前途多難な恋の欠片


秋口を過ぎ、ひんやりとした空気が繁華街に流れ込んでいる、その一角。少し古めいた木造の居酒屋には二人の男の姿があった。

「飲みすぎる前にそろそろ帰るか」
「はい」

日頃の労をねぎらうため、降谷と風見は久しぶりに酒を交わしていた。飲みすぎる前に、というのは前回のことを指しているのだろう。自分より年下の上司の前で溜め込んでいたストレスや弱音を吐き出し、普段以上に酒を浴びてしまったあの日のこと。本来なら反省すべきなのだろうが、そんな自分に降谷はただ一言、『楽しかったな』とだけ言うのだ。そんな彼の懐の深さと男らしさが、この若さにして自分の上司。そして警察庁の秘密機関“ゼロ”の絶対的エースたらしめるのだろうと風見は確信していた。

駅に向かうべく、歩を進める。何度も言うが降谷は年下だ。しかし、隣に立って歩くだけでも感じるこの緊張感に、風見は一方で優越感を感じていた。公安に私立探偵、そして黒ずくめの組織と三つの顔を持つこの男と仕事が出来る。そんな状況がある意味、自分のステータスとなっていた。

「あれ…兄さん?」

背後から掛けられた声に思わず足を止める。聞き覚えのある声に振り向けば、そこには十以上離れた自分の弟がいた。大きめのパーカーにリュック。周りには同じ大学の仲間と見られる若者が十名ほど。恐らくサークルの飲み会か何かだろう。そういえば、朝食を食べながら『今日はみんなでご飯食べて帰るから遅くなる』と言っていたのを思い出した。

「なまえ、偶然だな」
「兄さんこそ。今から帰るの?」
「あぁ、これからな」

仲間の輪から外れて小走りで近づく弟の笑顔が眩しい。なまえは風見にとって自慢の弟だった。小さい頃から快活で運動神経や頭も良く、友達も多い。それでも何かと『俺は兄さんのことを一番尊敬しているんだ』と言ってくれる弟が大好きだった。

「兄さん、そちらは?」

ふとなまえは隣の男に目を向けた。ずっと傍に立っているスーツの金髪の男。目が行かないわけがなかった。

「こちらは降谷さんだ。降谷さん、弟のなまえです」
「あぁ、何度か名前は聞いたことあったな」

上司たるもの部下の家族構成や状況は把握しておかねばならない。公安警察であれば尚更。その一つとしてもちろん弟のことも伝えてはあった。

「僕は君のお兄さんと同じ職場の降谷零だ。よろしくな」
「あ……よく兄さんが愚痴ってる降谷さんかぁ」
「おい、なまえ!」

急いで弟の口を塞ぐと掌になまえの抵抗する声が響いた。恐る恐る降谷に目を向ければ「愚痴…?」と、じとりとこちらを睨んでくる。先ほど頭が良いと弟のことを表現したが、時たまこのように天然が炸裂して困る。今だって何とはなしに悪気なく零した一言なのだから。

「まぁいい。良かったら君の弟も一緒にもう一軒行かないか?」
「いや、でもなまえはまだ十九なので…」
「なに、未成年に酒は飲ませないよ。ただの食事だ。それに僕が奢ろう。どうかな、なまえくん?」

到底自分には向けることのないきらきらの笑顔を浮かべて、なまえに同意を求める。そんな笑顔を向けられたら男女問わず断れるわけがない。単純で可愛い弟は迷うことなく首を縦に振り、「俺、先に帰るって先輩に言ってくる!」と言い駆け出してしまった。



二軒目に訪れたのは、一軒目よりもカジュアルで少し若者向けのお店。価格も先ほどに比べれば多少リーズナブルだ。奢るといった手前、なまえが恐縮しないように気を回したのだろう。「なんでも好きなものを頼むと良い」と言いながらも、思い悩むなまえに降谷はこれがいいか、あれがいいかと世話を焼く。私立探偵・安室透として、あの小学生の男の子たちに優しく親切な姿を出しているのは知っているが、このような年頃の男にもこのような姿を見せるのかと、風見にとってはそんな彼の姿が少し新鮮だった。

