Slovenia


2000's/Slovenia

 
 ――君の額に頭頂に輝く王冠をもたらす。
 ――光溢れる我らの神の御名へ。愛が十の角を隠すだろう。
 



 2000年 スロベニア/リュブリャナ

 
 分厚いブラウン管型のデスクトップPCは青白く光り、数式、化学式と文字の羅列がひたすら続いた場面をきょろきょろと眼球を忙しなく回して眺めている。研究室での結果を書いたメモをもう一度見下ろし「……すごい」と吐息混じりに感嘆が漏れ出た。
 その時、教会の鐘の音が空気を伝わって反響した。まるでそれが合図だったかのようにぞろぞろと人の気配が動く。隣室から金髪の青年がこの部屋の扉を開けて覗きこんでいる。現研究プロジェクトに参加しているドイツ人留学生の、名前は忘れたが彼が短く硬い声で「定刻だよ、博士」と呼んだ。
 私は顔を素早く上げのめりこんでいたものの記憶を忘れてしまわないように、手元にあったメモ用紙にボールペンでさらさらと素早く記録を残した。
助手のラドゥイカが管理部から帰ってきてミルカをクラブに誘った。

 「博士、これからどう? 私たちのクラブに来てみない?」
 「こんな時間から?」
 「こんな時間なんてことはないわ。まだ十七時よ。それともまだ花売りをしているの? あなたは花売り娘をしなくたってもうよくなったというのに」
 「そうね。おかげで学生から信じて貰えてないわ」
 「博士なのに? それはそうだ。君が聴講側の席から教壇に上がるとみな驚く」
 「でしょう?」

 戯けて笑った。

 「ペテルカ博士」

 廊下の外で待っていた先程定刻を知らせたドイツ人留学生がもう一度、「定刻だよ」と念押した。まだ時計の針は十七時から一歩振れそうなくらいで余剰な滞在をしている覚えは無い。


 「ありがとう。それじゃあ戸締りするわ。忘れ物はありませんか?」




  ✜ ✜ ✜


 帰宅前の数時間、もしくは出勤前の数時間。ミルカは旧市街にある花屋でアルバイトをしていた。
 目的は金銭的な苦労の埋め合わせでは無い。道楽的、知産的、二側面を兼ね合わせた趣味の労働といっていい。
 「ミルカ、店仕舞いお願いね」
 同僚のモニカがバックヤードのデスクで手早く帳簿と見合わせて計算している。ミルカは荷物をロッカーに入れ、エプロンを身に纏う。壁にある古びた木の時計――店長がフランスの蚤の市で購入したものだ。もうすぐ十八時だ。モニカの険しい表情と時刻を見比べて声を掛けた。

 「ええ。わかったわ。……モニカはもう退勤時間じゃない?」
 「そう。下の子が熱を出したみたいで。さっき連絡が来た。すごく急いでるの。店長ったら、お得意様の配達に出かけたっきり! きっと外でくっちゃべってるんだわ!」
 「店長、話し長いものね。モニカ、早く行ってあげなくちゃ。私でよければ残り引き継ぐわ」

 モニカには子供が二人いて託児所に預けている。迎えの時刻はとうに過ぎているだろう。

 「本当に? ……たしかに計算はミルカの方がお手の物ね! それじゃあ甘えて。あとはよろしくね! ありがとう、良い夜を!」
 モニカはテキパキとデスクを片付けて椅子から立った。駆け足で自分のロッカーへ向かい、荷物を背負いこむと目にも止まらぬ速さで花屋から飛び出していった。

 「良い夜を!」

 彼女はミルカの返事が聞こえなかっただろう。
 デスクに座り残りの事務作業を終えた頃、十八時半頃だった。店長はまだ戻ってこない。ミルカは裏日である明日に到着する花の仕入れに必要な準備と店先の掃除、まだ残っている店頭のバケツを仕舞う作業に追われていた。営業時間は長く、夜にも客は訪れる。そうした時は作業の合間に花を売る。
 このように業務を二十時頃まで続けてようやく帰路に着く流れだ。
 
