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客足が途絶えず、三十分オーバーしてしまったが14時半に退勤することができた。なまえはカフェラテをおかわりして、安室の仕事が終わるのを待っていた。

「今日は僕が奢りますよ」
「え…どうして?」
「遅くなってしまったし、まぁそういうことにしてください」

なまえはいつもと同じようにお財布からお札を取り出して渡そうとしてくる。その顔が今までと変わらなくて安心した。向けられてる対象が安室に移っただけだ。
近くの駐車場に停めておいた愛車に乗り込む。スポーツカーなんて乗ったことがないのか、なまえは「高そうな車だね」と一言だけ漏らした。助手席のシートに収まるも、慣れない低車高の車体に少し居心地が悪いらしい。住所を聞いて車を発進させる。目的地に着くと、それはパステルカラーの可愛らしいアパートだった。男二人が住むには少し不釣り合いかもしれないと思った。

「車ないから出かけてるみたい」

空いている駐車スペースを見て、少し安堵した。なまえの表情が緩んだことに安室はもちろん気づいていた。ここに近づくにつれ徐々に会話は減り、次の信号を左だとか、この交差点を右だとか、道順の指示しか話していなかったからだ。

「すぐ戻ってくるから、あそこの角曲がったとこで待っててもらえますか?」

ここで待ってますよ、なんて無粋なことは言えなかった。少しでも人目を避けたかったのだろう。それは、万が一のことを考えて。なまえを降ろして、言われた通りに死角になる位置に車を停めた。



アパートの鍵を開けて中に入る。昨日まで住んでいた家なのに、もう他人の家のようだ。特に断りもなく来てしまったから、少しばかり罪悪感を感じた。
今日は最低限の物だけ持ち出そうと思っていたから、仕事に行くために必要なスーツやカバン、下着類を手早く旅行用のボストンバッグに詰め込んだ。この際、多少シワがついたとしても仕方ないと思った。靴も革靴と、もう一足履き慣れているものを入れた。

ふと冷蔵庫を開けると昨日で賞味期限の切れたヨーグルトが残っていた。やっぱり、と思った。こういうことに鈍感な人だ。きっとこのヨーグルトはあと一週間はこのまま放置されるに違いないのだ。

他に持って行くものはないかと見回して、寝室のリングケースが目に入った。大したリングではなかった。高級ブランドというわけでもないし。結婚というゴールのない関係だからと、二周年の記念日に彼が贈ってくれたものだった。これを一つの区切りにしよう、と。結婚式みたいに指にはめてもらったあの日の温度を、今でも鮮明に思い出せる。

好奇心半分でそのケースを開ける。少し指が震えていたかもしれない。一回では上手く開かなかった。

「ほんと、馬鹿みたい…」

思わず零してしまった本音。嗚呼、本当に馬鹿みたいだ。そこには今、自分の薬指にはまっているリングが確かに存在していた。未練がましいのは自分だけなのだ。彼はもう自分のことなどすっかり終わりにしたのだと。自分は何を期待してこのケースを開けたのだろうか。もしもここにリングがなかったとしたら、彼とやり直せると思った?そんなことは有り得ないはずなのに。本当に愚かだ。


▽▽▽


「遅いな…」

車の時計を見て安室は呟いた。すぐに戻ってくると言っていた割にはもう三十分以上経っている。思っていたより荷物が多かったのかもしれないが、一分一秒がこんなに長く感じるなんて。様子を見に行こうかと思って、ドアに手を掛けたがすぐに引っ込めた。ここで万が一にも遭遇してしまったら、なまえの立場を不利にしてしまうかもしれない。スマホを開いて気を紛らわせた。

コンコンと、左側の窓がノックされる。なまえが戻ってきたようだ。後部座席に荷物を乗せ、「おまたせ」と安室を見たなまえの目にはうっすら涙の跡が見えた。




2018.09.03

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