよく見ているからこそできることだと思う。
「別にキヨが誰と付き合おうがおれが口挟むことじゃねぇけどさー、変な男にだけは引っかからないでほしいわ。スガとか大地とかどう?めっちゃおすすめ」
「東峰はいないのね」
「だってキヨのタイプじゃなさそう」
「名字は入ってないの?」
「おれはほら、女子高生に手は出せないからさ」
「意味わかんない」
今日はよく話す帰り道だと思った。自分の家が見えてすぐ、少しだけ歩くスピードを緩めた。彼もそれに気づいて私に合わせて歩いてくれる。
だけど一歩進めば一歩近づく距離に、どんなに遅く歩いたところで家には到着するのだ。そんなみっともない姿を見せたくなくて、いつものように歩くことを意識した。
「今日もありがとう。また明日」
「ん。また明日」
私を送り届けた彼は酷く安心したような顔をする。ドアがちゃんと閉まるまで帰ったりしない。
彼が何をそんなに恐れているのかはわからない。この辺で変質者が出るという話はたまに聞くけれど、頻繁に出没するわけじゃない。現に高校に入るまでの帰り道でそういう人に出くわしたこともない。
何かあってからでは遅い、と口癖のように彼は言う。まるで何かあったことを経験しているような、同じ過ちを繰り返さんと奮闘しているように見える。過去を語らない彼に、私が聞いてもきっと答えてはくれないだろう。
覗き穴の小さな視界から確認できる彼の表情は見えやしない。義務化してる彼の行動の奥に潜む理由を、私は死ぬまで知らされることがないと悟った。
なんて泣ける話だろうね
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