抑えきれない純情
やめた方がいいなんて、言われなくてもわかっている。生徒と教師。ましてや男同士なんて乗り越えるべき壁が高すぎる。
「あーぁ…」
「おっ、恋煩いか?」
読書する親友の横で、図書館の机に突っ伏しながら降谷は大きくため息をついた。今日は彼の授業があったから余計に苦しい。他の生徒に向けられた視線、笑顔。いつものように教壇に立つ彼に熱の籠もった瞳を向けてみても、一度も交わることはなかった。それは夏休みが明けてから徐々に減っていき、今となってはゼロだ。あからさまに避けられている。
「恋煩いで悪いか」
「相変わらず、降谷くんは純情ですねぇ」
「うるさい!」
親友の口を塞ぐため、そんな台詞を吐いてみたものの思いのほか声が大きく、静かなこの部屋にはよく響いた。彼は口元に人差し指をあて、しーっとジェスチャーをする。うるさいのは自分の方だと、まるで子ども扱いされているようだ。周りの注目も集めてしまって尚更恥ずかしい。
「はぁ……」
もう一度ため息を吐いて、腕に頭を乗せた。寝ても醒めても彼のことばかり。向こうから警戒線を張られている以上、迂闊にこちらから近づくこともできない。胸がつかえて息苦しい。動悸を抑えるようにゆっくり深呼吸を繰り返していると、隣でぱたりと閉じる音がした。
「俺は帰るけど。ゼロは?」
「んー……もう少し居る」
「そっか。じゃあ、また明日な」
「おー」
気の無い返事を返せば、彼は突っ伏した降谷の髪の毛を無造作に掻き混ぜて、元気出せとばかりに頭を二度ぽんぽんと叩いて去っていった。
いつもなら一緒に帰るのに。今日はどうしても気分が向かなかった。このしくしくとした胸の痛みを感じながら、あの日彼に触れた温もりをひっそりと思い出したかった。
いつの間にか眠っていたようだ。頭を乗せていた腕は赤く色を帯びていて、気が付けば下校のチャイムが鳴り終わり、余韻を響かせている。陽はすっかりと落ち切って、空は橙と濃紺が混じり合っていた。
重たい体を持ち上げて、昇降口へ向かう。孤独な足音が周囲に木霊していた。何気なしに見たその階段の隅に見つけた黒い塊。手に取ってみれば、それは黒革の財布のようだった。電気の点いていない階段でおそらく落とした本人も、通りがかった生徒や教師も誰も気が付かなかったのだろう。職員室にでも届けるかと財布を開いて身分証を確認した瞬間、心臓が飛び出るほどにドクリと高鳴った。
“みょうじ なまえ”
そこには彼の氏名だけでなく生年月日まで記された免許証。そして、住所も。自然と手が震えていた。会いたくて仕方なかった。警戒線を張られ近付けないというのなら、これを口実にして踏み越えるしかない。ただただじっとしているだけだなんて、自分の性に合わない。免許証を元に戻し、届けようと思っていたはずのその黒い財布はそっと降谷の鞄に仕舞われた。
彼の住む駅は学校の最寄駅から三駅。しかし、降谷の住む地域とは反対の方向だった。滅多に使わない路線のため、見慣れない景色が広がる。駅前には昔ながらの商店街。スマホの地図が指し示した場所は、このアーケードを抜けた先だ。立ち並ぶ店舗から香る、美味しそうな揚げ物の匂いにぐぅーっとお腹が鳴った。
見えてきたマンションは六階立て。住所から彼は五階に住んでいるらしい。エントランスのマンション名と、ポストの表札からここであることは間違いなさそうだ。エレベーターが昇ると同時に、心臓の鼓動も早まっていった。衝動で押しかけてしまったが、迷惑ではなかっただろうか。いや、きっとそうだろう。それでも一目でも会いたいと思う自分は、なんて貪欲で浅はかなのだろう。そんな自分に苦笑しながら、少しばかり震える手でインターホンを押した。
『…はい』
