月映えに浮かぶ恋人たちへ
ドクドクと脈打つ左腕を庇いながら、残された気力と体力を振り絞り足を動かす。あの瓦礫の散乱する中、コナンと別れ向かうのは霞ヶ関にある警察庁。混乱の収まらない現場を部下や刑事部に任せて、一人立ち去るというのはどこか後ろめたいものがあったが、こんな状況でも自分が陣頭指揮を執るわけにはいかない。ましてやこんな大怪我を負ってしまっては100%のパフォーマンスは到底無理そうだ。コナンの協力もあり最悪の事態は回避されたわけだから、この先は任せても大丈夫だろう。
本庁に戻ってもやるべき仕事が山のようにある。事件の経過から終結まで。一体何枚の報告書を書いたらよいのか考えただけでも頭が痛くなる。普段なら風見に任せてしまうのだが、今回の案件はゼロが動いたヤマだ。自分自身で仕上げなければならない。被害の全容も見えていない中、この件はまだまだ尾を引きそうだな、と降谷は思わず溜息を零した。
鈍い音を立ててポケットに入れていたスマホが振動する。足を止めて取り出して見てみれば、画面には無数にヒビが走っていた。先ほどの衝撃で割れてしまったのだろう。ぽろりとガラスの欠片が落ちた。まだ何とか指先には反応するようだ。
「はい」
『降谷か。今どこにいる』
「エッジ・オブ・オーシャンからそちらに向かっています。すみません、車を失くしたので時間がかかると思います」
『わかった』
上司からの通話を切り、もう一度ポケットに戻すとあることに気付く。怪我をした左腕に力が入らなくなっていた。掌を握ったり開いたり。何度か繰り返してみるが、どうも力が入れづらい。傷口を確認したわけではないが、あの出血量からして軽症では済まないだろう。自分でも分かってはいたが、想像以上のようだ。今後の動きや他の仕事にも影響が出てしまうだろうか。痛みはとうに通り越していた。
重たい体に鞭を入れながらなんとか橋を渡り切る。本庁への最短ルートは普段の景色とは一変し、通行量が圧倒的に少ない。こんなに静かな光景は見たことがない。緊急車両以外に通行するものが見当たらないということは、ここら辺一体は通行止めになったらしい。
「はぁ……っ」
ふと意識が遠のくのを感じた。ガードレールを掴んでみるものの、思わず手を出したのは左腕。案の定、体を支えるほどの力は入らずレールに凭れ掛かるように倒れこんだ。意識が朦朧としている。最初の爆発以来、仮眠以外のまともな睡眠を取った記憶は無い。流石に体力も限界が近づいていた。それに加えてこの怪我だ。しかし、こんなところでくたばるわけにはいかない。自分にはこれまで積み上げてきた地位、キャリア。そして、潜入中の組織での実績。赤井の居所だって掴みきれていない。為すべきことが山ほどある。守らなければならないものもたくさんある。まだ死ぬわけにはいかないのに、分かっているのに弱気になる。
「まさか……死ぬのか…?」
警察官という職業上、その仕事を全うして死ぬことが出来るなら本望だと思っていた。しかし、自分の死など現実的に考えたことは無かった。大切な同期がたくさん失われていく中、彼らの分まで自分が生きなければならないと強く思っていたから。
萩原、松田、伊達、景光、そしてなまえ。あの楽しかった警察学校の日々がまるで走馬灯のように駆け巡る。馬鹿やって、連帯責任だと六人で怒られたのも懐かしい。毎日の厳しい訓練に過密なスケジュール。みんなで弱音を吐きながらも何とか乗り越えられたのは、仲間がいたからだ。それもいつしか残されたのは降谷となまえの二人だけになっていた。そんななまえは今では降谷の大切な恋人だ。彼を一人置いて先に逝くなど出来るはずがなかった。
「っ、……やばいな…」
近づいてくる緊急車輌のサイレンがエコーのように頭の中で鳴り響いている。思わず仰いだ先、照り輝く満月すらも二重に見えた。やはり自分の体も相当きているらしい。自分の意志とは裏腹に、お迎えが近いということかもしれない。ガードレール脇に隠れる降谷の存在など気づかずに、二台の救急車は猛スピードで通り過ぎて行った。
流石に誰か助けを呼ばなければ、体力、精神力に長けた降谷とはいえこれ以上は難しそうだ。ついに右腕にも力が入らなくなっていたが、最後の力を振り絞って電話帳のお気に入り欄を開く。そのトップに存在する名前…
「なまえ……」
その文字に触れて、降谷は意識を手放した。
▽▽▽
