前途多難な恋の結晶
年に一度の主役の日。今日だけはどんな我侭も許される、はずだった。
「何で!?どうして駄目なの!」
「駄目と言ったら駄目だ」
「なんでよ!兄さんの馬鹿!」
なまえが怒るのは風見の上司・降谷零に関すること、ただ一つだ。あの日、降谷の提案で弟を連れ、三人で食事に行ったのが全ての始まり。自分が席を外している隙に二人の距離は急速に縮まり、個人的な連絡手段を手に入れた二人が密に連絡を取り合っているのは以前から分かっていた。あの夜だって地下鉄の乗換えで別れた瞬間に『今日はありがとうございました』『ごちそうさまでした』『おやすみなさい』とメッセージを送っていて、降谷はもちろん、なまえにとっても彼が恋愛の対象内に入ってしまったことを知り、会わせてしまったことを酷く後悔していた。
降谷の気まぐれで終われば、と願っていたのも束の間。二人はたびたび映画に行ったり、食事に行ったりと仲良く出掛けているようだった。二人の接触には自分が反対していたため、どちらからも報告は無かったが、なまえの様子を見ていればそんなことは一目瞭然だ。最近、新しい服をたくさん購入していたのも、美容院に行ったのも全ては降谷と会う為だろう。スマホを見てはほっとしたり、そわそわしたりするのも彼が原因。そんな風に恋愛に振り回されている姿が可愛くないわけではない。むしろ可愛いのだが、何と言っても相手が悪い。それが自分の上司で近しい人物だなんて認めたくなかった。小さい時から今までずっと『兄さん兄さん』と自分を一番に慕ってくれた弟が、あの男に夢中になっていることが正直寂しくもあった。
それでも会うのは昼間が中心で、遅くても21時までには帰宅していたのだから口うるさく言うのはなるべく控えてはいたのだが…
「今日は誕生日なのに…なんで駄目なの…」
「降谷さんの家に行くなんて、許せるわけが無いだろう。そんなこと兄さんは聞いてない」
「だって言ったら絶対駄目って言うじゃん…!」
上着の裾をぎゅうっと握って唇を噛み締めるなまえと対峙する。どうやったら自分を言い負かせられるか必死に考えているのだろうが、そんな上目遣いをされて落ちない男はいないだろう。自分以外には。ましてや、白いふわふわした素材のニット。それも首元が大きく開いているものなんて、如何にも襲ってくれと言っている様なものだ。降谷を信頼していないわけではないが、彼もれっきとした男だ。こんな格好の弟を前にして、魔が刺さないとも限らない。
「俺だってもう二十歳だよ。それくらい許してくれたっていいでしょ…」
「それは関係ない。兄さんはなまえが心配なんだ」
「……降谷さんに会いたい」
なまえの瞳から大粒の涙が零れた。声を震わせながら、少し長めの袖で頬を拭う姿に心が痛まないわけではなかったが、これで良いのだと自分の正義感を優先した。これで弟を守ることができるのだから。
「誕生日は俺が祝ってやるから」
「そんなんじゃ意味ない!」
立ち塞がっていた風見の体を押しのけて、椅子に掛けていたジャケットを引っ掴んで玄関に向かう。靴を履こうともたついていたなまえの手首を掴んで部屋に引き戻そうとすれば、それを思いっきり振り解かれ、終いには「兄さんなんて、大っ嫌い!」と捨て台詞を吐いて飛び出して行った。
すぐに追いかければ、いくらでも追いつけたはずだ。こちらは体力には自信があるのだから。しかし、風見はその場から一歩も動けなかった。なまえの“嫌い”という言葉は胸に突き刺さり、風見の足を止めるには十分だった。
▽▽▽
勢いよく飛び出してきたものの、降谷と約束した待ち合わせにはまだ一時間もある。あんなことを言って出てきてしまった手前、のこのこと家に帰るわけにもいかない。一体どんな顔をして兄と会えば良いか分からなかった。
