Hello, my target.


グレーのスーツを脱ぎ捨てて、黒のベストに腕を通す。落ち着いた柄のネクタイを引き抜いては、代わりにループタイをつけた。懐には昨夜入念にメンテナンスをした銃を携えて。そして、ジャケットを手に取り、一息つく間もなく部屋を出る。

向かうは高層マンションの立ち並ぶ中にそびえる、一棟のホテル。仕事仲間との待ち合わせだ。仕事といっても公安ではなく、組織の方。地下の駐車場に車を停め、エントランスを潜れば躾の行き届いたホテルマンが荷物を預かりに来る。それをやんわりと断って、エレベーターに乗り込み大きく息を吐いた。上昇する感覚と共に、自分の意識も集中させる。公安の顔から、組織の一員・バーボンへと。フロントで受け取ったスペアキーを差し込み扉を開ければ、例の仕事仲間は窓の枠に体を預けながら望遠鏡でとある一室を覗き込んでいた。

「またそんな恰好をして…」

バーボンが呆れるのも無理はない。まるで見せびらかしているかのように美脚を惜しげもなくさらすコードネームに目を惹かれてしまうのは仕方のないことだろう。

「今更でしょう?」
「もう少し服を着てくださいよ」
「本来なら何も着たくないのに、貴方のためにこれだけでも着てあげてるんだから感謝してよね」

コードネームはわざとらしく深い溜息を吐き出した。黒い大きめのシャツから伸びるモデルのような白い脚。その下は履いているのか、いないのか。彼の視線がこちらを向いているのを分かりつつ、ゆっくりと脚を組み替える。まるで想像を掻き立てるようなその仕草にバーボンはさっと目を逸らした。

「ターゲットは?動きありましたか?」
「いや…」

ホテルの向かいに立つ高級マンション。その最上階の左から三番目が奴の部屋だ。彼が取引をするのは自宅と決まっていた。その瞬間をカメラで押さえるのが、今回のバーボンとコードネームの仕事。その証拠を狙撃班に回すのが狙いだ。

「君が来るのが遅いから疲れちゃった。ちょっと横になるからあとは宜しく。バーボン」

吐息混じりに耳元で名前を囁かれれば、ぞわっと全身が粟立った。コードネームはくわぁっと背伸びをしながら欠伸をし、手にしていた双眼鏡をバーボンの胸に押し付けた。そして、力の抜けた人形のようにふわっとベッドに俯せに倒れる。その弾みでシャツの裾が揺れて、柔らかな尻たぶがちらりと覗いた。

「ったく…」

目のやり場がないとばかりに羽織っていたジャケットを脱いで、少し乱暴にコードネームの下半身に被せた。 窓際のテーブルに置かれた望遠レンズ付きの一眼レフを手に取り、電源を入れて撮影済みの写真を確認する。彼が車を降り、エントランスに入る姿。部屋の明かりのついた瞬間。リビングのソファで寛ぐ姿。こんなにふしだらな恰好をしながらも、彼の仕事に隙はない。流石だと認めざるを得ない。


んん、と寝返りを打ってコードネームが目を醒ます。あれから数時間は経っただろうか。睡眠を取りすっきりした様子の彼に対し、バーボンは疲労が溜まってきたとばかりに目頭を押さえた。そんなバーボンの頬にするっと手を伸ばしながら「ありがとう」と微笑む彼を見ると、何処か疲れが軽減されたような気がするのは甘すぎるだろうか。

「特に動きなし?」
「えぇ。今日ははずれですかね」
「そう」

一人掛けのソファーに腰掛けながら、カメラと共に置かれていたシガーケースに手を伸ばす。黒革の高級そうな逸品だ。細身の一本を取り出して火を付けた。

「どうして禁煙ルームにしてくれなかったんですか」
「どうしてって……なんで?」
「僕が煙草嫌いなの知っているでしょう?」

その言葉にコードネームは楽し気に口元に弧を描いて立ち上がった。自分より背の高いバーボンの瞳を見据えて、わざと彼の顔に煙を吹きかける。たゆたう煙がバーボンを巻いて、そのおかげで彼の機嫌は急降下した。追い討ちをかけるように言葉を紡ぐ。

「それは、彼らを思い出すから?」

“ライと、スコッチ”

挑発するかのように敢えてその名前を口にした彼の襟ぐりを、バーボンは素早く掴み上げた。軽々と持ち上げられて踵が宙に浮く。刺すようなバーボンの視線にコードネームも少し顔を歪ませて、顔の横にゆっくりと両手を掲げた。

「勘弁してよ。せっかく半年ぶりに一緒に仕事してるのに。そんなに怒らないで」

コードネームのしゅんとした困り顔に、昂ぶった熱が冷めていく。こんなところで本気になっても仕方ない。過去の忌々しい記憶を刺激されたからといっても、優先すべきは目の前の仕事だ。冷静さを取り戻すようにバーボンは深く息を吸った。

