ナマエが憲紀と出掛けると、時折女性が憲紀へ憧憬の眼差しを向けることをナマエは知っていた。憲紀の、背の高く細身でありながらも程よく付いた筋肉、涼しげな目元や薄く整った唇、それからほっそりとした、それでいてどこか男性らしい輪郭は女性受けが良いことも知っていた。

それなのに憲紀が他の女性に目もくれず、自分だけを見てくれることがナマエは身に余る幸せなことだと思っているが、いつか自分が憲紀の正妻となり、相伝の術式を継ぐ男児を産めなかった場合、加茂家繁栄の為に憲紀が他の女性と肌を重ねようともナマエは受け入れる覚悟である。

しかしながら、実際に憲紀の関心を惹くような女性が現れた時の嫉妬は凄まじい程で自分の覚悟がいかに浅いものであるか思い知らされた。

ナマエはたった今、向かいから憲紀が色素の薄い長い髪の女性と肩を寄せ合って歩いてくる姿を見ただけで激しい嫉妬の念を感じていた。

女性はスーツ姿なことから補助監督と見受けられるがナマエには見覚えがなく、ナマエは女性の正体を推測しつつ、背筋をいつも以上に伸ばして両手を体の前で重ね、憲紀が近づいてくるのを寮の前で淑やかに待つ。

二人はナマエの前まで来ると足を止め、憲紀はナマエに淡く微笑みかけ、スーツ姿の女性は緩く巻いた髪を揺らして首を傾げた。

「あら、あなたも高専生?何年生なの?」

「一年生のミョウジナマエと申します」

「私は八尾よ。今日から暫くは内勤で高専内で事務仕事をすることになっているからよろしくね。授業にもたまに顔を出すわ」

「はい。よろしくお願いいたします」

「じゃあね、ミョウジさんと憲紀君」

「……」

ナマエは八尾という女性が憲紀を親しげに呼んだことが引っかかったが、そんなことはおくびにもださずに一礼して、八尾が華奢な背中で巻き髪をふわりと揺らしながら離れていく後ろ姿を見送る。

八尾は堂々としていて、ヘアメイクの完璧な美しい女性だ。それに八尾が踵を返した時、少しお菓子のような甘い匂いがふわりと立ち香ってどきりとさせられた。

ナマエはちらと横目で憲紀を見れば、八尾ではなく自分へ視線を注いでいることに気がついて溜飲を下げた。
ただ何故憲紀が八尾と二人で歩いていたのかは気になるもので、ナマエは憲紀へ向き直り、感情の機微を見抜くつもりで憲紀の目を見つめる。

「あの綺麗な女性と何故一緒にいらっしゃったのですか?」

「歩いていたら声を掛けられただけだが……?」

問い詰めるような語調のナマエに対し、憲紀はそんなナマエの態度に困ったように返す。

「それにしては随分と仲が良さそうでした」

「仲良く見えたのか……?」

「はい」

「会うのは初めてだったのだが」

「は、初めて会ったのに親しげに憲紀さまを下の名でお呼びしていたのですか?」

「真依は東堂以外を下の名で呼ぶだろう」

「真依さんの場合は理由がありますし、同じ高専生ですので理解できます。しかし、あの方は補助監督さんで会ったばかりのわたしと憲紀さまに差を付けました!もしかしたら、あの方は……」

ナマエは「憲紀さまに好意があります」と言葉を続けようとして、ふと自分が冷静さを失い、八尾を批判しようとしていることに気がついて口をつぐんだ。
自分のしていることがなんだかみっともない気がしてきたのだ。

「なんでもございません……わたしの考え過ぎでした……」

「ナマエ?どうしたんだ?」

憲紀が心配そうにナマエの方へ手を伸ばす。瞬間、先程嗅いだばかりの、八尾と同じ甘い匂いが香ってナマエは顔を青ざめさせる。匂いが移るということは長い時間一緒にいるか密着するような状況にならないとあり得ない。最悪の想像が頭をよぎり、ナマエは不安と緊張に痛む胸を押さえて憲紀を見つめる。