こんなに早く来てしまったら彼を困らせるだろうか。送られてきていた住所をアプリで検索し、地図を頼りに足を進めた。
“MAISON MOKUBA”
着いたそこは優しい色合いのよくあるアパート。意外だった。降谷みたいにかっこよくて、スマートな人はもっと高そうなマンションに住んでると思っていたのに。案外庶民的なんだな、と思い親近感が湧く。
チャイムを押して数秒待つ。怒られるかもしれないと言う不安を押し殺しながら、優しく出迎えてくれる彼を想像して目を瞑った。
『はい』
「あ、あの…なまえです!」
『え、なまえくん?』
インターホンの先で聞こえる降谷の焦った声。やっぱりまずかっただろうか。先に電話を入れるべきだったが、兄と喧嘩して気持ちが落ちきっていたため躊躇ってしまった。
「どうしたんだ、随分と早いな」
「ご、ごめんなさい……突然押し掛けて…」
「いや、大丈夫だよ。まだ準備が終わってないけど、あがって」
そう言った彼はなまえが望んでいた笑顔そのもの。怒られなかったことにまず安堵して、靴を揃えて部屋に上がる。
憧れだった降谷の部屋。玄関に飾られた小さな観葉植物。リビングの淡い木目のテーブル。奥には畳の部屋が覗いていて、キッチンを見れば彼の言った通り、準備の終わっていない盛りつけ途中のサラダが置いてあった。物珍しそうにキョロキョロとあちらこちらを見渡すなまえに、降谷も思わず笑い声を漏らした。
「そんなに見たって面白いものはないさ」
「でも、降谷さんのおうち来るの……楽しみにしてたから」
二十歳になった記念に、自宅でお祝いしてくれるという約束をしてから今日までずっと楽しみにしていた。大学の試験はもちろん、アルバイトも全てその約束があったからこそ頑張れた。それに料理が得意な降谷がたくさんご馳走を作ってくれるというのはもちろん、憧れの彼のプライベートな空間を覗くことができるのが何よりも楽しみだった。どんな間取りで、どんな色で、どんな匂いがするのだろうと何度も想像を働かせた。
成人したらあの堅物な兄も多少は許してくれるだろうと思っていたのに。あんなに頭ごなしに怒らなくても…
「風見と何かあったのか?」
「え?」
「少し目が赤くなってる」
降谷の温かな掌が頬に触れて、瞳の輪郭を優しく親指がなぞる。きっとごしごし擦った所為だろう。ぐっと顔を覗き込まれて一気に頬に赤みが差した。
「そこに座って待ってて」と勧められたソファーに腰を下ろす。何か飲み物を作ってくれているのだろう。正面にはキッチンに向かう彼の姿。ダークグレーのエプロンに白いシャツ。タイトすぎないジーンズが彼のスタイルによく似合っている。
ことりと置かれたマグカップには温かそうなココア。ゆらりと控えめな湯気が立ち上がっていて、甘い匂いがなまえを誘った。
「で、何があった?」
「………」
「話してごらん」
「兄さんが……降谷さんちに行っちゃ駄目って言うから喧嘩して…」
「うん、それで?」
「飛び出してきちゃった…」
反省はしているのだろう。しゅんとまるで仔犬のようにしょげたなまえの頭に降谷の手が伸びる。艶やな髪の毛がするりと潜り抜けた。
「心配してるんじゃないのか?」
「そうかもしれないけど、でも…」
「さっきから携帯が鳴りっぱなしだぞ」
彼が指差した先にはなまえのカバン。よく耳を澄ませれば、重低音が鳴り響いていた。
「に、二十五件…」
それは兄からの着信の数だった。お陰で充電は既に三十パーセント台だ。留守番電話の履歴も無数に入っている。試しに留守番電話センターに繋ぎ、内容を確認してみればその途中にも着信が入る。
「ど、どうしよう…」
「出てやらないのか?」
「だって俺……初めて兄さんに嫌いって言っちゃったから…」
その言葉に降谷は盛大に笑い出す。隣でぽかんとするなまえを余所に、笑いすぎて目尻から微量の涙が溢れる。