 ミルカが店先の花の入ったバケツを引っ込めようとした時、ある一人の青年がゆったりとした歩調でやってきてまだ置かれているバケツの中の赤い薔薇を眺めていた。声をかけようと思った時、彼の方が早かった。

 「こんばんは」
 「ええ。こんばんは」

 青年は背が高かった。薔薇を窺うように屈められた姿勢が戻った時、自然と見上げた。眩いプラチナブロンドと清涼なブルーを瞳に宿し、すべてのパーツが形よく整然と成り立ち、かつてルーヴル美術館で観たギリシャ彫刻のようだった。ルックスについて言及することは気まずいがきっと彼に出会った人々は皆、心の中でときめきを共有するだろう。――なんて、美しい男性だろう! と密かな恍惚と賛辞を送るだろう。
 ミルカは職務を放棄することはしない。軽く咳払いをし、男性に営業トークを持ちかける。 

 「今日はもう店仕舞いなんですが……なにかお気に召しました?」
 「……そうだな。すこし元気がなさそうだ」
 「え?」
 「もう夜だから……。薔薇がね」
 「あぁ……そうですね。水を替えたら元気になると思いますよ。気になるなら……贈答用じゃなくてお家に飾るのにはぴったりかも。あなたのお好きなお花は……? あぁ、無理に購入しなくても結構ですが」
 「僕の好きな花……か」

 彼は店内のバケツに入った花を眺めたあと、ミルカに視線を移ししばらく見つめた。その仕草にミルカは彼に花の好みは特になさそうだと思った。それならと薔薇の一輪挿しを勧めようとまだ花弁が開く前の花に手を伸ばした。彼は唐突に思い出したかのように口を開いた。

 「君の好きな花を選んでくれるかな」
 「え……? ええ。……本当によろしいですか?」
 「ああ」 

 青年は柔く微笑み、ミルカの瞳を覗き込むようにじっと見つめた。

 「……えぇっと……どうしました?」
 「君には見えるのかと思ったんだ」
 「……? あの……」

 ミルカは首を傾げて、何の花を選ぼうかと考えていた事がわからなくなった。
 なにか聞き間違いではないかと意味を問い直そうとした時、そこへ常連のジヴィチが店にやってきて「やあ、こんばんはミルカ!」と大きな声で呼んだ。ジヴィチは気さくで話好きな老人で店長と馬が合う。長い話に付き合っているうちに青年の花選びが滞る。
 そしてジヴィチが予約の花を受け取って帰宅する頃、ミルカは後悔した。
 
 「やってしまったわ……」
 「こんばんは。どうしたの、ミルカ。浮かない顔をして」

 店長のガルスの妻、ミレーナがテイクアウトの食事の入った袋を提げて店へ入ってきた。

 「ミレーナさん。……ジヴィチさんが出ていったでしょう。その前にもう一人若い男性を見なかった?」
 「もう一人……? さあ……気がつかなかったわ。どうしたの?」
 「その人が先のお客さんだったのだけど、ついジヴィチさんと話こんでしまって……帰らせてしまったかもしれないの。申し訳ないことをしたわ」
 「そうだったの……。ジヴィチさんは引き取りに来てくださったのね」
 「ええ。それは問題なく」

配達を終えた店長の自転車が店前に停る。

 「やあミルカ、こんばんは。遅くなったね。店仕舞いの時間だよ」

 店長とミレーナの号令によりいよいよ閉店作業を進め、ミルカが明日のレジ締めを終えた頃には空腹で夕食のことを考え出していてすっかり青年のことは忘れていた。


  ✜ ✜ ✜
 
  
 ミルカはリュブリャナ大学近辺にあるアパートの三階の角部屋を借りている。奨学金や補助金、現在は一部講師料や研究員、そして数時間の花屋でのアルバイトが主な収入源となっている。幸いなことに今、金銭面での苦労はなく日々が充実していた。
 寝る前に日課の簡単な日記を書き込んでヘッドボードの灯りを消す。ベッドに潜り込むと溶けるように眠りに落ちていった。