「あの、降谷です」
『えっ』
機械越しの声が強張ったのを感じた。このままでは門前払いされてしまう可能性もある。だからすぐに次を繋いだ。
「みょうじ先生、財布落としてたから届けに来たんですよ」
『え……あ、そうだったんだ。少し待っててくれる?』
機械音が切れて、無音の空間が広がる。耳を澄ませば奥からパタパタとスリッパの走り回る音が聞こえた。恐らく鞄の中身を確認しているのだろう。待ってと言われたのだから、今すぐ追い返される可能性は少ない。しかし、この短い時間がとてつもなく長く感じるのは、やはり彼が恋しいから。廊下の壁に凭れ掛かりながら、高鳴る心臓を落ち着かせようと大きく息を吸った。暫くして足音が近づき、開錠の音が聞こえる。
「ごめんね、お待たせ」
ドアの隙間からそっと顔を覗かせた彼は見慣れない部屋着姿で、「部屋汚いから、玄関までだけど」と降谷を招き入れる。久しぶりに交わった視線が愛おしくて、胸が締め付けられる思いがした。
「先生、これ階段に落ちてましたよ」
「ありがとう。今日買い物しなかったから気付かなかった」
いつもスーツを纏った緊張感のある彼が、へらっとあどけない表情を見せる。普段、学校で降谷に向ける警戒心はあまり感じられず、彼を包む雰囲気は柔らかい。初めてみる彼の姿に顔に熱が集まるのが良くわかる。そんな顔を見られないように、俯いて誤魔化した。
「降谷?どうした?」
背が高いというのはこういう時損だ。隠したくても隠し切れない表情を、幾分か低い位置から覗き込まれて理性の糸が弾けた。
「みょうじ先生」
「っ…!」
彼の両肩を掴んでオフホワイトの壁に押し付ける。力の加減を忘れて、ぶつかった肩の痛みにみょうじは顔を歪ませた。
「先生、僕のこと避けてますよね」
「……」
「いつも逃げてるじゃないですか」
「……そんなことないよ」
痛みと驚きで大きく瞳を見開いて降谷を見つめていたそれが、すっと気まずそうに逸らされる。はぐらかしていることがばればれだ。
「だったら、なんで」
「……」
「なんでそんな無防備に部屋に入れるんですか!」
その細い体を縫い付けたまま、齧り付くように唇に触れた。自由だった両手で抵抗するも鍛えている降谷の体はびくりともしない。それどころかその手首を掴まれて、抗う手段を奪われた。
「んぅ………っ、あ…」
優しく、それでも情熱的に。唇を何度も吸われて、あの夏の日を思い起こさせるような激しいそれに、みょうじの理性も降谷によって何処かへ飛ばされてしまいそうだった。
「はっ、」
息を吸うために唇を離した降谷の瞳はあまりにも欲情的で、流されてはいけないと必死に理性を保つ。力強く握られていた手首にそっと唇を寄せ解き放たれたものの、もはや抵抗する気など残っていなかった。彼の所作をありのままに受け止め、「先生のことが好きなんです」と耳元で囁く低めの声に自然と身体の芯が震えた。
「みょうじ先生の気持ち、聞かせてもらえませんか」
「…ちょっと待って」
何でも見透かしそうな、その透き通る瞳に見つめられてぐっと気持ちが込み上げた。正直に全てを伝えられたらどんなに楽だろう。そうすれば、これほどまでに彼に苦しい思いをさせることも、切ない気持ちにさせることもなくて済むというのに。二人を阻む壁はあまりにも高くて厚い。
「お願い、もう少し待って」
「先生……」
「時期が来たら必ず返事するから」
みょうじの懇願するような視線に耐えかねて、降谷は頷くほかなかった。それでも、ほんの少しでも、と。縋るようにその温かな唇をもう一度だけ啄ばんだ。
2018.10.14
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