「何故憲紀さまから先程の女性と同じ匂いがするのですか?」

「同じ匂い……?これのことか?」

憲紀は制服の袂から何やらピンク色のリボンでラッピングされた透明のビニールを取り出した。中には綺麗な焼き色のついたクッキーが沢山詰まっている。

「それはなんでしょうか……?」

「見ての通りクッキーだ。先程の彼女に貰った。ナマエは洋菓子を控えているようだが、たまには私と食べるか?」

「クッキー……?八尾さんが憲紀さまの為にクッキーを焼いたのですか?」

「いや、彼女は菓子作りが趣味で今朝家で焼いたものを適当に配り歩いているらしい」

「男性に対してのみ配っているのですか?」

「そこまでは知らないが彼女は善意で配っているのではないか?」

「……そうですね。とてもお優しそうな方でした」

憲紀が下心のありそうな女性から貰ったものを口にするなんてナマエには耐えられないことなのだが、八尾の行動を"善意"と表現した憲紀に「食べないでください」などと意地の悪いことは言えない。
ここは大人しく憲紀と問題のクッキーを食べてその味を確認し、自分は八尾よりも美味しいクッキーを作って憲紀を喜ばせる──それができれば、八尾のことで気を揉むこともないだろう。そうナマエは考えて、憲紀と食堂で貰い物の紅茶とともに問題のクッキーを食べたのだが──

「とても美味しいです……」

「悲しそうな顔をしているが?」

「あまりに美味しくて感動しているので……憲紀さまはどうですか?」

「甘過ぎない分バターやバニラの風味を良く感じられて美味しいと思う。生地の食感もいい」

「…………」

ナマエから求めたのだが、憲紀がかなり味わって食べたとわかる感想を、それも随分と誉めて言うので今にも泣きそうな顔を隠すように俯いて残りのクッキーを見つめた。

これ程のクッキーを超えるものを料理などまともにしたことのない自分が作れるわけがないだろう、とナマエは今までの食事を他人に任せっきりであったことを後悔する。

ただナマエは憲紀の為なら努力は惜しまない。今すぐには無理でも練習をしたり、原材料に拘ったりすることでそれなりのものはいずれ作れるようになるかもしれない。それに一人で駄目なら他の人から協力を得るのも良いだろう。

「このクッキー、とても美味しいので真依さんたちに一枚ずつ配っても良いでしょうか?」

「ああ。構わないよ」

憲紀から許可を得たナマエはクッキーを皿に四枚取り、早速真依たちに配りにいくことにした。

真依に三輪、西宮、新の四人にそれぞれクッキーを食べて貰うと、四人全員がクッキーを誉め、八尾のことを話せば、三輪以外の三人が八尾が憲紀に気があると言い、ナマエは落ち込んだ。

「そんなに落ち込むことないでしょ。憲紀はちゃんとナマエを好きみたいだし。見てるだけでもわかるわよ。というかきしょいからこういうことを私に言わせないでくれる?」

ナマエから相談を受けていた真依は真依なりにナマエを励まそうとしているのだろうが、最後の言葉が余計な所為かナマエにはあまり響かなかった。

「わたしも憲紀さまに好かれている自信はあります」

「ならいいでしょ」

「上手く言えないのですが、真依さんはとても大切に飼っていたお魚の水槽に猫ちゃんが手を入れてちょっかいを出していたらどう思われますか?」

「喩えが下手過ぎるし、憲紀を飼っている魚に喩えるナマエがどうかと思うけど?」

「確かに自分でもどうかと思います……今のは聞かなかったことにしてください。とにかくわたしは泥棒猫ちゃんに憲紀さまを盗られるのがとても怖いです。憲紀さまが他の女性に少しでも興味を向けるのも辛いです」

