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視線を合わせた彼の目ははっきりと充血していた。その涙の痕跡に触れるべきか触れないべきか。安室は悩みながらも声をかけた。

「大丈夫ですか?」
「うん、すぐ必要なものは持ってきたから」

安室はそういう意味で大丈夫かと聞いたわけではなかったが、なまえは都合の良いように受け取ったらしい。触れられたくないのならそれで良かった。話したい時に話してくれれば。まだそこまで関係を築けていないのもよく分かっている。

「夕飯、ちょっと行ってみたいお店があるんですけど良いですか?」

それは仕事帰りに見かけたお店だった。入り口は狭く、歩道に面した窓もなく。一見寄せ付けない佇まいのお店だったが、店の前に置かれたメニューの感じやチョークボードにあしらわれた本日のオススメなど。料理好きの安室としては非常にそそられる雰囲気があった。
裏通りにある駐車場に停めて角を曲がる。ここなんですけど、となまえを促すと少し緊張した面持ちになっていた。中に入ればテーブル席が4席とカウンターが3席。入り口同様、店内は狭くこぢんまりとしていたが家具の一つ一つにこだわりの見られる内装だ。 休日だから満席かもしれないな。予約をしておけば良かった、と思ったが入れ違いに家族連れが出たため運良く席を確保することができた。

「安室さんって、こういうお店に詳しいの?」
「詳しいってほどじゃないですけど、新しいお店を探すのは好きですよ」

テーブルの上に置かれたキャンドルの灯りが心地の良いリズムで揺らいでいる。前菜とスープ、メイン料理を二品ほど頼んでシェアすることにした。味付けも程よく、初めて来たお店だったが正解だったなと思った。なまえの口にも合っていたようで、口元が綻んでいる。車でなければワインでも嗜みたいところだが、それはまた別の機会にしよう。 最後の食後の小さめのデザートとコーヒーを楽しんで店を後にした。

「すごく美味しかった。ありがとう」
「どういたしまして」

彼もすっかり安室に打ち解けたようだった。話しぶりもそうだが、並んで歩く距離も昨日に比べればだいぶ近づいたような気がする。

「特に用事がなければこのまま帰りますけど、どうします?」

明日は月曜日だし、遅くならない方が良いだろうという安室の判断だった。なまえはうーんと言って目を逸らした。何か思い当たる節があるのだろう。

「寄るところがあれば行きますよ」
「あのさ……ここから海って遠いかな?川でもいいんだけど」
「埠頭で良ければそんなに遠くはないはずですが」

ここから二十分程度走らせれば台場近くの海浜公園に行けたな、と頭の中で地図とルートを描く。でも、そんなところに何故…

「じゃあ、連れてってくれる?」
「…わかりました」

安室を見上げるなまえの目は有無を言わせない強さだった。車に乗り込み、アクセルを踏む。料理を口にしながら楽しそうに笑みを浮かべていた彼はまるで何処かに行ってしまったようで。今、安室の隣に座っているなまえは一言も発せず、何か思いを固めているように見えた。



「着きましたよ。ここで良かったですか?」
「ありがとう」

それだけ言うとなまえはさっさと車を降りて、すたすたと埠頭の公園に向かってしまった。安室も鍵をかけて早歩きで追いかける。コンテナターミナル横に併設されたこの公園は対岸に都心の夜景が見え、知る人ぞ知る穴場だった。
カップルが数組滞在していたが、公園自体が広く距離もあるためお互いの会話は聞こえないだろう。

「これを捨てたくてさ」

岸壁のフェンスまで無言のまま歩き続けていたなまえが漸く口を開いた。“これ”が指すものなんてすぐに察しがついた。薬指からそっと引き抜かれるもの。その動きが妙にスローモーションに映った。

「もういいんですか?」
「え?」
「いや、随分と名残惜しそうにしてたから」

その言葉に彼は切なく笑った。岸壁にぶつかる優しい波の音が聞こえて、潮風が鼻を掠めた。

「大丈夫。もう必要ないって、わかったから」
「……」
「もういいんだ」

そして、大きな動作でリングを宙に放った。微かな光を反射して、その銀色は小さな音を立てて水面に吸い込まれていく。

「今まで、ありがとう」

海に消えた指輪も、あの優しくて愛おしい生活も一生戻ってこないのだと思うと、震える声も、溢れる涙も堪えられなかった。もうこれで最後にするから、今だけはどうか許してほしい。こんなに未練がましく泣くのは今夜限りで終わりにするから。どうか、今だけは───。

「なまえくん…」

後ろから安室の腕が回されなまえの体を包み込んだ。その腕はがっしりと筋肉質で男らしく、とても温かい。潮風で冷えた体に染み渡るようだった。

「…安室さん」

振り絞るように安室の名前を呼ぶ。涙声の彼の頬にゆっくり手のひらを寄せ、親指で拭った。

「泣かないでください。僕が傍にいます」
「ありがとう。ごめんね」

対照的な二つの言葉を並べるなまえの複雑な気持ちを痛いほど感じた。未練と諦めと。彼は彼なりにこの一日をかけて気持ちに整理をつけたのだ。もっと頼って欲しい。もっと甘えて良いのだと、もう一度抱きしめる腕を強める。それに呼応するように、彼の手が安室の腕に添えられた。しっかりとその存在を感じるかのように。大きくて力強いその存在に、自然と安心感を抱いていた。

「もう、大丈夫だから」

ゆっくりとなまえの体重が安室の身体にかかる。そして、安室は彼の柔らかな髪に頬を寄せた。
それはまるで、壊れやすい大切な宝物を扱うみたいに。そっと。

夜の海は底知れず仄暗い。遠くから聞こえる貨物船の汽笛を聞きながら、彼に寄せるこの想いの意味を知ってしまった。まるで深い海に溺れてしまったかのように、もう抜け出すことは出来ないのだと───。




2018.09.13

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