ハイヒールトリップ

(0巻より数年前の過去時系列)
 
 休日はハイヒールを履く。
 高専時代、初めて任務の報酬を貰ったとき、それで精一杯の背伸びをして買った七センチのハイヒールを履いた日に決めた、私のちょっとした決まりだ。
 
 初めてハイヒールを履いた時は、背筋がピンと伸びて、自分の視線も高くなって、世界が変わったような気がして胸が高鳴った。でもその日は少し歩いただけで足が痛くなってしまって、結局元々履いて来たスニーカーに途中で履き替えて帰る羽目になったのは苦い思い出だ。
 それでも、靴を履いただけで世界が違って見えたあの瞬間が、なによりも特別なものに思えた。

 生まれた時から呪霊なんてものが見えて、進む道が決まっていた。御三家なんて家とは比べることも烏滸がましいぐらいの小さな家系だけど、一応実家は呪術に通じる家だったから、周りとは違うんだということも幼い頃から教えられてきたし、酷い扱いを受けただとかそう言うことは全く無い。ちょっと特殊なだけで、普通に幸せにここまで生きてきた方だと思う。
 それでも、ずっとどこか閉塞感を感じていて。狭い世界だから尚更そう感じてしまっていたのかもしれないけど、そんな中で出会ったあの一瞬に、心奪われてしまったのは仕方ないことだったのだと思う。

 今日は休日。ハイヒールを履いて、違う世界に行ける日。
 実際に違う世界に行っている訳ではないけれど、普段の黒スーツなんかとは似つかないような目一杯のお洒落な服と、鮮やかな色で顔を彩り、仕上げにハイヒールを履けば、あの頃と全く変わらない気持ちに包まれる。これで充分だ。
 高専時代はなかなかハイヒールに慣れなくて、寮からの山道ですぐ足が痛くなってしまうから、スニーカーで外出して途中で履き替えたりしていたけど、流石に卒業してから数年、すっかりハイヒールにも慣れて予備の靴なんて必要なくなった。
 ふわふわと上がる気持ちのまま自宅をあとにして、今日はどこに行こうか考える。そろそろ新しい服が欲しいかもしれない。そういえばいつものショッピングモールに新しいカフェが入ったんだっけ。そこで軽く食事をするのもありだな。
 そんなことを考えながら、思い浮かべたショッピングモールへ向かい、ふらふらとお店を冷やかしつつ、店員さんの話術に引っかかりつつ、思うがままに買い物を楽しんだ。

 ちょっと買い過ぎたかもしれない。少し遅いお昼の時間にお目当てのカフェに入ってから食事も終え、ゆっくりとコーヒーを啜りながら隣に置いたショップバックを横目で見た。
 一人で買い物をすると止めてくれる人間がいないから、なんて誰に向けるでも無い言い訳をしつつ、この後の予定を考えていた時、スマホが着信を告げる。伊地知先輩からだ。先輩に対して失礼だとは思いつつも、嫌な予感を感じながら電話をとった。
「……はい、ミョウジです」

 嫌な予感は見事的中、予定外の呪霊の出現で、術師はなんとか捕まえたものの補助監督が足りず、私に休日出勤の白羽の矢が立ってしまったという電話だった。
 しかし残念ながら今日の私は完全休日スタイルだ。自宅に戻るか、高専に一度行けば更衣室にワンセット予備が置いてあるので着替えられるものの、事態は急を要するらしく、私の着替えに取れる時間はない。ということでバタバタと人員配置が組み変わって、高専で事務仕事を捌いていた別の補助監督が急遽現場に駆り出され、代わりに私が事務を受け持つことになった。事務仕事と侮る勿れ、どうやら期限が差し迫るものばかりで、これを寝かせてしまうわけにはいかないらしい。
 溜息を吐きながら高専の門を潜る。そして事務室に先に顔を出したが最後、あまりにも修羅場すぎて服を着替える時間さえももらえず、私は机と椅子に縛り付けられることとなった。
 
 すっかり日も落ちた夕方、粗方今日片付けるべき書類も出来上がった頃、外に出ていた人達も帰ってきて、やっと帰れそうな雰囲気を感じ、長時間同じ姿勢になっていたことで凝り固まった身体を軽く伸ばした。
「ミョウジさん、今日はお休みだったのにすみません……ありがとうございました」
「あ、伊地知先輩。先輩こそお疲れ様です」
「おかげで何とかなりましたので、もう上がって大丈夫ですよ。といってもこんな時間ですが……」
「そうですか?じゃあ、お言葉に甘えて」
「お疲れ様でした」