「ナマエの口から泥棒猫って単語が出るの面白すぎるから桃に言っていい?駄目って言っても言うけど」

真依は早速スマホを取り出して西宮に連絡しようとする。

「憲紀さまに伝わらなければわたしは気にしません。それよりも八尾さんよりも美味しいクッキーを作って憲紀さまが八尾さんに一ミリも興味を持たないように仕向けたいです」

他人事な態度である真依の理解を得るよりもお菓子作りを手伝ってもらう方が早いとナマエは判断して頼んだのだが──

「味見程度なら手伝ってあげるわよ」

と、真依にはあまり期待できなさそうではある。
ともあれナマエは一人の協力を取り付けたところで後の三人にもお菓子作りへの協力を仰ぎに行った。



 ◇



真依に三輪、西宮、それに新に八尾の存在と菓子作りのことを相談して協力を取り付けたナマエはかれこれ二週間、憲紀が不在のときを狙って厨房に籠っていて、今日は新に下準備の手伝いと味見係をしてもらっていた。
早いうちにプレーンクッキーは実力差が出る為に諦めてチョコチップクッキーに切り替えたのだが、今度はクッキーの硬さとチョコの甘さの調和を取るのが難しく、難航していた。

「どうですか?」

厨房にて、オーブンから皿に移したばかりのハート型のチョコチップクッキーを口にする新をナマエはじっと見つめて感想を催促する。

今のナマエの格好は制服の上に淡いピンク色のエプロンを身につけ、白のリボンシュシュで髪を高い位置で結い上げていて甘い雰囲気であるのだが、新へ向ける瞳は真剣そのもので、一方の新もナマエの鋭い視線を受けて緊張している様子である。

「今日のも美味しいですよ?昨日のしっとり系も美味しいですし、個人的には今日のサクサク系が好みですね。ここ最近毎日もろてますけど、全部美味しいのでそろそろ加茂さんに渡してもええんとちゃいます?加茂さんなら絶対喜んでくれると思いますよ?」

「……ですが、八尾さんの作ったものより美味しくないとわたしは嫌です。それに八尾さんは今度はクロワッサンを作ったらしくて憲紀さまに差し上げておりました。このままでは憲紀さまの関心が八尾さんにも向いてしまいます」

「そんな心配いらないと思いますよ。加茂さん、ナマエさんのことしか見てない節が多々あるんで」

「ですが綺麗な女性に何度も手作りのお菓子などを振る舞われたらどうですか?少しは気になってしまいませんか?」

「自分の為だけに作られたらそりゃあ気にはなりますけど、加茂さんの場合は八尾さんの好意を親切と受け取ってそうな気もしますよ」

「確かに憲紀さまはとてもお優しく、無垢なところはどこまでも無垢であるので穿った見方はしないのかもしれませんが……」

ナマエであったら邪なことを想像しそうな状況でも、憲紀は特に特にそんなことを考えている様子がなかった場面が幾度もあったことを思い出す。それに憲紀が八尾の行動を善意と表現していることからも新の主張の方が正しいような気もするが、一抹の不安は拭えない。

「やっぱり、無垢なんですか?」

「それはどのような意味ですか?」

「いや、その……」

いつもハキハキと話す新が言葉を濁して黙り込む。
その違和感にナマエは新が言わんとすることをなんとなく察して恥ずかしくなり、なんとか別の話題にしようと淡いピンク色のペーパーナプキンにクッキーを乗せて新の口元の方へ差し出した。

「クッキーもう一ついかがですか?もっと詳しく感想を聞きたいです」

「ナマエさん、自分で手に取るんで……!ちょっと近いんやけど……!」

新と触れ合いそうな程身を乗り出したナマエに新は頰を染めて慌てふためく。ナマエに異性としての好意を特に持っていなさそうな新であるが、やはり年頃。急に距離感を詰められると年相応の反応をするらしい。

「何をしている……?」

ちょうどそこへ任務から戻ってきた憲紀が厨房に姿を現わし、二人の様子を見て怪訝そうに眉根を寄せる。

「加茂さん、これはちゃうんです!」

「憲紀さま……!お戻りでしたか……!本日もご無事で何よりです!」

疑わしげな顔をする憲紀へ声を張り上げて弁明する新に対して、ナマエは咄嗟に手元のクッキーをペーパーナプキンに包んで隠す。ただキッチン台の上には大皿に乗せたクッキーがそのままなこと、厨房がクッキーの甘い匂いで充満していることからこのまま菓子作りをしていたことを隠し通せはしないだろう。

「二人で何をしていた?」

「……新くんにクッキーを味見していただこうと思いまして」

「ナマエが作ったのか……?」

憲紀は驚いたようにキッチン台に置かれたクッキーを見る。ナマエはこれまで一度も料理と呼べるものをしたことがなく、食事は全て寮母に任せている為にナマエがなにかを作るのが珍しいのだろう。

