狗巻の双子の妹であるナマエは兄と同様に呪言師であり、常に語彙を絞っている。
兄の語彙はおにぎりの具材だけであり、それだけでも少なく感じるのだが、ナマエの語彙はもっと少なかった。
「バナナァ、ばにゃ」
「……」
そんなナマエに手紙を貰い、指定された高専の校舎の廊下に駆けつけた伏黒恵はナマエの言葉に首を傾げた。
棘の言いたいことは最近わかってきたのだが、彼の妹のナマエの言葉だけは未だによくわからなかった。とりあえず、はいが「バナナ」でいいえが「バニャー」だ。どちらにせよバナナをもじっている。──そう。やっかいなことにナマエの語彙は「バナナ」一本なのだ。
せめて他の果物、例えば「リンゴは言っても問題ないのでは?」と恵は前に聞いたことがあるが、その場にいた棘もナマエも目を剥いて「おかか!」「バニャー!」と叫び始めた。棘が言うには、「リンゴ」はあまりにも意味深で危ない言葉らしい。
呪言師とは大変なものだな、と恵はナマエの頭を撫でた。ナマエは一応恵の先輩ではあるのだが、双子の兄に似て小柄な体格で、その上小動物のような可愛らしさがある。前に誘われるようにして思わず撫でてしまい、その時のナマエがニコニコと笑って「ばにゃにゃあ」と喜ぶものだから、撫で癖がついたしまったのだ。
感覚的には手持ち無沙汰に撫でている気もするが、ひょっとすると実際はナマエの可愛らしい笑顔見たさに撫でているのかもしれない。
この感情は愛玩の情のようなものなのだろうか。わからない。ただ一つ言えることは、いつもナマエのことばかり気にかけ、彼女の一挙手一投足に心を動かされているのを感じている。
恵はそんなことを思いながらナマエの頭を撫で続けるが、今日のナマエの様子がいつもと違う。自分に頭を撫でられているのに笑顔を見せず、眉間に皺を刻むばかりだ。
「ばにゃ……ばにゃ!」
ナマエは両手で拳を握り、恵を見つめ、懸命に「ばにゃ」を繰り返す。
「ばにゃ……馬鹿、ではないよな……?座学は俺の方がずっと上ですし、急用だって手紙で呼びつけてまで言う必要はないですよね」
「バニャー。ば!にゃ!」
次第にナマエの瞳は涙のようなもので潤み、頬が真っ赤に染まっていく。そういえば、今日のナマエはずっと心なしか頬が赤かった。それに、いつもと感じが違う。
「あっ……」
恵はハッと気がついた。意識はしていなかったが、ナマエに会った時からところどころで違和感を持っていて、今それが意識下にのぼってきた。
「ナマエ先輩、香水つけてます?甘い、良い匂いがします……それに爪に薄く何か塗ってますね。リップも色付きな気がします。いや、口紅ですか?前髪も一ミリくらい短くなったような……もしかして、今からどこかに出かける予定で俺を誘ってます?」
「……バニャー!バニャー!バニャー!『吹っ飛べ』!」
「うぉっ……!」
突然暴風に襲われるようにして恵の体が吹き飛んだ。廊下の端の壁に激突し、体が軋む。
恵は咄嗟に呪力を纏って体を保護した為に無事で済んだが、立ち上がるとよろける程のダメージは受けていた。
「一体どういうことなんだ……」
恵はわけがわからず、走り去っていくナマエの後ろ姿を呆然と見つめた。
「昆布」
「棘先輩、見てたんですか?」
「しゃけ。高菜、明太子」
棘先輩が言うには、前髪のことは知らないが、ナマエはいつも今日よりは薄く香水を付けているし、今日よりは薄く爪にトップコートをしていて、今日よりは薄い色付きのリップもしているという。なのにそんな失礼なことを言ったら、ナマエが怒って当然だと諭された。
「全部『今日より薄い』じゃないですか。でも、全然気がつかなかったな」
今まで何故気がつかなかったのだろう。あまりナマエを見ていなかったのか、と恵は自問する。
「俺、結構ナマエ先輩のこと見てるつもりでしたけど……」
「おかか」
「いえ、ちゃんと見てますって……いつも可愛いと思ってますし……いや、棘先輩の前で言うのけっこう恥ずかしいな……とりあえず、ナマエ先輩を追いかけます。あの言葉の意味を知るまで眠れそうにありません。あと、ナマエ先輩の喉が痛んでいないか心配です。あの人すぐ喉を痛めるんで……ノドナオールあります?」
「しゃけしゃけ」
棘はスッとどこからともなくノドナオールの瓶を取り出し、恵に手渡す。
親指を立てて、再び「しゃけ」という棘に、恵はほんの少し口角をあげ、
「わかってます。ポイントは今日に限っていつもより『濃い』ことですね。推測してみせます」
ナマエの走り去っていった方向を追いかけた。
そんな恵の後ろ姿を目で追いかけながら、虎杖がひょっこりと空き部屋から姿を現した。
「アイツってなに?馬鹿なの?天然なの?それとも宇宙人にキャトられて脳みそ入れ替えられちゃったの?流石の俺でもわかったよ!」
「虎杖!そんなん言ってないでさっさと追いかけるわよ!伏黒のやつがナマエ先輩の告白に気づく瞬間の顔をカメラに収めなくちゃ!」
更に向かいの空き部屋から現れた野薔薇がうふふと笑いながら、虎杖の制服のフードを引っ張り、走り出す。
ナマエを追いかける恵。それを追いかける虎杖と野薔薇と棘。この後、騒ぎを聞きつけた五条と真希とパンダが加わり、地獄のような絵面になるのだが、恵がそれに気がつくのはナマエと想いの通ったキスを交わした後だった。
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