※悲恋。九巻の話





術師の世界では、並の人間の精神の許容量を超えるような出来事が日常化している。わたし達術師はその環境に慣れるか、その環境に鈍感になるかして適応しているつもりであるが、やはり適応できずに去る者がいるのも事実。戦線から離脱してサポートに回る術師は割と多く、呪術界から完全に身を引く者も少なくないと聞く。

「わたしも、そろそろキツいかな……」

寄宿舎の共有スペースで、任務へ行ったきり帰ってこない傑を待ちながら、甘い缶コーヒー片手に机に頬杖をついてため息をつく。

斜向かいに座る悟も机の上に腕、腕の上に頰をくっつけてだらけながら柱時計を見つめるばかりで黙っている。

天内理子、後輩の灰原の犠牲と続け様に辛い現実に心は既に臨界点に達しようとしているのが自分でも嫌という程わかっていたから発した弱音。
別に悟には理解して欲しいから曝け出したわけではないから返事がなくとも特に気にならない。

ただ理解し合いたい相手である傑はあれ以来口数が少なくなり、わたしに触れることすらない。その事を少し追求しただけで冷たい態度を取られてしまって、今は傑とは関係がギクシャクしている。

「……傑と別れそうかも」

「そういえば、最近部屋からギシアン聞こえてこないと思った」

悟は漸くわたしに興味を持ってくれたのか、腕に顔を乗せたまま柱時計からわたしへと視線を変える。

「最低」

「冗談くらい通じろよ」

「冗談も通じないくらい疲れちゃったの。もう待つのやめよ。わたし、寝る」

「傑待たねーの?」

「今日は一人で寝る。というか、最近は今日も、か」

自分で言いながら悲しくなって、缶コーヒーを持って席を立った。

「ナマエ」

「なに?」

悟に呼び止められるように声を掛けられて振り向いた。いつの間にか椅子の背もたれへ背中を預けて居住まいを正している。

「ナマエってどこででも寝れるし、なんでも食うじゃん。ナマエならどこに行っても生きられるよ」

「なにそれ……」

何に対する励ましなのか、すぐにはわからなかったけど、とりあえず悟なりの気の利いた言葉だと受け取って、残りの缶コーヒーを煽ってゴミ箱へ捨てた。

傑の為に遅くまで起きていようと思って買った缶コーヒー。全部飲んでしまったせいで寝つきが悪くなりそうだけど、砂糖とミルクが入っているから寝ようと思えば眠れるだろう。

実際そう思ったら、簡単に眠れた。



 ◇



傑が呪詛師として処刑対象となってどのくらい経ったのだろうか。わたしへなんの連絡もないまま彼は行方を眩ました。彼との関係から上層部に拘束されそうになったけれど、なんとか悟のお陰で呪術師として生き続けられている。わたしは結局傑がいなくても持ち堪えられ、非術師の為に呪いを祓い続けていた。いや、非術師の為というよりは傑の罪を代わりに償う為と言った方が正しいのかもしれない。傑が殺めてしまった以上に非術師を救えば傑と一緒になれる、と心のどこかで考えていた。それが間違っているとわかってはいるのに、大好きな人と一緒に生きることはできないとわかっているのに、自分を騙すようにただ機械的に呪いを祓い続ける人生をわたしは選んだ。