 一瞬の間に、なにか朗らかで鮮やかなものが至近距離を擽る様に過ぎる。視界が黄色に染まり、のどかな田舎の緑の原風景がそこかしこを埋めつくしている。
 なんて綺麗なところだろう。
 ミルカはもし天国が実在するならこんな場所だろうと思った。そよ風に足元の白い小花や草むらが爽やかに揺れている。

 遠くで誰かが自分の名を呼んだ気がした。
 ミルカは首を捻り彼方を見た。天使の輪を冠に身につけた人影がミルカを待っているように見つめていた。

 目覚めは優しかった。
 朝霜の湿る窓硝子の色は薄青が延びている。街灯の輝きを宝石に変えて。窓の扉を押し開き新鮮な香りを迎え入れる。今日は何故かいつもよりも自信に満ちていた。夢のおかげなのか、こうして朝の空気を吸っているからなのか。どちらも結構だ。ミルカは最近買ったばかりの新しいメープルシロップを開封したきり使っていないことに気づいて、パンケーキを焼こうと考えた。




  ✜ ✜ ✜


 春の膨らみがはち切れて塞いでいた蕾が花開く。
 今日だけでいったいいくつの花が目覚めの時を迎えただろうか。ミルカはその目覚めたばかりの子供達を丁寧にラッピングし、あるものは新鮮な水の貯まったバケツへ、あるものは伸びすぎた髪を整えるよう鋏で揃えてやる。

 「ミルカ、元気かい? 調子が良さそうだ」
 「こんにちは、ジジェクさん。予約の分、ちょうど出来上がりましたよ。お孫さんの性別わかったんですか?」
 「はっはっはっ……! 照れくさいぜ。この俺がお爺ちゃんなんてよ。性別……知りたいか? まあ、ミルカと同じだよ」
 「あら。それじゃあもう少し愛らしい色のリボンに替えたほうがいい?」
 「別に構わねえ。このまま、素直に、この素晴らしい光と同じ色。さすがだよミルカ。チップを多めにとっといてくれ、な?」
 「ありがとう、ジジェクさん」

 常連のジジェクが花代をミルカに手渡すと花束を抱え、花の香りを胸いっぱいに吸った。

 「おっと、約束の時間だ。そろそろ行かねぇと。ミルカも大学の講義だろ?」
 「あら、なんで知ってるの?」
 「いつもこの時間に買いに来ると、慌てて大学に向かって走っていってるのを見てんだ。そりゃ知ってるよ」

 ジジェクは朗らかに笑い、娘の住む家に向かって歩き出す。その時、ジジェクの後ろにちょうど自転車で通りかかった学生――シモンがミルカのあだ名を叫んだ。
 彼は法学部の学生でこの近隣に住んでいる。

 「花のマドンナ! 急げよ! 今日は発表があるんだろ? みんな楽しみにしてる」
 「シモン……! あー、それじゃあごめんなさいジジェクさん、私大学に行かないと。ガルスさん、夕方には戻ってきます!」
 「おう、行ってらっしゃい」

 ミルカはバックヤードにいる店長に声をかけ、大量の荷物を抱えて店前に出た。シモンは自転車でミルカと並び声高に囃し立てた。年齢がそう変わらないからか学生達は遠慮がない。

 「なんたってうちの若き天才、博士殿だからな〜。遅刻なんてした日にゃ……おっとっと! 待てって!」
 「シモン、レポートの提出期限覚えてる? 明日までよ」
 「えっ、まじで?」
 「よかった。忘れてたのね。言ってよかった」

 シモンはこうしちゃいられないと急に焦りだし、ミルカに謝って自転車を力強く漕ぎ出した。


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午前四時の異邦人
MONSTER