 明らかに疲労困憊な様子の伊地知先輩に、まだ手伝えることがあるならやりますよ、なんて言えたらよかったのだろうが、残念ながら今の私は休日スタイル。この格好で長い時間この高専という世界に居たくなかった。手早く机を片付け、端にまとめていたショップバックを持ち、事務室をあとにする。
 ハイヒールで歩いているだけの慣れた道なのに、いつもは鳴らないコツコツという自分の足音のせいで世界観がぶれてしまう気がした。
 ああ、はやくここから帰りたい。逸る気持ちが抑えられず、割増早歩きで門を目指していたところで、曲がり角、突如現れた壁と衝突した。
「おっと、ごめんごめん……って、あらら?」

 壁だと思ったものは五条さんだった。ぶつかったあと私の身体を支えてくれたおかげで転ばずに済んだけど、そのまま腰を抱かれて動けない。その上、頭の天辺から足の爪先までじっくりと見られ、普通に居心地が悪い。
「……なんですか」
「いやぁ、なんだか今日は随分と可愛いな、と思って。今からデート?」
「違います、休日出勤だったんです。もう帰るので離してください」
「え〜なんかいつにも増して冷たくない!?もう帰るとこならちょっと僕に付き合ってよ」
「嫌です、って、ちょっと!」

 正面から抱きとめられていた体勢からくるりと動かされ、隣り合って一緒に歩く状態に変わる。なおも腰は抱かれており、完全に恋人の距離感だが、私たちはそういう関係ではない。
 ……いや、以前からなんとなく五条さんからのアプローチは受けているけれど、躱しているというのが正しい。私の何がこの人のお眼鏡に適ったのかは分からないが、私が高専を卒業し、補助監督として働くようになってからいつに間にかこうだ。意外とプライベートにはあまり踏み込んで来ないから、強く拒否することも憚られ、放っておくこと早数年。どうしたものか。
 されるがまま、ご機嫌に歩く五条さんに連れられて高専の門を潜った。どのタイミングで付け替えたのか、目隠しスタイルからサングラスに変わっている。
 相変わらず顔は綺麗……だけど、いつもとちょっと違和感。なんだろう、と歩きながらちらりと盗み見つつ考えていると、五条さんがこっちを見てばちりと目が合った。

「なぁに、そんな見つめちゃって。悟くん照れちゃう」
「なんでもありません」
「待って、拗ねないで!いつもよりナマエの顔が近いから照れ隠しだよ」
「……あぁ、ハイヒールか」
 顔が近い、と言われて違和感の正体が分かった。今日の私は休日スタイル。五条さんにぶつかってしまってから彼のペースに振り回されて、つい忘れてしまっていた。
 五条さんが足を止めて私の顔を覗き込む。

「君がハイヒール履くなんて知らなかったな。それにこんなに可愛い格好して……もう少し僕に心を開いてくれるのを待ってたんだけど、一度見ちゃったら我慢できなくなりそう。もっとナマエのことが知りたい」
「……困ります」
「ずっと分かってたでしょ。そろそろ腹括って受け入れてよ」
 そう言いながら顔を近づけられ、額同士がこつんとぶつかった。あまりにも近い距離に、顔の温度が上がる。耐えきれずに視線は外してしまった。なんとか腕を動かし、五条さんの胸を押して距離を取ろうとするも、私の力が弱いのか五条さんが強いのか、全く動いてくれなかった。

「こっち見ないの?はは、いいねハイヒール。僕があんまり屈まなくても顔が見やすいし、キスも簡単に出来ちゃうね」
「やめて、ください……」
「んー、どうしよっかなぁ」
 五条さんが動くのがわかり、反射的にぎゅっと目を瞑った。
 柔らかい感触が一瞬頬に触れてちゅ、と可愛らしい音が鳴り、気配が離れていく。
「今日はここにしといてあげる。代わりに、今から僕とディナーなんてどう?」
 ま、拒否権なんてないけど!と上機嫌に笑いながら進む五条さんに私はもう流されるまま。本気の五条さんからは逃げることはとてつもなく難しい気がするし、そろそろ言う通りに腹を括るしかないのかもしれない。
 
 違う世界に行く気分を楽しむだけのハイヒールだったのに、このままじゃ本当に違う世界に行けちゃいそう。

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