彼からの着信は無音だった。いくら呼び掛けても応答しない電話口の彼に、すぐに何かあったことを察した。弱みなど極力見せない彼がこうしてSOSのサインを送ってきたということは、相当危ない状況にあるということだ。早朝のサミット警備に駆り出され、既に勤務外だったなまえに掛かってきた緊急招集の電話。それとほぼ同時刻に掛かってきた降谷のただならぬ無言電話。どちらを優先するかなど愚問だ。
愛車の漆黒の大型バイクで規制線の張られた通行止めの幹線道路を突破し、追いかけてくるパトカーを振り切るために裏路地に入り、その反対の大通りへ抜ける。彼のことだから、見つかりやすい場所にいるはずもないことなど明確で。人目につきにくい物陰を、目を凝らして隈なく探した。
「…ぃ!…零!しっかりしろ、零!!」
大きな街路樹の陰、ガードレールに凭れ掛かったまま意識のない降谷の名前を大声で叫ぶ。首筋に触れれば、まだ体は温かい。息もしている。大丈夫、間に合った。
「……んっ」
ぴくりと動いた瞼を確認し、目を醒まさせるために頬を数度叩く。お願いだ、目を開けてくれと再び彼の名前を呼んだ時、暗闇の中に閉ざされていた碧色が顔を覗かせた。
「零…?」
「………なまえ…?」
「はぁ……よかった…」
意識が戻ったことにとりあえず一安心だ。落ち着いて状況を確認してみれば、左腕のジャケットがざっくり切れている。血が滴り、傷口を押さえたためだろう。両方の掌はべっとりと真紅で染まっていた。血は止まりかけているようだったが念のため上部を縛った方が良いだろう。傷口を刺激しないように上着を脱がせて患部を確認すると、生々しいそれになまえは一瞬顔を顰めた。
「きつく縛るけど、ちょっと我慢して」
「あぁ……」
持ち合わせていた薄色のハンカチに降谷の血がじわりと染み込んでいく。かなりの出血量だ。早く病院に連れて行かなければ予後に影響するかもしれない。なるべく急いだほうがよさそうだ。
「なまえ…」
「ん?」
「どうしてここが分かったんだ…」
「どうしてって……零の行動なんて考えなくても分かるよ。カジノタワーへの直撃を回避できたのは零のおかげでしょ?きっとそこから本庁に戻ろうとしてたんだろうし、逆に俺はそっちに向かおうとしてたからね」
「カジノタワーにか?」
「招集だよ。こんな大惨事じゃ仕方ない」
「私服で行くつもりだったのか…?そんなライダースーツで…」
「ちゃんと警察手帳と腕章は持ってる」
そんななまえの回答に「無茶苦茶だな」と降谷は力なく笑う。無茶苦茶なのはどっちだろうか。人のことは微塵も言えたものではないのに、と。本調子でない彼を前にその言葉を静かに飲み込んだ。
「行かなくていいのか…」
「え?」
「招集されたんだろ。行かなくていいのかと言っ…!」
人を無言電話で呼びつけておいて。散々心配をかけたくせにこの男は何を抜かしているんだ。本調子でないからと身を引いた数秒前の自分が馬鹿らしい。一気に頭に血が上ったなまえはまるで怪我のことなど一切忘れたかのように、乱暴に降谷の胸元を掴んで口づけた。それはムードも情緒も何もないただ唇を重ねただけのもの。なのに、彼の体温が直に伝ってくることに生きていることを実感し、目頭が熱くなった。
「はっ…ふざけんな!俺がどんだけ心配したと思ってんだよ!」
「なまえ…」
「クビになったって構わないよ!それ以上に零が大切なんだから!零が死んだらどうしようって……そればっかり考えて…」
降谷に縋りつくように顔を俯かせたなまえの手が小刻みに震えている。それは怖れか、それとも怒りか。血にまみれた掌を彼の後頭部に寄せ、優しく撫でた。いつもならさらさらと通り抜けていくその髪が今日ばかりは少し引っかかる。ゆっくり顔を上げた彼の唇をもう一度啄んだ。
「ありがとう、なまえ」
「本当に…生きててよかった…」
少しだけ潤んだ瞳で必死に笑顔をつくるなまえが愛おしくてたまらなかった。こんな怪我を負っていなかったら力の限り抱きしめてやるのに。今は手を添えるだけが精一杯なのが残念だ。
「病院に行こう」
「あぁ…」
なまえの後ろに跨って、自分より遥かに細いその腰に腕を回す。彼の肩越しに見る街のネオンに、自分の守りたかった国も人も。そして、誰よりも愛するなまえが。全てがここに存在していることに、改めて幸せを噛み締めた。
2018.10.23
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