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「安室さん遅かったじゃないですかー!」

バイト先に戻ればいの一番に噛み付かれた。表情が変わるといえば、この人も随分面白いのだが。

「梓さん、メール見てないですね?」
「えっ?」

急いでスマホを取り出す。安室の送ったメールを確認して、すぐさまおどけてみせた。そんな梓を見て安室はくすっと微笑む。

「梓さん、救急箱ありますか?」
「えぇ、ありますけど」

梓は少し不思議な顔をしながらカウンターから裏の控室に戻り救急箱を取り出す。すぐ無理をするあの人のことだから、きっとどこか怪我をしたんだろうと変な勘が働いた。 擦りむいた傷口についた砂を洗面所で洗い流すと、滲み出る赤がよりはっきりした。結構広く擦りむいてしまったらしい。今日に限って半袖を着てきたのは失敗だったか。

「また怪我したんですか?」
「“また”って…?」

梓の言葉にずっと黙ったままだったなまえが反応した。ぱっと振り返るれば梓が小さく「あっ」と漏らした。彼女も彼が常連客の一人であることに気づいたらしい。

「安室さんってば、この間も顔を怪我してきたんですよ。転んだって言ってましたけど、なんだか嘘くさいんですよねー」
「ちょっと、梓さん…」

酷い言われようだと思った。慌てて静止するも、傍からかすかな笑い声がした。視線を寄せるとなまえが口元を押さえながら笑っている。その姿に安室はきょとんとした。今日出会ってからというもの、彼は一度も笑顔を見せていなかったからだ。何度か安堵の表情を見たにしても、それは到底笑っているとはいえなかった。

「あ、あの…」
「いえ、すみません。仲が宜しいんだなと思って」

なまえは軽く腰かけていた席から立ち上がり、徐に梓の手の中にある救急箱を受け取った。怪我をしている方とは反対の腕をそっと引いて、元の位置に戻る。不意を突かれて心臓が跳ね上がった。

「安室さん、でしたっけ?」

彼と向かい合わせに腰掛けて、その問いに答える。そうか、店員と常連客とはいえ安室は彼の名前を知らないし、彼も安室の名前を知らなかったのだ。店員の名前など興味があればいくらでも知ることができるだろうに、彼の心を支配していたのはあの男だったわけだから仕方ないことなのかもしれないと、安室は妙に納得がいった。それにこの席は皮肉にも彼らがよく座っていた席だ。

「安室透といいます。貴方は?」
「みょうじなまえです」
「なまえさん…」

迂闊にも下の名前で呼んでしまったが、大丈夫だっただろうか。そっと彼の顔を伺うと特に気にする様子もなく、てきぱきと手当をしていく。怪我が思っていたより広範囲だったため念のため包帯が巻かれていた。梓がカウンター内に戻っていることを確認して、ずっと心の中で引っかかっていたことを聞く。

「なまえさん。聞かせてもらえませんか?あんな顔をして歩いていた理由を」

なまえは少し身構えたようだったが、こちらに借りがあるためか。言葉を詰まらせながら少しずつ話し始めた。それはやはりポアロに一緒に来ていた男のことだった。突然前触れもなく別れを告げられたこと。その理由が好きな人ができたということであったこと。その好きな人が女性であること。なまえは話している間ずっと薬指の指輪を反対の手で握りしめていた。

「おかしいでしょう。男同士なのに…。でも、安室さんにはバレていたんですね」
「僕はそういうことに偏見はありませんから」

それは嘘偽りのない正直な気持ちだった。自分だっていつ其方側に堕ちるかわからない。人生なんてそんなものだ。運命的な出会いがあれば、自分だっていつでも転がれると思った。

「安室さん、今日はもう上がっていいってマスターが言ってますよ」
「いえ、大丈夫ですよ。梓さん一人じゃ大変でしょう?」
「今日はもうお客さんいないし、あと一時間で閉店ですから大丈夫です。それより明日、卵買ってきてくださいね」

こちらを気遣ってか、言い切りで押し切られてしまった。ここまで言われては此方が引き下がるしかなくなる。実際にお客さんは皆無だし、洗い物も残っていないようだったので大丈夫だろう。明日は少しだけ早出して、備品の整理でもすれば良いだろう。

「じゃあ、お言葉に甘えて。なまえさん、送りますよ」
「あ……あー、えっと…」

なまえははっとした表情を見せ、視線を彷徨わせる。何か言いにくそうに口ごもらせた。

「同棲してたから……帰るとこなくて」

今日は漫喫にでも泊まろうかな、と言った彼を引き留めた。

「僕の家に来ますか?」

驚きで見開かれたなまえの瞳に、吸い込まれるかのように自分自身が映り込んでいた。それは綺麗で純粋な瞳だった。




2018.08.12

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