手を離すその前に





「……ねえ名前」
「なんですか、大谷さん。あと社内で名前呼びはやめてください」
「いまここ誰もいないから平気だよ。それより、」
「なんですか」
「最近神楽と会ってないの?」


ごとりと、手に持っていたファイルが分かりやすく音を立てて落ちる。
手が空くとすぐに考え込んでしまうから書類整理に来たというのに、なぜこの男はここにいる。


「その様子だと、やっぱり訳ありかな?」
「わかってて聞かないでよ」
「俺は俺なりに、大事な幼馴染を心配してるんだけど」
「そう思えないから言ってるの」


羽鳥くんを後目に書類整理を再開する。
彼の言うように、亜貴とはここ最近会っていない。連絡こそ来るけれど、なんとなく気まづくて私からすぐ話題を終わらせてしまう。
あの時の光景を思い出すだけで溜め息が零れる。


「俺でよければ話くらい、聞かせて」
「………………ひと月前くらい、」


ひと月前くらい、私は大型のショッピングモールで玲ちゃんとお買い物を楽しんでいた。
久しぶりに玲ちゃんに会うことや久しぶりに買い物ができること、女子会に花を咲かせることだって物凄く楽しみにしていた。
紙バックをいくつもぶら下げながら歩いていれば、急に行動が怪しくなる玲ちゃん。


「どうしたの玲ちゃん。いきなり挙動不審になって」
「あっ、いやっ!ええっと名前ちゃん!あっち!あっちいこ!」
「……?」
「ああああ新しいパンプス、欲しかったんだよね!」


不自然に吃りながらわたしの手を少し強めに引く玲ちゃん。なんだろ、なにから私を隠したかったのか。
玲ちゃんがこっちを見てないことを確認して、素早く後ろを振り返った。そこには。


「…………あき、」


知らない女性と肩を並べて歩く、亜貴の後ろ姿だった。顔が見えなくても、間違えるはずがない。
仕事の人かな、なんて思うより先に、2人の距離の近さがそれを違うことを示してるようで。
まるでそこだけ世界から色が切り取られたかのように、亜貴と知らない女の人が鮮明映る。

後悔先に立たず。振り向くんじゃなかった。玲ちゃんが気を使って、見えないようにしてくれてたものはこれだったのか。
その時、全身の血の気が引いた気がした。


「名前ちゃん……?」


玲ちゃんに名前を呼ばれハッとする。いけない。せっかく玲ちゃんが気を使ってくれたのに、台無しにすることなんて出来ない。


「ごめんごめん、ぼーっとしちゃった。わたしもパンプス欲しかったんだ!行こっか!」


あの後、玲ちゃんとお買い物を楽しんでもディナーを楽しんでも、頭の片隅でちらつくあの光景。
帰ったあとはその辺に荷物を置いて、勢いのままソファへと倒れ込む。

あの女の人はいったい、誰だったのか。

羽鳥くんと幼馴染で、羽鳥くんにくっついて情報屋なんかやったりして、その先で出会った彼。
付き合ってからそれなりに時間は経つけど、亜貴が私に何も言わず女の人といるなんて。
思いもよらない出来事に、じわじわと視界が侵食される。いま泣いたって仕方ないけど、本人に聞く勇気もない。
でももう、終わりかもしれない。


「…………仕事しよ」


何も考えたくないわたしは、仕事に打ち込むことに決めた。


「……なるほどね。だから最近いつも以上に仕事をしてたんだ」
「はは……ほんと、笑っちゃうよね。終わりが見えてるのに、いつ切り出されるか分からない別れに怯えるなんて……」
「うーんそれは、」


気がつけば私の手元は動作を止めていて、さっきまで易々と持っていたファイルに重さが増した気がして、身体中の力が抜けていく感覚。
いままで誰にも言えず誰にも相談できなかったことを羽鳥くんに言ったことで、せき止められていた何かが溢れてくる。たちまち視界が滲み、ぽたぽたと雫が机を濡らす。

どれだけ仕事をしても、それがどれだけ忙しくても、心の片隅には彼がいて。
違う何かでかき消そうとしても消えなくて、いつか訪れるかもしれない終わりに怯えて逃げて。
でもそれは、亜貴がすきだから。


「こーら、あとで腫れちゃうから、目は擦ったらだめだよ」
「……はとりくん、」
「とりあえず今日は退社して。家まで送ってくから。このところ物凄く働いてくれてたし、強制送還」


羽鳥くんはハンカチで私の頬を拭って、ここで待っててと言って部下に私の荷物を取りに行ってもらった。
恋だ愛だで泣くなんて思いもしなかった。学生じゃあるまいし。
ダムが決壊したかのようにぐずぐずになった私を連れて、他の社員には見つからないルートで送ってくれる。


「家の前まで送ろうか?」
「さすがに帰れるよ。ごめんね、ありがとう」
「明日は休暇なんだし、久しぶりにゆっくりして。あと神楽とのことだけど、ちゃんと神楽と話し合うこと。それでもだめなら、俺のところへおいで。じゃあまたね」