「はい……憲紀さまに食べていただきたくて……」

「なら何故新田に食べさせようとしていた?」

憲紀の質問はナマエに対してであるが、目線の先は新を捉えている。恐らく嫉妬してくれているのであろう。それでもナマエの頭には八尾のことがちらつき、あまり嬉しいとは思えなかった。

「ですから味見をしていただこうと……」

「だとしてもそのように密着して、ナマエが食べさせてやるような状況になる必要があるのか?」

「それは……」

ナマエは言葉を途切らせて黙り込んだ。
確かに距離が近かったことは認めるが、密着などはしていない。それを言うなら八尾と近い距離で歩いていた憲紀を咎めたい気持ちになる。とはいえ、ナマエは八尾のことで憲紀にあれこれ言うつもりはない。憲紀には女の陰湿な部分など見せたくはないからだ。

「俺はないと思います!というか、不可抗力ですし!」

「味見をして欲しいあまりに、わたしが無理やり食べさせようとしたので……新くんは悪くないです」

「新田はナマエの手作りを無理やりでないと食べたくないのか?」

「そんなことないですよ!ナマエさんのクッキー美味しいです!もっと貰ってもええですか?」

「駄目だ。あとは全て私が貰う」

「あ、はい……じゃあ、俺用事があるんで」

新は厨房にある時計に目を遣り、そそくさと行ってしまった。
事前に新に予定がないことを確認していたナマエは新が気を遣ってくれたのだと察して後でお礼を言おうと心に留めておき、憲紀を見つめる。

憲紀は変わらず険しい表情で、まだ新との距離感のことで怒っているようである。

「どうしてそんな格好で新に味見役を頼んだ?西宮と真依は寮で暇そうにしていたが?」

憲紀の視線は髪を括って露わになったナマエの首筋やエプロンを這う。

「この格好はいつもコーヒーを作るときにしております。清潔に作る為です。真依さんと西宮さんについては味見役を頼んだのですがわたしの所為で体重が増えたと断られまして……三輪さんは任務でいらっしゃらないですし…… 」

「ナマエの所為で体重が増えたとは……?」

「ここ最近お菓子を作って食べてもらっていたので……」

「私の知らぬ間にそんなことをしていたのか……」

「はい。憲紀さまには秘密で練習しておりました……本当はもっと上手になってから食べていただきたかったです」

「上手い下手は関係ないよ。ナマエが私の為に作ってくれたというその気持ちだけで十分だ。それに見栄えは良くみえるよ。美味しそうだ」

先程の不機嫌そうな表情から一転、憲紀はいつものような柔和な表情で皿に並べられたクッキーを見る。

「本当ですか?それは嬉しいです」

先程『あとは全て私が貰う』と言ってくれたように、憲紀がナマエの作ったという事実そのものに重きをおいてくれることについてはナマエにとって喜ばしいことである。これほど自分を好いてくれる憲紀なら八尾の作ったものと比べないかもしれない、とナマエは今までの考えを改め、憲紀に早く自分の作ったクッキーを食べて欲しくなった。

「コーヒーの準備をいたしますね。テーブルでお待ちください」

「いや、ここにいる。先にナマエの手の中にあるそれが欲しい。新田に食べさせようとしていたものだろう?」

憲紀はナマエが手に握りしめるペーパーナプキンを指差す。憲紀に見られまいと咄嗟に隠したクッキーだ。
バレてしまった今はもうその必要はなく、ナマエはペーパーナプキンを広げて中にあるクッキーを差し出す。