「じゃあ、俺これにします」
「どれ?」
「ノンアルコールのいちごミルク。あとねぇ、ポテトフライと、あとー…」

ぱらぱらとメニューをめくるなまえの手に添えられた降谷の掌。そして、覗き込む距離の近さ。ちょっと待て。何かおかしくないか?仮に降谷が世話好きだとしても、この距離感は異常だ。そもそも何故手を添える必要があるんだ。

「僕はハイボールを。ほら、風見。何頼むんだ?」
「え、あぁ、ウーロンハイを一つ」
「かしこまりました〜」

向かいに座る自分に向けられた降谷の目は相変わらずで、なまえに向けられていたそれとは程遠い。思い返せば、初めて彼になまえのことを話した時、しきりに写真を要求された。家族とはいえ大人になってから写真を撮ることなど数えるほどしかない。それも仕事が公安であれば尚のこと。まして家族の写真を持ち歩くことなど言語道断。家に帰って数少ない家族写真を探し、翌日降谷に見せたら一言、『随分可愛らしい弟だな』と言われたことを思い出した。もしやこの男、自分の大切な弟をそういう眼で見ているのではないか。いや、まさか。だがしかし、そう思えばこの距離感も納得がいく。

「なまえくんはあまりお兄さんとは似ていないんだな」
「俺は母親似なので。兄さんは父親似だから」
「そうか。確かに以前写真を見せてもらったが、君のお母さんはとても綺麗な方だったな」
「兄さんは顔もだけど性格も父に似ていて、すっごく厳しいんです。高校生の時なんか門限が19時で…」
「19時?高校生でか?それは厳しすぎるだろ…」

運ばれてきたいちごミルクをピンクのストローで啜るなまえはどう見たって愛らしい。仏頂面で強面な自分と違い、なまえはいわば女顔だ。そして愛想も良い。自分と並んでいた所為もあるだろうが、小さい頃から何度女の子に間違えられたか数知れない。保育園、小学校と度々連れ去られかけては警察のお世話になった。中学生になり、男子の制服を着ればそのようなことも減るかと思われたが、今度は女性の不審者に付け回された。そんななまえの様子を見ていたのも、警察官を目指した理由の一つだった。

「友達とだって全然遊びにいけないし、恋愛だって…」
「風見、それは本当なのか?」

厳しくしすぎた自覚はある。しかし、それでもいつも自分を慕い、嫌うことなく尊敬の対象としてくれている弟が可愛くて大切で、ここまで過保護に来てしまった。だが、こうして家族以外の他人に暴露されるというのはどうも居た堪れない。ましてや、その相手が直属の上司で、降谷だなんて。そんな彼の刺すような鋭い視線にどうも先ほどから頭が痛む。気付けばキリキリと胃も悲鳴を上げていた。今夜も飲みすぎてしまっただろうか。

「すみません、少しお手洗いに」
「あぁ」

席を立てば少しだけ体がふらついた。「兄さん大丈夫?」と心配するなまえを制止する。アルコールの所為じゃない。これは頭が痛いせいなのだと思い込むことにした。


▽▽▽


初めて会った風見の弟は写真で見ていた通り可愛らしくて、女の子に間違えられたことがあるというエピソードを納得させるものだった。部下の弟というところが引っ掛かるが、正直言ってとても好みの容姿だ。それに加えてこの中身の愛らしさ。警戒心を見せない人懐こさ。守ってあげたいという庇護欲を駆り立てるには十分だ。先程まで制限が厳しすぎると、なまえと二人で風見を責め立てていた降谷だったがその気持ちがよく分かる。

「なまえくん、はい」
「ん?あーん」

風見が中々戻ってこないことを良いことに、ここぞとばかりに距離を詰める。ポテトフライを手に取って彼の口元に近づければ迷うことなく口を開く。まるで小動物に餌付けしているかのようで、自然と笑みが零れた。

「ねぇ、降谷さん…」
「ん、どうした?」
「突然変なこと聞いても良い?」
「あぁ。構わないよ」
「あの、さ……降谷さんって彼女いるの?」

唐突に投げかけられた質問に拍子抜けする。以前にも同じ質問をしてきたとある小学生のことを思い出したが、あの時は咄嗟に誤魔化してしまった。彼のことを本気で手に入れたいと思うのなら、彼を相手にそれをする必要は無いだろう。

