12


「いらっしゃいませ」
「こんにちは」

休日の昼下がり。なまえはあいも変わらずポアロに顔を出していた。一緒の部屋で朝を迎えたはずで、彼の出勤を送り出していたにもかかわらず“こんにちは”とは随分と妙な気持ちだ。

「空いてる?」
「今日ちょっと混んでて…あそこしかないんですが」

と、安室が掌で示したのはカウンター席だ。隣に小さな男の子が座っている。正直、カウンター席は苦手だった。本を読んだり、溜まった仕事を片付けるためにタブレットPCを広げている時もどことなく店員の視線を感じてしまって集中力が欠けてしまう。でも、それはつい数ヶ月前までの話。安室と親しくなってから、彼が勧めることもあってカウンターに座ることも多くなったし、そのおかげか女性の店員とも馴染みになった。それに、手際の良い彼の仕事ぶりをそこから眺めているのもまた楽しい。

「今日はどうします?」
「じゃあ、オムライスとカフェオレで」

腰掛けながら注文する。ここのメニューはほとんど覚えてしまったから、見る必要はなかった。カフェオレを頼んだのが珍しかったからか、一瞬手が止まったようだったがすぐに伝票に書き留められる。

隣の男の子は“梓さん”と呼ばれている女性の店員と親しく話していた。見る限り小学一年生か、二年生だろう。くりくりとぱっちりした目と大きめの眼鏡が愛らしいなと思っていると、その瞳がふと此方を捉えた。

「おにーさん、こんにちは」
「あ、あぁ。こんにちは」
「おにーさんもよくここに来るの?」

突然話しかけられ驚いたが、彼の笑みにこちらも自然と笑顔になる。“も”ということは、この子もおそらく常連なのだろうとすぐに察した。先程話していた様子も随分と親しげだったし、もしかしたら自分よりずっと前からここに通っているのかもしれない。

「そうだよ。君も?」
「うん。あ、僕ね、江戸川コナンっていうんだ。よろしくね、おにーさん」
「コナンくんね。俺はみょうじなまえだよ」

珍しい名前だな、と思いながら彼の名前を反芻する。“コナン”とはどんな漢字を書くのだろう。最近の子は珍しい読みの名前が多いから、覚えるのが大変だと教師をしている同級生が嘆いていたことを思い出した。

「やっぱりみょうじさん見かけたことあるなーって思ったんだ」
「え?」
「あっちの席に座ってたよね。男の人と」

コナンは後方のソファー席を指差した。それにつられるようになまえの視線が向く。そう、あの席は確か彼とよく座っていた場所で。一杯のコーヒーと紅茶、たまに軽食を頼んでは休日の他愛無いひと時を過ごした。何を話したかなんてすっかり忘れてしまったが、口数の多くない彼のことだから、きっと話題は自分の友人や仕事の話が主だったのだろう。時の流れなんてあっという間だ。大切だったはずの記憶も少しずつ薄れてゆく。彼と別れてから今日までの、何倍もの時間を一緒に過ごしたというのに。

「……そうだね」

既に懐かしくなった過去に想いを馳せながらコナンに答える。少し反応が遅れてしまったが、おかしくなかっただろうか。彼の純粋な瞳が眩しくって、ふと目を逸らせばその視界に見慣れたエプロンが割り込んできた。

「コナンくん、他のお客さんの邪魔しちゃ駄目だよ」

なまえのカウンターにお冷やを置きながら、安室はコナンに忠告する。彼はすこし不満げに「はーい」と答えたが、それがとても可愛らしくてなまえは笑みを零した。

「大丈夫だよ。コナンくんはこの近くに住んでるのかな?」
「僕ね、この上の探偵事務所に居候してるんだ」

話を聞けば、訳あって親と離れて暮らしているようで、毛利小五郎という有名な名探偵の家に居候しているという。そして、その娘の女子高生ととても親しいことなど教えてくれた。きっと複雑な家庭環境なのだろう。まだこんなに小さいのに抱えているものは大きい。ポアロの上の探偵事務所では安室が見習いをしているのもあって、だから彼とも親しげなのかと合点がいった。

