前途多難な愛の芽生え


出汁香る味噌汁。湯気の立つ白米。芳ばしい焼き魚に彩りを添えるサラダ。風見家の一日は和食から始まる。

「兄さん、おはよう」
「あぁ、おはよう…」

まだ眠気の残る目をこすり、眼鏡をかければ心配そうに覗き込む可愛い弟の姿。ぱっちりとした二重の瞳が心配そうに揺れている。

「昨日も遅かったの?先に寝ちゃってごめんね」
「大丈夫だ。なまえが気にすることじゃない」

隈がすごいよ、と眉間に皺を寄せて見上げる弟の頭を二度撫でて、食卓につく。忙しい兄のために、早起きが苦手な彼が栄養満点の朝食を作るようになったのはここ数年のことだ。飽きないようにと毎日いろんな食材を買っては美味しく調理してくれる弟に感謝の気持ちと、こんな人が嫁に来てくれたら幸せなのだろうと何度も想像を膨らませた。

「なまえ、今日はどんな予定なんだ?」
「今日は午前中大学行って、午後は……零さんと会うよ…」

白米を口に運びながら、ちらっと風見に目をやるなまえは完全に彼の話題を口に出すことに怯えきっていた。それもそのはず。降谷との交際には今や諦め半分ではあるのだが当初から猛反対をしていたし、何度も兄弟喧嘩をしたことがある。一種のトラウマとなっていてもおかしくないのだ。

「兄さん…ど、どうしたの?口に合わない?」

なまえが昨晩作ったひじきの煮付けを口にしたまま、箸を止めた風見に違和感を感じて問いかけた。このひじきの煮付けは風見が気に入っているから何度も作っているのだが、昨日に限って失敗したか。それとも、別の何か…。

「いや、美味しいよ」
「そう?それならよかったけど」
「ところで、なまえ。その、一度聞いておきたいことがあるのだが…」
「うん、なに?」

食卓から視線を外し、なまえを見据えた風見は真剣そのもの。何事かと思わず箸を置き、姿勢を正してしまった。

「降谷さんとは……どこまでしたんだ?」
「えっ…」

到底、兄の口から出たとは思えない単刀直入な質問。朝からそんな話題を振られるとも思わず、一気に顔に熱が集まった。絶対に赤くなっているであろう見なくても分かるその顔をどうしても隠したくて、あからさまに俯いた。

「まさか…」
「ち、違う。違うよ……まだ、き、キスまでしか…して、ない…」
「……そうか」

恥ずかしさを押し込めようと必死ななまえに対し、その彼の言葉に風見は安堵感でいっぱいだった。降谷のことだから彼の同意なく事には及ばないだろうと思ってはいたが、なんせなまえが降谷に惚れきっている。二十歳の誕生日を迎えてから何度も降谷の家に行っているのを知っていたし、既にそこまで関係が進んでいてもおかしくはないと思っていたのだが。風見の想像以上に降谷はなまえのことを大切にしてくれているようだ。

「ほら、早く食べないと遅刻するぞ」

逆に箸を止めてしまったなまえを促し、白米と味噌汁をかき込んだ。


▽▽▽


まさかあの堅物の兄からあんな言葉が出てくるとは思わなかった。誕生日の一件があってから、前ほど口うるさくなることは少なくなったものの未だに自分と降谷の関係を気にしているのは分かっていた。しかし、気にしているだけで直接問われたことはないのだ。それもあのような聞き方をしてくるとは全く想像もしていなかった。

「おい、なまえ…ノート真っ白じゃねーか」
「あ、ほんとだ……なんかぼーっとしちゃって」
「大丈夫かよ、疲れてんのか?写させてやるからいつでも言えよ」
「うん、ありがとう」

午前中は大学の講義だったのに、どうしても兄との会話が頭を占領してしまって何も入ってこなかった。午後の講義がたまたま休講になったこともあり、午前中の二限だけ通うのが煩わしいとほとんどの友人がさぼる中、出席したのは自分と今しがた隣に座っていたこの男だけだというのに。座っているだけなら誰でも出来る。せっかく時間をかけて通ったというのに、ただぼーっとしているだけなど、さぼった友人たちとなんら変わりなかった。

降谷との待ち合わせまで少し時間が空いていたから、駅前のカフェでバゲットとカフェオレを注文して提出の迫っているレポートの仕上げに掛かった。それでもやはり頭を占拠するのは兄に問われた質問と降谷のことばかり。なまえだって降谷のことを好きでいる以上、いつかはそのような関係になりたいとは思っていた。それはいつかの話だ。兄によって厳しく育てられたなまえには降谷以前に付き合った人がいたこともなければ、もちろんそのような経験もない。女の子とすらしたことはないのだ。ましてや男とだなんて。