亜貴と話し合うこと。
いまの私になんて難題を置いて帰るのか。
家に帰って一旦机に置いた真っ黒な画面のスマホと睨めっこをしても、それを手に取ることさえ憚られる。


「……とりあえずお風呂入ろう」


泣いて崩れたのメイクを落として熱いお湯をかぶって、ゆっくり湯船に浸かって。そこから考えよう。あした、明日まで時間はある。
お風呂の鏡に映る自分の姿は、それはもうぼろぼろ以外の言葉が見つからないほど。長い溜め息が止まらない。
お風呂から上がろうとしたその時、インターホンの音が静かな部屋に響く。
宅急便か何かだろうか。そういえば頼んだ服がまだ届いてなかったかもしれない。でもいまの状況で出れるはずもなく、申し訳ないけど不在届を入れてもらおう、そう思い居留守を決め込む。
ピンポンが何回か鳴った後、やっと帰ったかと思ったその瞬間、がちゃがちゃと続く音。

なんで入ろうとしてるの。宅急便じゃないの。っていうかいまドア開いた?

…………落ち着け。落ち着け。合鍵を持ってる誰かの可能性もある。
渡してるのはお母さん、羽鳥くん、あとは、


「名前」


亜貴だ。


「…………」
「シャワーの音、もうしなかったし、あがってくるんでしょ」
「え、えっと……」
「言っとくけど、ここまで来て逃がすつもりないから。観念して出てくることだね」


わたしの考えなんてお見通しのようだ。
そっとドアを開けて様子を伺えば、脱衣所のドア越しに凭れて立っている亜貴の背中が見える。
開ける音が聞こえたのか、ちゃんと髪の毛まで乾かしてからリビングにきて、のセリフつきだ。

なんでここに亜貴がいるんだろう。
なんでわたしが家に居るって知ってるんだろう。
亜貴は仕事だったんじゃないのかな。

なにを話せばいいのか、
いままでなにを話していたのかも思い出せないくらい、
ぐるぐると言葉にならない感情に支配される。

言われた通りに髪の毛をちゃんと乾かして、リビングのソファに座りスマホを触る亜貴の左側にそっと座った。
少しだけ、距離を空けて。

羽鳥くんに、ちゃんと話し合うようにって言われたのに。なにを話せばいいのか、わからない。


「ねえ」


痺れを切らしたのか、亜貴は私に話しかけながら、目の前のローテーブルにスマホを置く。
そして私が空けていた距離は、亜貴が簡単に詰めてしまった。

なにを言われるんだろう。
わたしと別れたいって、続くのかな。
もう、終わりなのかな。


「名前、こっちみて」


亜貴の顔を見れないまま、目の前にある強く握りしめた自分の手は血の気を失い白くなる。
だめだ。さっき羽鳥くんの前であんなに泣いたのに。
また視界が滲み出す。


「名前」


亜貴がもう一度わたしの名前を呼んだ。
暖かくて大きな手のひらが私の顔を包んで、パープルの瞳と視線が交わる。
亜貴は私の瞼に、額に、頬に、口づけを落とし、ごめんと一言。


「っ、あき、」
「泣かせるつもりじゃなかったのに……」


亜貴の優しい手つきが、わたしの零れる涙を拭う。
ぽろぽろと涙を流し続ける私に、亜貴は優しくそれを拭いながらひとつひとつ私に言葉をくれた。

私が亜貴を避けだした理由が、あのショッピングモールでの出来事だということは亜貴は既にわかっていたなんて。
あの日のショッピングモールでの出来事はどうやらマトリ案件だったようで、あの場には亜貴とあの人だけじゃなく、慶ちゃんとマトリの人も一緒にいたらしい。ショッピングモールに私がいたことは亜貴も気づいていて、変な誤解されたくないからと連絡を取ろうとしても会おうとしても私が避けていたから出来ずじまい。
お互いに仕事でなかなか会いに行くこともできなくて、今日こそはと思っていたその時、羽鳥くんからメッセージを受け取って私の家に強行突破してきたと。


「変な誤解をされたくなかったから会いたかったのに、君が露骨に避けてくるから」
「っ、だって……!」
「僕が名前を簡単に手離すわけないでしょ。やっとの思いで手に入れたのに。……会いたかった、」


そう言って亜貴は、嬉しさで更に泣きじゃくる私を強く優しく抱きしめ、キスをする。
何回も何回も、会えなかった時間を取り戻すかのように。


「君が思ってる以上に、僕は名前のことがすきだよ」
「……! 」
「今回のことは予め名前に言っておくべきだった。ほんと、ごめん」
「ううん、わたしの方こそ、ごめんなさい……」


羽鳥くんが言うように、ちゃんと話し合えばよかったんだ。
何で信じてあげられなかったんだろう。
亜貴はこんなにも、私を好きでいてくれたというのに。


「今日はこのまま泊まってもいい?」


会えなかった分の名前を頂戴。

そんなこと言われたら断れるはずがない。
会ってなかった間、わたしだって寂しかったし会いたかった。
話したいことも伝えたいこともいっぱいあるし、亜貴の話だってたくさん聞きたい。
わたしはOKの代わりに、強く亜貴を抱きしめた。





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