「みょうじさんさぁ、最近安室さんと仲良いよね」
「え?」
「以前は全くって感じだったけど」

また自分に話題が振られるとは思っていなかったなまえは一瞬ギクッとした。二人の会話に聞き耳を立てていた安室も思わず神経を尖らせる。

確かに以前は店員と客という関係でしかなかった。少なくとも自分は安室の名前すら知らない間柄だったのだから。にしても、この子は相当観察眼が鋭いらしい。

「まぁ、俺もいろいろあって……住むところがなくなって、それを安室さんに助けてもらったって感じかな」

当たりでも外れでもなく、至って無難な回答。安室と視線を合わせて、お互いに少しだけ苦笑いを送る。それに対し「えっ!そうだったんですか!?」と一番驚いた反応を示したのは梓だった。

「えぇ、まぁ」
「私も安室さんと仲が良いんだなーって思ってましたけど、まさか一緒に住んでいたなんて」
「俺、安室さんがいなかったら今頃ホームレスだったかも」

そんななまえに「そんな訳ないでしょう」とおちゃらけて返すも、コナンからの眼差しがどうも不愉快だ。

「で、コナンくんはなんで今日は一人なの?」
「んー、小五郎のおじさんは競馬に行っちゃったし、蘭ねえちゃんは友達と出かけるっていうから」
「そこで僕がコナンくんの子守を買って出た訳ですよ」

「君が余計なことに首を突っ込まないようにね?」と笑いかける安室に今度はコナンが不快感を抱く。それは今現在──なまえのことも含まれているということだろう。

「ごめん。俺、ちょっとお手洗い」

なまえが席を立った瞬間にコナンは鋭い視線を安室に向ける。察しの良い彼が気付かないはずもなく、すぐに柔らかく微笑みかけた。

「なにかな?」
「安室さん、何を考えてるの」

ちょうど梓は他の客のオーダーでカウンターを離れている。そんな彼女に聞こえない程度の声で問い掛ける顔つきは既に小さな探偵だ。

「さぁ。何のことかよくわからないけど」
「みょうじさんのこと利用するつもり?」
「僕はそんなこと考えていないよ」

利用だなんて。彼に限っては一度もそのようなことは考えたことないというのに。前科があるから疑われるのだ。一度否定しても、彼の疑いの目はまだ自分に向けられている。安室は狼少年とはまさしくこのことだな、と溜息を吐いた。

「本当に?」

安室は思わず、フライパンを煽る手を止めてコナンを見る。そして、ゆっくりと息を吐き出した。

「本当だよ。彼には、公安として近づいているわけではないんだ…」

どちらにせよ、守りたい存在には変わりはない。しかし、それは公安としてでも、警察官としてでもなく一人の人間として。彼にはまだ“安室透”としての自分しか見せることはできないが、それは確実に“降谷零”という男としての気持ちだった。

「はい、オムライスとカフェオレ。お待たせしました」

なまえが戻ってきたところで、カウンター越しに提供する。カランと鳴る涼しげな氷の音に、ゆらりと揺れる湯気。まろやかな卵の匂いに食欲が唆られる。しかし、そのオムライスにコナンも梓も、もちろんなまえも驚きの声を発した。

「えっ……何でハートマーク?」
「それはもちろん、サービスですよ。…って、え!?」

そんな可愛らしい形のケチャップをなまえはすぐさまスプーンでぐるぐるとかき混ぜる。見るも無残な姿になったハートマークに安室は少なからず衝撃を受けたようだったが、戸惑いを隠しきれないなまえの少しだけ綻んだ口許と安室の想いに、コナンが気付かないはずもなかった。




2018.11.16

←back