純情を飲み干して


桜の蕾が咲き開く頃、二人の関係はみょうじの意気地によって未だに平行線のままだ。
たくさんの教員、後輩に見送られて高校三年生の彼らは新しい世界へ旅立ってゆく。それはまた、あの彼も同じだった。

「みょうじ先生ー!写真撮りましょう!」
「先生、私のにも寄せ書き書いてよ!」

スマホや卒業アルバムを手にした女子生徒たちに囲まれ、お決まりの笑顔を貼り付けてはもう何度目かもわからない写真に収まった。そんな様子を傍から見ていた男子生徒たちは「先生モテモテー!」「羨ましー!」と大はしゃぎだ。若々しい反応は非常に微笑ましいものではあるが、こんな様子を降谷に見られたらどうなることか。ここから彼の教室までは離れているとはいえ同じフロアだ。考えただけでも自然と背中に汗が伝う。今日は桜の咲き始めた三月の気候にしては冷え込んでいるというのに。

「お前らな、式が終わったからって騒ぎすぎだぞ。もう少し静かに…」

卒業証書の入った筒を片手に廊下で騒ぎ立てる生徒たちに注意したその矢先、見つけてしまった。廊下の奥からゆっくりこちらに向かってくる彼の姿を。周りの能天気さに比べて、彼を纏う雰囲気は仄暗い。嗚呼、気のせいか頭が痛くなって来た。

「みょうじ先生」
「降谷、卒業おめでとう」
「えぇ、ありがとうございます」

社交辞令を社交辞令で返す。まるで何でもないかのように装ったみょうじを見る目は冷たい。みょうじだって何も考えていなかったわけではない。卒業というこの日が降谷から逃げられるタイムリミットだということは重々分かっていた。

「降谷、ちょっといい?」
「え?」
「いいから」

目の前で笑顔で手招いているみょうじは、降谷にとっては想定外だったのだろう。相手が最後まで逃げ続けるのなら、自分から捕まえてやろうと思っていたのに、まさか向こうから誘ってくるなど初めてだった。彼の眉間の皺と眼光が緩み、年相応の表情が垣間見えたことにみょうじはどことなく嬉しさを感じていた。

「ごめん、こんなとこしかなくて」

連れて来たのは社会科準備室だ。この時間に人がいないのなんてここくらいしか思いつかなかった。教室はもちろん、屋上もグラウンドも校舎裏も。どこも人が溢れている。ムードもへったくれもないが仕方ない。

「これ」

スーツのポケットから取り出し、差し出したのは丁寧に折り畳まれたメモ用紙。その場で開こうとした降谷の手を素早く掴んで、「あとで読んで」と一言だけ。冷え切った手を放して、足早に喧騒の中へ踵を返そうとする。

「ちょっと待ってください」
「えっ」

何かに弾かれるように降谷はみょうじの腕を掴んで後ろから抱き込んだ。自分自身が必死すぎるのはわかっている。普段は大人びているだの、精神年齢が高いだのと周りから言われている降谷だが、彼を前にしてはいつも子どもだ。彼の余裕に必死に追いつこうと足掻いている。

「またあとでね」

腕の中で振り返って降谷を見上げ、みょうじは優しい視線を向ける。胸の前に回されたその腕をあやすようにぽんぽんと叩いて、するりと抜け出した。

「あとで、って…」

はっとなり、思わず握りしめていたメモ用紙を開く。綺麗に畳まれていたそれは既にしわくちゃになってしまったけれど、そこに書いてある文字ははっきりと読み取れる。

『20時に家で待ってる。着替えてから来ること』


▽▽▽


19時50分。約束の時間まであと十分しかない。 名残惜しさに下校を渋る生徒たちを送り出すのに時間がかかってしまい、帰宅が遅れた。あのようなメモを渡してしまった手前、掃除の行き届いていない部屋で出迎えるのも忍びなく片付けを始めたわけだが、なんせ時間が足りなかった。とりあえず最低限は終わったから良いだろうと、掃除用具を片付けソファーに腰掛ける。

「ふぅ…」

気持ちを落ち着けるために紅茶を入れてみたが、味がよくわからない。ミルクを足してみるも、その色が彼の髪色を思い起こさせる。失敗した。

部屋の電波時計が時刻を告げる。大学の卒業記念でもらったものだ。温度、湿度まで表示してくれ、時刻も秒数まできっちりカウントされる。そこに示された数字が大きくなるにつれ、自身に残された時間は削られていく。約束の時刻まであと…

(さん……に……いち……ゼロ…!)