こんなに独占欲が強くて、あれほど生活を制限されていたと言うのに、嫌いだと言ったのが初めてだなんてなまえも相当風見に甘い。普通だったらとっくの昔に嫌いになっていてもおかしくないはずだ。
「降谷さん…?」
「あぁ、すまない。次に着信が来たら出るんだ。ちゃんと仲直りすること。お祝いはそれからだな」
それでも尚、「でも…」と言い淀むなまえに降谷は自分が付いているからと甘い声で囁く。耳がこそばゆくて、身をよじらせた瞬間、手の中のスマホが震えた。彼に「ほら」と言われて躊躇いながらも通話ボタンを押す。
「もしもし…」
「なまえか?無事なのか?今どこにいるんだ!?」
「あ、えっと……今、降谷さんのとこ…」
「……そうか」
矢継ぎ早に質問を飛ばしていた一方で、降谷の名前を出した途端に声のトーンが下がる。このままではまた喧嘩に発展してしまう。ニットの裾を握りながら、通話先には聞こえないように溜息を吐いた彼の耳元からそっとスマホを奪った。
「風見か?」
『ふ、降谷さん!?』
「風見、今日限りは僕に免じて許してやってくれないか。弟が可愛いのは分かるが、せっかくの誕生日なんだ」
『し、しかし…』
「君だってなまえを泣かせたいわけじゃないだろう?」
なまえに目を向けながら、指の背で彼のきめ細やかな頬を撫でる。まるでパウダーをふっているのではないかと思わせるその触り心地につられ、思わず親指で唇の感触を楽しむ。火が付いたかのように赤くなるその表情に、風見には聞こえぬようくすりと微笑んだ。電話の向こうで思い悩んでいるであろう彼に、もう一度「風見」と呼びかければ渋々と言った様子で言葉が届いた。
『今日だけですよ……いつもの時間には帰してくださいね』
「分かった。じゃあ、なまえに代わるよ」
許可は得た、と簡単に説明してスマホを渡せば、曇らせていた表情を一変させ、嬉々としてそれを受け取った。
「兄さん、さっきは嫌いなんて言ってごめん」
『俺も厳しくしすぎたな…すまない』
「あと、許してくれてありがとう」
『ご馳走になったらちゃんとお礼を言うんだぞ』
「うん、わかってる」
通話終了のボタンを押して降谷に向き直れば、彼も満足げな笑みを浮かべている。にこにこといじらしいなまえの頭を撫でれば、その掌に擦り寄りながら「ありがとう、降谷さん」と呟くなまえに愛おしさが募った。
「ケーキを焼いたんだが、これは帰ってからお兄さんと食べたらいい」
「えっ…でも、降谷さんとは?」
「他に山ほどご馳走があるから大丈夫だよ」
テーブルの方を目配せすれば、確かに色とりどりの料理の数々。以前になまえが好きだと話していたハンバーグやクラムチャウダーも用意されていた。二人では食べきれないほどの料理に、きっと朝から作ってくれていたのだと分かる。
「ねぇ、降谷さん。さっき“なまえ”って呼び捨てで呼んでくれたよね?あれって…」
「あぁ、今日は二十歳の誕生日だからな。ちゃんと言わなきゃと思って…」
真剣な眼差しでなまえに向き合う。その瞳に自然と背筋を正した。
「初めて見た時からずっと好きだったんだ。僕と付き合ってほしい」
降谷の碧い瞳が、なまえの琥珀色のそれを捉える。彼の言葉を聞いた瞬間に疼いた心。今まで隠しきれずに溢れかけていた気持ちが爆発しそうだった。
「俺も、零さんが好き!」
押し倒さんばかりの勢いで抱きつくなまえを自慢の体で受け止めて。額、鼻先、そして唇に。わざとリップ音を立てながら触れるだけのキスを落とした。
「これから宜しくな、なまえ」
物欲しそうな目を向けたなまえの頬に両手を添えて、もう一度「好きだよ」と言い聞かせるように愛の言葉を囁いた。
2018.12.18
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