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今日は珍しく、仕事を早く切り上げた。
珍しくも早期退社する私を見て部下は不思議そうにするものの、少しすれば「ゆっくり休んでください」と言う言葉に変わる。

今日は、待ちに待っていたミステリー小説シリーズの新刊が発売される日なのだ。

初めはまったく興味の無かったミステリー。
だけど赤井くんに勧められてその本を読むようになり、今ではファンの勢いだ。

発売日が発表されてから、これほど楽しみだと思った日は数少ない。
近所にある大きな書店に立ち寄り、薄く並べられたその小説を手に取った。



「良かった…闇の男爵(ナイトバロン)、売り切れてなくて…。」



私が楽しみにしていた小説とは、以前共にお茶をさせて頂いた闇の男爵夫人(ナイトバロニス)の旦那さんである工藤優作氏が手掛けた闇の男爵シリーズ。
こう言った人気の有名作品はすぐにソールドアウトとなってしまうが、ここは書店規模が大きいのと少しの過疎が手伝ってか無事に手に入れることが出来た。

捜査で疲れた脳に、良い意味で刺激を与えることが出来そうだ。
今夜はヘネシーを片手に小説を、と言う少しの贅沢をしてもバチは当たらないはずよ。



「Excuse me, your daughter. Do you buy that book?(すみません、お嬢さん。そちらの本を買われるのですか?)」

「Hmm?...Oh, that's right.(はい?……まあ、そうですね。)」



意気揚々、とでも言うべきか。
闇の男爵の新刊を手に取り、レジに向かっているとサングラスを掛けた男性から不意に声を掛けられた。

怪し過ぎる身なりではあるけれど、本当に怪しい人間はいかにもな格好などせず、ましてや人に話し掛けたりはしないはず。
多少の疑いは持ちつつ、それに返事をすれば目の前の男性はサングラスを外した。

…あれ、この人って…。



「工藤優作氏…?」

「おや、私のことをご存知なのですね。」



テレビで見たことはある。
たまに時間が重なって、メディアに出ていた彼を見たことがあるのだけど、男性はまさにその、工藤優作氏その人だった。

思わず小さな声で名前を呟けば、英語から日本語へとシフトチェンジされ、「ご存知なのですね」と朗らかに笑う男性。
この数日間で工藤夫妻に会うだなんて、どんなタイミング…いや、運命なのだろうか。



「以前は妻を助けてくれたようで…。ありがとうございます。」

「…何故、私のことを…?」

「妻から伺っていた特徴が、あなたにすべて当てはまっていたものですから。そうではないかと思いましてね。」

「そう…なんですね。」



人当たりの良さそうな笑みを浮かべ、会話を進めて行く優作氏。
職業柄、少しだけ身構えてしまうけど…優作氏に身構えたところで意味はない、か。

立ち話をしていて、夫妻についていくつか解ったことがある。
仮住まいであるホテルがここ近辺で、優作氏はこの人気の少ない書店にすこしでも人に来てもらうため、ホテルから近いこともあって頼まれ、サインを書きに来たらしい。

それから、夫妻にはひとり息子が居ると。
頭のキレる息子で、好奇心旺盛で目立ちたがり屋な部分にはたまに困らせられる、と言っているけれど、女優時代のことを思えば確か彼女もそのような人間ではなかったか。
血は争えないらしい。



「妻がまたあなたと会うことを望んでいましたよ。お名前だけでも伺っても?」

「ああ…名前は……太宰まいかです。」

「太宰さんですね。我々も滞在期間は長いので、またいつか縁があれば妻と話しでもしてやってください。」

「ええ…もちろんです。」



優作氏に名を聞かれ、思わずではあったが偽名を口にした。
なんとなく…本当になんとなく、彼らに本名を教えてはいけないような気がしたのだ。
危険に巻き込みたくないのか…それとも、虫の知らせと言うのか…。

私は優作氏に太宰まいかと名乗り、一言二言交わしたあとに別れた。
もちろん、購入予定の本の内側に優作氏のサインを頂いて。

何かあったら赤井くんに自慢してやろう。

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