「はい。どうぞお召し上がりください」

「食べさせて欲しい」

憲紀らしかぬ願いにナマエは驚きに一瞬瞳を大きく見開き、それから瞳を笑みの形に細めて頷く。

「あーんしてください」

「……私は子供ではない」

といいつつも憲紀は唇を開く。
薄く整った唇からは綺麗に並んだ歯列が覗き、ナマエは胸を高鳴らせつつ、クッキーを一枚憲紀の口元へ運ぶ。

「いかがですか?」

「とても美味しいよ。ナマエはコーヒーだけでなく、菓子作りもできるのだな」

「今のところクッキーしか作れません……」

「これだけ上手にできれば、他のものも作れるようになるのではないか?」

「クロワッサンとかもですか……?」

言うまいと我慢していたことであるが、ナマエはつい抑えきれずに八尾のことを暗喩するようなことを口にする。

「まさか彼女のことを気にしているのか?クッキーを作ったのもそういうことなのか?」

「そうです……憲紀さまに近づく女性は警戒してしまいます。八尾さんには下心はないとわたしは信じたいとは思います。ですが……八尾さんは憲紀さまばかりにベタベタして、顔も近づけ過ぎですし、この前は憲紀さまの腕を触っておりました……」

数日前のことだ。偶然憲紀が八尾と話しているところを見つけたナマエが植え込みに隠れて二人の様子を窺ってみれば、八尾は下心としか思えない振る舞いをしていた。未だにその時のことを思い出すだけでナマエは嫉妬で胸を苛まれている。

「あれには私も困ったが……見ていたのか?」

「はい。実は拝見しておりました……」

「それはもしや嫉妬か……?嫉妬というものをしてくれているのか?」

「……恥ずかしながらそうです」

「そうか……ナマエも嫉妬というものをするのか。確かに映画に出てくる裸婦にそのような様子を見せたことはあったな……そうか、ナマエも嫉妬を……」

憲紀は口元を綻ばせ、ナマエが嫉妬していることについてやたら嬉しそうに話す。

憲紀の複雑な境遇から女性の妬み嫉みを忌避するようなイメージがあったが、嫌うどころか好意的に捉えてくれるらしい。

「今までも何度かありますよ。今はそんなことはありませんが、編入したては西宮さんたちにも嫉妬しておりました」

「気がつかなくてすまなかった……どうすればいい?ナマエが望むなら女性の連絡先は全て消す」

「いえ、それでは任務で困ってしまいますし……そこまでは求めておりません……わたしはただ憲紀さまが他の女性に好意をもたれて接せられているのが心配なのです」

「それは杞憂だよ。彼女には亡くなった弟がいて、私と雰囲気が似ているらしくてつい構いたくなるそうだ」

「……わたしは酷い人間です」

ナマエは八尾に下心があると思い込み、理由を聞かずして彼女の行動を自己解釈で批判した自分を恥じて俯いた。

憲紀の言う通り善意ではなかったにしろ、八尾は亡くなった弟を想って憲紀に接していたのだ。そんな可哀想な人を僻み、恨んで、対抗心を燃やしていたばかりでなく、憲紀にまでそれを曝け出してしまうなんて情けないにも程がある。

「ナマエは酷い人間ではないよ。むしろ良い子だ」

「憲紀さまがお優しいからそう感じてしまうだけで悪い子です……彼女のことを反省して参ります……」

ナマエはショックで塞がる胸に手を当て、ふらふらと厨房を出ようとすると、憲紀に後ろから抱き竦められ、身動きが取れなくなった。
体の前に回された腕には力が込められ、服越しでも憲紀の体温を感じて心臓がとくりと跳ねる。

「憲紀さま……?」

部屋の外では滅多にされない行為にナマエは驚き、少し頭を反らして憲紀を視界の端に捉える。

「彼女のことは気にしなくていい。弟の件については既に立ち直っているらしいからね」

「本当ですか……?」

「ああ。だから、そんなに落ち込まないで欲しい」

「少し安心できました……」

八尾が立ち直っているのなら、とナマエの胸を苛む罪悪感が薄れる。

「私としてはナマエに嫉妬されるのは嬉しく思う」

「嬉しいのですか……?」

「ああ。それにこうしてクッキーを作るという行動に出てくれたのもとても嬉しいよ」

「……そうですか」

実はクッキーを作る以外にも、奇行とも呼べる行動をしていたナマエは反応に困った。
憲紀と八尾の様子を見たのは実は植え込みからで、その際顔や服に汚れをつけていた、などとはとてもじゃないが言えない。それに陰で八尾のことを一度だけ泥棒猫呼ばわりしたこともある。