「ごめんね、意地悪して」
「……」
「でも…煙草の一本や二本吸えないなんて、そんな意気地なしじゃないでしょ?」

指の間に挟んだそれを、バーボンの唇に押し付けた。彼が咥えたのを確認して、弄ぶように指の腹で下唇を摘まんで離れる。それに名残惜しさを感じたのは気のせいにした。 煙草が吸えないわけではなかったし、それは大人になる過程で何度か経験したこともあった。いわば通過儀礼のようなものだ。咥えさせられた細身のシガレットを吸い込めば、途端に苦みが広がっていく。吸えないわけではないが、好きでもない。やはり気に入らない、と。まだ長さの残るそれを乱暴に灰皿に押し付けた。

ターゲットの部屋の明かりが消された。中年男性の自由気ままな晩酌を終えて、今日は早々に床に就くつもりらしい。とりあえず、本日の仕事は終わりだ。「お疲れ様」と、冷蔵庫からビールを二本取り出し、そのうちの一つをバーボンに投げてよこした。プルタブを開ければ、その所為で少しだけ泡を吹く。ベッドサイドに腰かけて缶を煽れば、少しずつ全身の緊張感が解けていく。公安に、組織に。今日はいつにも増してタイトな一日だった。不意に「ねぇ」と甘やかな声が耳にかかる。

「なんですか?」
「惚けないでよ。分かってるくせに」

背後から腕を回されて、タイに手がかかる。その瞬間、ポケットに突っ込んだままのスマホが震え出した。発信元を見れば、件の女だ。

「こんばんは、ベルモット」
「バーボン。調子はどう?」
「特に変わりなく」
「そう、それならよかったけど」

慣れた手つきでタイをするりと抜かれて、次第にシャツのボタンも外されていく。開いた胸元から手が忍び込んで、じれったく触れられた。

コードネームとは仕事をする度に行為に誘われ、今まで何度も体を重ねてきた。付き合っているわけではない。お互い快楽を得るためだけの都合の良い相手だ。今回もこうなると分かってはいたが、こんなタイミングで仕掛けてくるとは誤算だった。それも今はベルモットとの電話中だ。コードネームとの関係を知られたら、またややこしいことになる。彼はそんな事は御構いなしと、はだけさせたバーボンの肩に舌を這わせていた。早くしたいと、誘うようなコードネームの仕草に少しだけ息が詰まる。

「っ…!引き続き明日も監視します。それでは」

相手の返事も聞かず、通話終了のボタンを押す。既に用無しとなったスマホと、早々に空になった缶を放り投げ、ちょっかいをかける悪戯な手を掴み上げた。

「少しは待てないんですか?犬じゃあるまいし」
「待たされるのは嫌いなの。待たせるのは好きだけど」

それは今日、この仕事の合流に遅れた自分への嫌味なのか。コードネームは煽情的な目を向けて、バーボンの顎を取って口づけた。熱い舌が口内を蹂躙する。彼に好き勝手させながらもバーボンは肩を押し、淫奔な身体を横たえさせた。期待に揺らぐ瞳がバーボンを捉えた。

「そんなことされたら、抑えが効かなくなりますよ?」
「やっと本気になってくれた?待ちくたびれちゃった」
「いいんですね。どうなっても知りませんよ」
「バーボンの好きにして…」
「そうですか。なら、遠慮なくそうさせてもらいます」

お互いに言葉の応酬だ。トーンは落ち着いているにしろ、その中身は穏やかでない。二人きりの空間で、お互いの熱と吐息が混じり合い、貪るように快楽を求め合った。


▽▽▽


朝の清々しい光に目を覚ます。少しだけ身を起こせば、腰に絡みついたバーボンの逞しい腕。それをそっとどけて、コードネームはサイドテーブルのスマホに手を伸ばした。

「Good morning, Vermouth」
「あら、こっちは夜なんだけど?」
「おっと、それは失礼」
「朝から随分とご機嫌がいいじゃない?」
「まぁね」
「その様子だと上手くいったみたいね。バーボンは手に入ったの?」

その名前に背後でまだ昏々と眠り続ける彼の頬に手を伸ばす。彼は人一倍警戒心が強いはずだが、今朝はいつも以上によく眠っている。組織の人間を中心に何人もの男と体を重ねてきたが、バーボンほど相性の良い男とは出会えなかった。他の男と寝ていても、彼から与えられる快楽が恋しくて何度も思い出してしまう。それに彼との行為は煽れば煽るほど激しさを増し、コードネームを溺れさせた。とはいえ、昨夜は流石にやり過ぎただろうか。半年ぶりに体を重ねる嬉しさに、理性など早々に何処かへ飛ばしてしまったが、自分以上にバーボンの方が夢中になっていたなんて。

「まぁそんなとこ。じゃあね」

勝手に通話しておいて一方的に切った電話の先で彼女が呆れた顔をしているのも知らずに、コードネームはバーボンの頬に口づけを落とした。組織の人間と寝ているというのに、この無防備な寝顔が愛おしくてたまらない。コードネームはもう一度彼の腕の中に収まり、そっと目を閉じた。

早く自分のものになってくれれば良いのに───。




2018.10.28

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