世間一般の恋人たちは、付き合ってからどのくらいでそういう関係になるのだろう。友人に聞きたくても、この歳まで一度も経験がないというのが恥ずかしくて誰にも聞けずにいた。自分たちの関係はきっと経験豊富であろう降谷が上手いことリードしてくれるのだろうと思っていたのだが、もしかしたら遠慮しているのかもしれない。自分から誘わなければいけなかったのかな、と思えば思うほど頭の中がぐるぐるして気付けばレポートは何一つ進まないまま、頼んだ食事と飲み物だけが減っていった。

「あ……零さんだ」

ふいに点灯したスマホの画面に目をやれば、今の今まで頭の中を支配していた彼からの通知。

『仕事が長引いてしまって30分ほど遅れる。すまない』

きっと急いで打ったのだろうと思わせる簡潔なメッセージ。それでも待ち合わせ時間に余裕をもって連絡をくれる彼の生真面目さが画面から伝わってきて、少しだけ口許が綻ぶ。こちらも簡単に『大丈夫です。待ってますね』とだけ送り返せば、すぐに既読が付いた。

結局、トレーの上が空っぽになり手持無沙汰になったなまえはカフェの近くにあった本屋に立ち寄った。確かサークルの女子が読者モデルをやっているという雑誌が出ていたはず。サークル内で盛り上がっていたから、せっかくなら一度は見てみようと思ってその冊子を手に取る。『デートはこれで決まり!絶対にモテるふわもこコーデ』というタイトルで紙面に載る彼女は確かに可愛くて男性受けしそうなタイプだ。ふんわりとした巻き髪に手触りのよさそうなトップス。ボトムは厭らしさを感じさせない程度の膝上丈のスカート。やっぱり男性にはこういう女性がモテるのだろう。今度会った時に雑誌見たよって報告してあげよう、とラックに冊子を戻した時、ふと目に入った隣の情報誌。そのタイトルに思わず息を呑んだ。

【感じるSEX】

その表紙では裸の男女が官能的に抱き合っていて、思わず顔を背けて逃げ出すように書店を飛び出した。

「はぁっ……なにあれ…」

こんな気持ちの時にあんなものを見てしまうなんて。まるで自分の心を見透かされているようで恥ずかしい。ポケットの中のスマホが振動して見てみれば、『着いたよ』と降谷からのメッセージ。顔を上げて見渡してみれば歩道脇に停まる白いRX-7。運転席から降りて、手を挙げた降谷に思わず駆け寄った。

「零さん!」
「お待たせ。今日はどうする?買い物でも行くか?」
「あ……ううん、今日は零さんちに行きたい」

その答えが想定外だったのか、降谷は少しだけ目を丸くしてなまえを見る。今まで降谷の家に行くことは何度かあれど、それはいつも買い物やカフェでのんびりしてからのこと。会ってすぐに直行したいと言うのは初めてだった。

「分かった。じゃあ、行こうか」

助手席に乗り込むのももう慣れた。少し狭い車内も、車高の低い風景も。なのに、普段と違く感じるのはきっといつもより隣の存在を意識してしまっているからだ。


▽▽▽


「今飲み物入れるよ。何がいい?」
「えっと…紅茶が良いかな」
「分かった。適当に寛いでて」

上棚からいくつか茶葉を取り出して、そのうちの一つをポットに入れて湯を注ぐ。二つのティーカップを並べたトレーと一緒に、なまえのために買い置きしておいた老舗のクッキーを添えて。

「今日は何か落ち着かないな」
「えっ」
「僕と会ってからずっとそわそわしてる」
「……そんなことないよ」

そわそわしているだなんて、言われるまで全く気が付かなかった。降谷の前ではいつも通りの自分でいられたと思っていたのに、自分でも気付かない部分を指摘されて戸惑う。そんなに可笑しかっただろうか。

「何かあったか?また風見と喧嘩したとか」「ち、違う…」
「じゃあ、何があった?」

自分と同じくソファの座面を背もたれにして、床に座り込む降谷に覗き込まれて息が詰まった。そんな目で見られたら、何も言えなくなってしまう。

「僕にも言えないことなのか?」

そんな聞き方ずるすぎる。そもそもこの人に隠し事をすること自体無理なのだ。絶対に話さないと口を紡いだとしても、恐らくあらゆる手段をもって抉じ開けてくるだろう。

「今朝、兄さんに…」
「うん」
「れ、零さんと…どこまでしたのかって、聞かれて…」
「それで、なんて答えたんだ?」
「ま、まだキスしかしてないって…」

抱えた膝小僧に額を押し付けて、赤くなってどうしようもないであろう顔を隠す。そんななまえに降谷は微笑が止まらなかった。何故なら隠すために伏せたはずの表情は、彼の意図に反して髪の毛の隙間から丸見えだからだ。まるで林檎のように真っ赤に熟れた頬。その赤みにそっと触れればびくりと肩が跳ねた。

