五年目の春はとうに過ぎて、気が付けば季節は夏だった。
「……げ、煙草切れてるわ」
春は引っ越しシーズンだというから、少しずらそうと考えているうちに七月になった。特にこだわりのない俺は、不動産屋に薦められるままにこのアパートへの入居を決めたが、コンビニの隣という好立地さが気に入っている。
「しゃーない、買いに行くか」
夢中で荷ほどきをしていたら、いつのまにか夜も更けていた。俺は気分転換がてら隣のコンビニへと足を運ぶ。
「渡邊先生?」
「……はい?」
ついでに夜食でも買うか、と物色しているところで誰かに呼ばれた。こんな時間に保護者だろうか、それとも生徒だろうか?生徒ならば、これはゆゆしき問題だ。面倒に思いながらも振り向くと、見知らぬ女性が立っていた。
「やっぱり、渡邊先生!お久しぶりです」
先生も夜食を買いに来られたんですか?そう言ってはにかむように笑う見知らぬ女性の声に聞き覚えがあって、記憶を辿る。ふと浮かんだひとつの答えは、俺がずっと待ち続けていた人だった。
「え!みょうじか?」
「はい!へへ、覚えててくれたんですね」
「こんな夜に!女の子やねんから!送ったるからはよ帰り!」
「近所に住んでるんで、大丈夫です」
それでも頑なに送るからと言い張ると、困ったようにみょうじは 「でも、隣のアパートですよ?」と答えた。
「いやー、まさか先生もこのアパートだったなんて!」
「俺も引っ越し早々驚きやわ」
そんな世間話をしながら、階段を上る。
「あ、先生。気にせずに自分のお部屋戻ってくださいね」
「いや、俺もまだ上がるねん」
「え?もしかして、次の階ですか?」
「おお、そうやけど……あ、ついたわ」
階段を上がってすぐ目の前が、俺の部屋。みょうじのほうを見ると、驚いた表情で固まっていた。
「お隣さんですね」
そう呟いてから、花がほころぶかのように彼女は笑った。
「先生」
「んー?」
「私ね、春に四天宝寺中行ったんですよ」
「……おー」
俺たちは部屋の前の廊下で、外を見ながら小声で話をしている。なんとなく、この機会を逃すのは躊躇われたからだ。
そんな中、みょうじの衝撃的な報告に平静を装ってはみたものの、その言葉に思わず心臓が跳ねた。
「でもね、門をくぐれなかった」
そう言ったきりみょうじは遠くの方を見つめて、俺は何も言えなくなる。
「初夏とはいえ、夜は肌寒いですね」
この話は終わりだとでも言うように、会話を切り上げようとするみょうじ。彼女はあの約束を過去の思い出にできたらしい。俺はそれを喜ぶべきはずなのにどこか寂しいと感じる自分もいて、複雑な心境になった。
「いくら近所やからって、夜は危ないから。今度から、夜食買いに行くときは俺を呼べ。な?」
この感情が何なのか定まらない俺は、そんな言葉で場を濁す。五年前と何ら変わりない自分が、心底嫌になった。
あれから、みょうじは三日に一度ほど俺を呼び出すようになった。はじめは本当にいいのか、迷惑ではないかとしきりに確認する彼女だったが、煙草を吸いたいからいいのだ、とみょうじが気にしないように口実を作る自分がいて、少し可笑しかった。
「渡邊先生ー、アイス買いに行きましょう」
「太るで?」
「若いから大丈夫!」
イヤミか、と言いながらわしゃわしゃと髪に触れる。ふわりと女性らしく笑う今のみょうじと、卒業式の時の悲しげで幼さが残るみょうじが重ならなくて、少し戸惑った。
「髪ぐっしゃぐしゃ」
「そのおかげでべっぴんさんになったやん」
「もー!」
軽く腕を叩いて離れていく手を見送りながら、俺はどうしたいのだと自分に問いかける。
しばらくして、会計をすませたみょうじが煙草を吸う俺の隣に並んで立つ。吐き出す煙が彼女にかからないように、月を見上げていた。アパートに戻れば、それぞれの部屋に戻ってしまう。どちらから言い出すわけでもなく、お互いなんとなく一緒にいて、曖昧な時間を過ごすのが定番になっていた。
同じように月を眺めるみょうじをちらりと横目で見ると、以前よりずっと綺麗になったと思う。今でも過去に捕らわれたままの俺は、その変化に少なからず嫉妬した。
「彼氏、できたん?」
感情に任せて出た言葉は、ひどく子どもっぽいものだった。反対に、夜空を見上げたままのみょうじは大人びた笑みを浮かべている。
「私が好きなのは、ずっと変わらずひとりだけです」
この予感は、自惚れだろうか。
思わず期待してしまった自分の愚かさに失望して、同時にようやく気付く。いつだってみょうじに頼られたくて、会えることを楽しみにしながら、期待していた。
「ずっとずっと、渡邊先生だけです」
煙草を落としそうになって、あわててくわえ直す。携帯灰皿は、どちらのポケットに入っていただろうか。
「あの気持ちはただの憧れだと、何度も何度も忘れようと努力しました。でも、再会したらもうだめだった」
みょうじはこちらを見ない。それをいいことに、俺は余裕なく煙草の火を消す。 いつだってきっかけをくれるのは、七つも歳の離れたみょうじだった。
「子どもっぽくて、煙草くさくて、服装にも無頓着でいいとこなしだけど」
目を細めて薄く笑う彼女に釘付けになる。 まっすぐな瞳に見つめられて、心が揺さぶられた。
「好きです、渡邊オサムさん」
凛とした声は、あの時と同じだ。 「ふつつかものですがよろしくお願いします」 となんとも言えない返事をすると、けらけらと声をあげて笑っている。こちらこそ、と言って差し伸べられたみょうじの手は、同じように少し汗ばんでいた。