そう割り切ったはずのわたしの思考は大好きな人との再会で一瞬にして揺らいだ。

東京の新宿で傑を見つけたと硝子に言われて駆けつけ、漸く傑に会えることができた。
流動的な人混みの中、傑とわたしだけが向かい合って立ち止まっていた。

「久し振りだね、ナマエ。少し痩せたかい?」

変わらない優しい声に、穏やかな表情。傑を感じた瞬間に全身から好きという気持ちが湧いて出て際限がない。

「ううん。普通にモリモリ食べてる。今朝もご飯お代わりした」

「相変わらずだね。君のそんなところが好きだったよ」

だったよ、なんて過去形で言われてヒヤリと心臓が冷える。
傑と会えて高揚した気持ちは一瞬にして沈み、この会話の行き着く先を予想して絶望する。

「傑、わたし達……」

「連絡できなくてすまなかった。君を振り払うのに他に手段が思いつかなかった。連絡したり、こうして会ったりすると情が湧くと思ってね」

「会っちゃったよ?」

「情は湧くけど、私には優先したいことがあるから……ナマエ、本当にすまない」

「……理解できないよ」

傑の優先したいことはきっと、硝子から聞いた、傑の目的──非術師を殺して術師だけの世界を作る──だろう。

「これは理解とかそういうレベルの話ではないんだ」

「傑のやっていることは間違ってるよ。非術師を助けたいと思っていた頃の傑はどこに行っちゃったの?」

過去の思想を思い出して欲しくて言った言葉は傑には届かなかったらしく、傑は目を伏せて首を横に振る。

「何が正しいか、何が間違っているかで私はもう生きてはいないんだ」

「よくわかんないよ。いつもの傑みたいにもっとわかりやすく教えて。わたしを理解させてよ。そしたら、何か解決策が……」

「だから君に理解は求めていない。私が君に会うことを選んだのは、ただ君の幸せを──」

「そうだ!非術師にも良い人がいっぱいいるよ!わたし、この前河川敷で寝てたら非術師の方が……」

傑がまるでお別れを告げるような台詞を言うので慌てて遮って、縋るように傑の気を引けそうな話へ持っていった。

「やはり君のことが心配になってきたが……術師だけの世界を作る目的は変わらないよ」

「今の世界じゃ苦しい?だったらわたしは傑と二人で逃げる人生でもいいよ。わたしと逃げて非術師を殺さないでこの世界を楽しむ道を一緒に考えよ?」

「ナマエ……私は行動で世界を変えたいんだよ。幾ら考えたところで世界は何一つ変わらないんだ。わかるだろう?術師は非術師の為に傷つき、死に続ける。私とナマエが一緒になったところで世界は変わらないんだよ」

「……じゃあ、わたしも非術師を……」

殺す、とはやっぱり言い切れなかった。傑と別れたくないし、知らない間に傑が処刑されてしまうのも嫌だ。それでも、非術師を殺すのは絶対的に間違っているからわたしは傑について行くことはできないだろう。

「無理しなくて良い。ナマエなら幾らでもこの世界で幸せになれるよ」

「初めての彼氏が非術師を大量虐殺した上に極刑が確定しててわたしを捨てたとしても?」

遂に傑から別れの言葉のようなものを言われてしまい、震える声で冗談っぽく返した。

流石の傑もわたしが傷ついているのをわかってくれたのか、動揺したように手を宙に持ち上げ、こちらへ腕を伸ばしかけたと思えばすぐに下ろしてしまった。
わたしに触れようとしてくれるという未練を一瞬でも見せてくれたことが嬉しい。最後に抱きしめて欲しかったけど、今ので満足しようと思えた。

「ナマエ、私は君の幸せを常に願い続けるよ」

「うん。わたしも傑が傑の世界で幸せになってくれたら嬉しいよ。……色々気がついてあげられなくてごめんね?」

「ナマエは何も悪くないよ。ただ河川敷で寝るのだけはやめてくれると嬉しいかな」

「そうだね。気をつける。ねぇ、傑──」

──わたしと過ごしていた時は幸せだった?

なんて聞こうとしたけれど、傑の返答が怖くて聞けなかった。
いや、思い返せばわたしと二人で過ごしている時の傑は幸せそうな顔をしていた。確かにそう見えたのだからそうだったのだろう。
例え現実は違っても、こういうのは思ったもの勝ちだ。

ぼんやり霞む視界を振り払うように目を瞬かせると、いつの間にか傑はいなくなっていて、世界は人混みと雑踏に溢れかえっていた。



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