ナマエが八尾への嫉妬で醜い感情を抱いたことを思い出し、癒えかけた罪悪感が再び襲ってきた折、食堂から八尾が入ってきた。

「あっ……ごめんなさい……!」

八尾は憲紀に後ろから抱きしめられるナマエを目に留め、それからキッチン台に乗るクッキーの大皿に目を走らせると踵を返し出て行ってしまった。

ナマエも憲紀も油断していた為に咄嗟に反応できず、八尾がいなくなってから気恥ずかしそうに互いに体を離した。

「見られてしまったが、彼女も私とナマエの関係は知っているだろう。問題ない」

「はい……」

ナマエは八尾のいなくなった方を不安げに見た。

八尾が自分を見た時、最初は驚きの表情、それから眉根を寄せて見開いた瞳を細め、睨んでいたように感じた。一瞬の出来事であったのだが、彼女の瞳に確かに嫉妬のような感情が見えた気がしてならない。

「大丈夫か?彼女が私を弟のように思ってくれているのなら誰にも言わないものと信じているが……」

「わたしもそう信じたいです……コーヒーを用意いたしますのでクッキーを食べませんか?」

純粋に八尾の言葉を信じる憲紀の手前、ナマエは八尾の不審な反応について口に出すことはできず、一旦憲紀と自作のチョコチップクッキーを食べることにした。



 ◇



翌日、八尾からチョコチップクッキーを渡されたがナマエの為に断った、と憲紀から聞いたナマエは背筋を凍らせた。ナマエが昨日チョコチップクッキーを作ったことを八尾が知った上で同じチョコチップクッキーを作るとはナマエに対する対抗意識に他ならないだろう。

ナマエは八尾と今後どのように接していいか悩んだが、それから間もなく八尾が補助監督を辞めて今は関東方面で一般職に就きながら窓として働いてると風の噂で聞いた。八尾と顔を合わせる時についての悩みがなくなった一方でなんだか釈然としない気持ちになる。

八尾の名誉の為に一連の話を真依たちに黙っていたナマエであるが、八尾が関東方面へ行ってしまったことをきっかけに相談してみることにした。

「諦めてしまったようですが、八尾さんは絶対に憲紀さまが好きでした……亡くなった弟さんのお話は嘘だったのでしょうか……」

寮の共有スペースでナマエは深刻な面持ちで話す。その場にいる西宮や真依、三輪はそもそもナマエと憲紀の仲を理解した上で八尾の存在を問題視していなかった為か最初は呆れた様子であったが、彼女の弟の話をすると興味を持ってくれた。

「んー、弟の話が嘘かまたは弟の話は本当だけど弟とデキてたり?」

「桃ったらドラマの見過ぎよ。どうせ弟は関係なく許嫁がいる男を弄んでみたかったんじゃない?いるわよ。人のものばかり欲しがる女って」

「真依もドラマの見過ぎなような……」

「じゃあ、霞はどう思うのよ?」

「うーん……その方に本当に亡くなった弟がいるのか調べるのがいいかなって思いますけど、何か忍びないですね……」

「確かにそのようなことは調べたくありませんね……」

「ってことは謎は迷宮入りだね。ナマエちゃんは危機が去ったことを喜びなよ。まぁ、危機という程のものでもなかったと思うけど」

「確かに恋敵がいらっしゃらないのは精神衛生的にとても良いことです」

「恋敵じゃなくて泥棒猫でしょ?」

「真依さん……!」

「ぷっ……真依ちゃん、それ笑っちゃうから言わないでって!泥棒猫ってそれこそドラマとかでしか聞かないやつ!というかドラマでも滅多に聞かない!ふふ……あはははっ!」

「西宮さん、笑い過ぎです!」

ナマエは顔を真っ赤にして声を張り上げる横で、三輪が「まあまあ」と宥める。その三輪の唇が綻んで肩が震えているのを真依が指摘すると、西宮がまた一段と笑い、真依と三輪もつられるようにして吹き出す。

元来笑いは負の感情を吹きはらうもの。声を上げて笑う三人を見ると、ナマエはなんだか八尾について悩んでいたことが馬鹿らしくなり、彼女のことについて考えるのはやめることにした。





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