「なまえは僕としたいって思ってくれていたのか?」
「………」

答えなんて聞かなくてもわかっている。その秘密にできない表情と態度だけで十分だ。

「ほら、顔を見せて」

髪をかき上げるようにこめかみから耳の裏側へ、触り心地の良い髪に指を滑らせて。擽ったいと身じろいだ瞬間にその小さな顎を掴まえて口づけた。

「んっ……ぅ…」

なまえの吐息が口の中で木霊する。縋るように降谷のニットを握った掌も愛おしい。うっすら瞳を開けて彼の表情を覗き見れば、さらに色づきを増した頬と目元に欲が高まった。

「……なまえ」
「はぁ……れぃ、さん…」

彼の襟元に手を伸ばして、シャツのボタンを一つ一つ外していく。気付いたなまえが降谷の手を止めようと、押さえようとするのを振り払ってその白い肌を露わにする。唇の端から零れた唾液を追うように、唇から顎。顎から喉。喉から鎖骨へとゆっくり唇を這わせた。腕に絡まっただけのシャツはもう何の用も果たさずに、なまえの艶めかしさを加速させていく。

「み、見ないで…」
「どうして?」
「どうして、って…」

その願いには答えずに、もう一度唇を寄せて。鎖骨をなぞるように舐め上げれば、なまえの小さな悲鳴が届いた。そして胸骨を辿り、谷間の中心へ。横に視線をずらせば、きっと誰にも触れられたことのないであろうピンク色の小さな飾りが降谷を誘っていた。このままではまずいと、弾き飛ばされそうな理性をなんとか繋ぎ止める。

「なまえ… 僕はね、焦らなくていいと思っているんだ」
「…うん?」
「僕たちは僕たちのペースで良い。だから続きはまた今度。なまえの心と体の準備が出来た時にしよう」

白雪のように透き通る肌に触れて、涙の滲む目尻に口づけを落とす。はだけたなまえの体をこれ以上は見ていられなくて、ソファーの隅に追いやっておいた仮眠用のブランケットを引っ張りその寒々しい肩に掛けてやれば、その温もりに彼の表情が柔らかく緩む。

「好きだよ」
「零さん…」

触れるだけの心地好いキスに、どこか焦燥感を感じていたなまえの心が落ち着く。誰かと比べたりなんかして、何で愚かだったのだろう。彼との大切な初めてを危うく失うところだった。

「ねぇ、零さん。一つお願いがあるの」
「なんだ?」
「零さんも、脱いで……俺だけなんて、ずるいよ…」

彼の唐突な申し出に少しだけ驚きを見せながら、降谷は両手でニットの裾を掴み、がばっとたくし上げる。途端に露わになるその筋肉質な上半身になまえは目のやり場と言葉を失った。男の人の体なんて何度も見たことある。兄はもちろん、サークルの合宿で友人たちとお風呂に入ったりもしている。それなのに、降谷の筋の浮き出た逞しい身体から目が離せない。兄より鍛えているはずなのに、骨太と言う印象のある兄よりも温かみのある柔らかな印象の体つきに、思わず手を伸ばした。

「……すごい」

控え目に、それでも確実に降谷の温もりを感じようと触れるなまえが可愛くて、思わずその手首を引いた。バランスを失った身体が、ふわりと此方に傾いて、その腕で細い体を抱き込んだ。なまえの頬に降谷の胸筋が触れる。

「れ、零さんっ!?」
「こうしてるとあったかいだろ?」

ずり落ちたブランケットを引っ張り上げて、今度は二人で肌を寄せて包まる。降谷を見上げる彼の顔はやっぱり真っ赤で、触れればまるで火傷しそうなほど。降谷だっていつまでも我慢がきくわけじゃないことは分かっている。自分だって人間であり、男だ。いつ箍が外れてしまうか、ひょんな拍子に彼を傷つけることになるのではなかと不安で仕方なかった。それでも今はこうして温もりを分け合っているだけで十分だった。いつか消えてなくなるかもしれない、なまえの初々しい反応を今はまだ楽しんでいたいとそう思えたから。




…to be continued


2019.01.09

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