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買い出しの途中で見かけた彼はまるで心ここに在らずの状態で、足取りも覚束なかった。その姿を見た途端にすぐわかった。きっとあの彼と何かあったのだと。あまりにも不安定なその存在が気になって後を追う。とりあえず梓に一本連絡を入れておこうと、安室はポケットに突っ込んでいたスマホを取り出した。

『諸事情で少し戻りが遅くなります。』

空は今にも雨が降り出しそうだった。薄暗い黄昏時。この時間になって湧いてきた湿気によって視界はぼんやりと見通しが悪かった。彼の姿もすごく朧げで今にも消えてしまいそうだ。

その時だった。彼が信号機のない横断歩道に踏み出した時、クラクションの音が鳴り響く。はっと後ろを振り返れば大型トラックが迫っていた。彼も気づいたようだったが足がすくんだのか動けていない。

「危ないっ!」

ダメだ。今からブレーキをかけても間に合わない。そう思った瞬間、自然と体は動き出していた。

「…あっ!」
「くっ…!」

対向車線に車がいないことを確認し、彼の体を後ろから羽交い締めにし、反対側へ飛び込む。もちろん頭を抱えて守ることは忘れずに。辺りにブレーキ音が鳴り響いた。

「馬鹿!あぶねーだろ!気をつけろ!」

急ブレーキをかけて止まったトラックの運転手が窓から叫ぶ。その位置は横断歩道を優に越えていた。怒鳴り散らして満足したのか、トラックはまたそのまま発進していった。
危なかった。あのまま彼を助けずにいたら、今頃…

「大丈夫ですか?」

歩道に避難し、彼に声をかける。突然の出来事に驚き固まっていたようだ。

「あ、はい」
「危なかったですね」
「すみません。ありがとうございました」
「とりあえず、無事で良かった」
「あ…」

彼が僕の腕に触れる。さっき彼を庇った時に肘を擦りむいていたようだ。興奮していたからか痛みを感じていなかったが、怪我を認識すると不思議とじくじくと痛み出してくる。

「ごめんなさい、怪我させちゃって」
「いえ、これくらい大丈夫ですよ。怪我は慣れてるので」
「慣れてるって…」

そう僕の顔を見上げてはっとする。

「あれ…貴方、ポアロの…?」
「ええ」
「偶然…ですね」

助けてくれた人物が見ず知らずの他人ではなく、行きつけの喫茶店の店員だと知ってほっとしたようだった。恐怖と不安で歪められていた顔が、少しずつ穏やかになる。

「いえ、偶然ではないですよ」
「え?」
「貴方の様子がおかしかったので、少し後をつけていたんです。そうしたら…」

様子がおかしい。それは図星だったようだ。安堵の色に変わったその表情がまた曇る。やはりあの男が関係していたのか。

「血が出てる。早く手当てしないと」
「バイト先に何かしらあると思うので大丈夫ですよ」

ふと思い出した。買い出しで買ってきたはずの小麦粉と卵はどうしただろうか。辺りを見回すと彼を助けるために飛び出した反対側の歩道で、見るも無残な姿で置き去りにされている。

「卵割れちゃってますね…。ほんとごめんなさい」
「大丈夫ですよ。予備で買いに行ったものなので、また明日買いに行きます」

袋の中で卵はどろどろになってしまっていたが、小麦粉は拭けばなんとかなるだろう。それに今日の営業時間はあと数時間だ。ストックのもので乗り切れるはずだ。

「僕はポアロに戻りますが、貴方は?」

出来ることならば帰したくはなかった。こんな状態で一人にするのも不安だったが、何か別の。そう、心の中で渦巻いているこの名前のつけようのない得体の知れない感情は。

「一緒に行ってもいいですか?手当て…したいので」

それは彼の身勝手な言い訳だったのかもしれない。彼も一人になりたくなかったのか。それは安室の自己満足な解釈かもしれないが、それでも良かった。こちらにとっても好都合だ。

「じゃあ、行きましょうか」

彼の提案を受け入れたことに安心したのか口元がほころんでいる。ころころと表情がよく変わる人だ。トリプルフェイスとして日々を過ごし、表情を偽り、ポーカーフェイスを得意とする安室にとっては非常に面白く、人間としての豊かな感情を取り戻させてくれる愛らしい存在のような、そんな気がしていた。




2018.08.06

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