ちょうどのタイミングでチャイムが響く。覗き穴から外を見れば、ちゃんと私服に着替えた彼の姿。緊張で心臓が大きく揺らいだ。

「こんばんは」
「いらっしゃい。どうぞ」

ドアを開けて出迎えた彼の格好は至ってシンプルだった。濃い目のジーンズに白のシャツ、そして厚手のロングカーディガン。これなら誰がどう見ても高校生には見えないだろう。

「ごめんね、遅くに呼びつけちゃって。道迷わなかった?」
「迷うわけないですよ。ちゃんと覚えてました」
「それなら良かった。あ、適当に座って」

住所も書かずに家に来いだなんて、あまりにも不親切かと思ったが彼ならきっと覚えているという確信があった。そこに少し賭けをしてしまったのは、彼を試した大人の意地汚さ。

彼のために飲み物を入れる。ミルクティーというイメージではなかったから、インスタントのコーヒーでカフェオレを作る。ソファーに腰かける降谷の端正な横顔を眺めながら、彼が警察学校ではなく大学に進学していたとしたら、アルバイトは喫茶店の店員なんて良く似合うのではないかと想像した。きっと彼なら、誰もが唸るようなコーヒーを入れてくれるのではないかと、勝手に想像して頬が緩む。

「お口に合うかわからないけど」
「すみません。いただきます」

彼が初めてここを訪れたのはもう半年近く前だっただろうか。落とした財布を届けてくれたあの日のことだ。あの時の彼と比べたら今の降谷はあまりにも自信がなさげで、こちらも拍子抜けしてしまう。部屋に入った瞬間に抱きついてくるなり、キスを迫ってくるなり、何かしらのアクションを起こしてくるだろうと踏んでいたのだが。覚悟を決めていた時に限って空振りだ。

しかし、“ 時期が来たら必ず返事するから”という言葉でここまで引き延ばしてしまったのは、流石に卑怯だったかもしれない。頭の良い彼のことだから、その時期というのが何時のことを指すのか、おそらく分かっていたはずだ。まるでこれから死刑宣告を受けるかのような表情に、自分が仕向けたことと分かりつつも迂闊にも同情してしまった。

「そんな顔しないで」
「でも…先生が好きなんだから仕方ないじゃないですか」
「ふふ、泣きそう」
「……そんなに見ないでください」

今にも泣きだしそうな子どものような降谷の頬に両手で触れて、視線を絡ませた。ずっと平行線だったにもかかわらず、彼は以前と変わらぬ熱量を持ってみょうじに好意を寄せてくれている。それがあまりにも嬉しくて、幸せだった。

「降谷」
「…はい」
「俺も好きだよ」
「っ……先生」
「俺と付き合ってください」

頬から手を離し、降谷の胸元に添える。そっと瞳を閉じれば、すかさず噛みつくように唇が奪われた。

「……っ」
「先生……好き、愛してる」

感情の全てを押し付けるような激しいキスを与えられて、熱で浮かされそうになる。つんつんと舌先で催促されて、恐る恐る薄く唇を開けばそこからぬるりと降谷のそれに侵入されて、ぐちゅりと厭らしい水音が響いた。思わず引いてしまった身体を都合よく押し倒されて、のしかかられてはますます逃げ場がなくなった。あまりの息苦しさに彼の胸をドンドンと叩けば、唇は離されたものの二人の間に透明の糸が伝っていて、それがぷつりと切れるのすらどこか卑猥に感じられた。

「なまえさん…」

初めての呼び方に降谷の顔は紅潮している。かくいうみょうじも“先生”ではないその言葉に、二人の間の壁が漸く取り払われたのを感じ、心臓の拍動が速まった。

「好き……ずっと好きだった」
「うん、俺も。待たせたね」

その言葉に降谷は穏やかな微笑みを返すだけ。やっと一つになった二人の心。お互いがお互いを堪らなく愛しく感じた。大切な宝物を離したくないと縋るような降谷の背中に、みょうじはゆっくり腕を回し強く抱きしめた。

「今日、泊めてくれます?」
「そんな顔されたら断れないよ」

顔を寄せて微笑み合う。彼の甘い表情に、熱が集中するのがよく分かった。お互いを想い合う純粋な瞳を見つめて、何度も唇を重ねた。それはまるで半年分の空白を埋めるように。




2018.12.11

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