「彼女はいないよ」
「え、そうなの?意外だね」
「いると思った?」

質問を投げ返せば、彼は視線を逸らして気まずそうにストローを啜る。中身はいちごミルクではなく、マンゴーヨーグルトに変わっていた。

「だって…」
「ん?」
「降谷さんかっこいいから……絶対いると思った」

小さく俯き加減に呟いた言葉は、狭い個室によく響いた。流れ落ちた髪の毛の隙間から真っ赤に染まった頬が見えて今すぐにでも掻き抱いてキスしてやりたいと思ったが、こんないたいけな純朴な子にそんなことが出来るはずもなく、その欲望をぐっと押し込める。代わりに汗をかいたグラスをひたすらに握るその掌に触れて、優しく指を絡めた。


▽▽▽


気付けば時刻は零時を回っていた。終電も近い。明日も仕事だというのに、結局こんな時間になってしまった。頭を抱えて座り込んだが運の尽き。うっかり寝てしまって思いのほか時間が経っていたが、二人きりで残してしまった降谷となまえは大丈夫だろうか。

「って、なんでこんなことになってるんですか!」

思わず声を荒げた自分に人差し指を口元に当て、しーっと合図を送る降谷。弟の向かいに座っていた彼は知らぬ間に隣に移動し、その肩に凭れ掛かりながらなまえが寝こけていた。

「眠いというから寝かせてやってたんだ」
「んぅ……あ、おかえり兄さん」

まるで赤子のように目をこすりながら視線を向ける弟になんとも複雑な感情を抱く。昔から何度も危険な目に遭ってきたというのに、何故ここまで警戒心が薄いのか。

「なまえ…どうしてお前はそうやって男とも平気で密着できるんだ…」

自分なら絶対に無理だ。いくら顔が良くて清潔感のある降谷だとしても、男という時点で無理だ。手を繋ぐのすら躊躇われるというのに。

「え、だって俺、男の人も恋愛対象だよ?」
「は?」
「あれ?パパとママには話したんだけどな…」

不思議で仕方が無いとばかりに首をかしげるなまえの言葉に、まるで鈍器で頭を叩かれたかのような衝撃を受ける。治まっていたはずの頭痛が次第に戻ってきた。

「ま、待て。兄さんはそんなカミングアウトは聞いていないぞ」
「風見が厳しすぎるからご両親も黙ってたんじゃないのか?」
「えぇー!?そうなのかなぁ…」

おかしいな、と降谷を見上げるその視線は恋愛のそれに近い。今まで厳しくも愛情をかけて大切になまえの純潔を守り通してきたというのに、自分が席を外していたほんの数十分の間に全て水の泡になってしまったというのか。

「さぁ、遅くなったしそろそろ帰ろうか」

お手洗いに席を外した隙にスマートにお会計を済ませた降谷に促され、結局店を出たのは深夜零時半過ぎ。辺りは人通りも少なくなっている。「ごちそうさま」と降谷に腕を絡ませながらお礼を言うなまえの眠気はどこへやら。風見と降谷の前を歩き、すっかり上機嫌で地下鉄の入口を探していた。

「降谷さん」
「なんだ?」
「その…あまりなまえに近づかないでいただけますか」
「何故だ?向こうから来たらどうする。また止めるのか?」
「それは…」

痛いところを突かれて何も言い返せない。なまえだってもう大学生だ。恋愛の一つや二つしても、彼女が出来てもおかしくない年頃だ。それが自身の上司、しかも男が候補にあるということがどうしても消化し切れなかった。

「風見。残念だが、もう手遅れかもしれないな」

と、手に持って見せたのはスマホのトーク画面。その一番上に存在する弟の名前に目を疑った。

「ふ、降谷さん!いつの間に!?」

彼の勝ち誇ったような笑みに一気に酔いが醒める。まさかもうそんな連絡手段を手に入れているなんて。それもあれは降谷零名義の個人スマホだ。

入り口を見つけたとはしゃぐなまえに、転ばないように手を添える降谷。「キス以上はダメですからね、絶対!」と思わず叫んだ自分の言葉が、澄み渡る秋の夜空に虚しくも木霊していた。




2018.11.23

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