vanilla


「コードネーム……か」

静かにその名前を口にしながらタイを締め直し、重たい木製の扉に手をかけた。ギィと軋む音が鳴り、次いで「いらっしゃいませ」と落ち着いた低音が響く。薄暗い店内に目を凝らしてみればカウンター席の一番奥に腰かける男。目当ての人物がそこにいた。

“コードネーム”と仕事することが決まったのは、つい数日前の話だ。それはいつも通りベルモットと仕事をした夜だった。激しく雨の打ちつける日で、車内にいてもザーザーと耳障りな程に音が響いていた。

「バーボン、コードネームって知ってるわよね?」
「えぇ、名前だけですが」
「今度、彼と仕事してほしいのよ」

どういう風の吹き回しかと思った。以前にもライやスコッチなど一緒に仕事をしたやつはいるが、彼らが消えてからというもの、ベルモット以外と行動を共にしたことはなかった。それは一種の監視のようなものだと思っていたし、変に疑いを掛けられるくらいなら多少面倒くさい相手であろうと、その方が良いと思っていたのだ。
コードネームとは会ったことはなかったが、ベルモットの口から何度か聞いていた名前だ。欧州を拠点に活動していたようだが、この度日本に戻ってきたという。そのような話を聞いていたからてっきり外国人かと思っていたが、よくよく聞いてみれば自分と同じくれっきとした日本人だという。組織の幹部でもないし、それほど興味を持っていなかったので知らなかった。ベルモットから仕事内容を聞き、それはさほど難しい内容ではなかったが初めての相手となるとやりにくさが勝る。こんなところでとちって組織を追い出されるわけにもいかない。

「それで、コードネームとはどのように落ち合えば?」
「彼はね、警戒心が強いのよ。仕事の前に一度コンタクトを取ってほしいの」
「“彼”ということは、男ですか…」
「あら、女が良かったの?」
「まさか。どちらでも構いませんよ」

指定された仕事の日は今日からちょうど一週間後。バーボンは自身のスケジュールを思い浮かべ、動けるのは明日か明後日しかないな、と思いを巡らす。正直忙しい中、時間を割いて接触するのは煩わしかったが、ここは大人しくベルモットの指示に従った方が良いだろう。自分の身を守るためでもある。

「コードネームはよくここのバーに出入りしているわ」

と、バーの名刺を手渡される。黒地に金文字。それなりに高級な店のようだ。

「じゃあ、あとはよろしくね。今日はここでいいわ」
「ちょっと待ってください」

助手席のドアに手を掛け、降りようとするベルモットを引き留めた。

「写真があれば見せていただきたいんですが」

組織の幹部だけが掌握しているリストがあることは知っていた。それはもちろんベルモットもだ。初めて相手に接触するのだから、顔は認識しておいた方がやりやすい。 ベルモットは一度掛けた手を離し、スマートホンを操作して「これよ」とバーボンに向ける。そこに映っていたのは正面からのものではなく、斜めからの言ってしまえば隠し撮りのような写真であったが、容姿の良さがよくわかるものであった。バーボンが言葉を失うには十分だった。

「コードネームには近々バーボンからコンタクトがあると思う、とだけ伝えておくわ」

じゃあね、と。車を降りた女のヒール音が次第に遠くなっていく。既に姿は見えなくなったというのに、バーボンはそこから動けずにいた。先程の写真が脳裏に焼き付いて離れなかった。コードネームはまさしく彼好みの容姿だ。しかし、相手は男で、ましてや組織の人間だ。駄目だ、いけないとわかっていても、否定すれば否定するほど自分の感情を肯定することになってしまう。それを自覚しながら右手で顔を覆い、静かに深くため息を落とした。


▽▽▽


お気に入りのバーで静かにカクテルグラスを揺らしながら、店内に流れるジャズに耳を傾ける。日本に戻ってきて以来、ここのバーの雰囲気が気に入り週に何度も出入りするようになってしまった。既に顔なじみのバーテンダーは不必要に話しかけることはないが、自分好みの味をわかっているし、オーダーを取るタイミングも非常に絶妙であった。気を使わなくていいこの空間が、一番開放的になれる場所だった。
重たい扉が開かれて、軋んだ音をたてる。バーテンダーがすぐに反応し、思わずコードネームも視線を向け、視界の端にその姿を捉えた。見たことのない客だった。金髪にスレンダーな体系。あんな容姿、一度見たら忘れるわけがない。やはり新規の客だろう。その男は品の良い高そうな革靴を鳴らして数段の階段を下り、コードネームと三つ席を挟んだ位置に腰かけた。

「ん?」

ポケットの中でスマホが震えた。通知にはベルモットの名前が映し出された。急ぎの仕事かもしれないと思い、すぐにメールの中身を確認する。

『この間の仕事の話だけど、近々バーボンが接触してくるはずよ』

仕事の依頼ではなかったが、どこか胸がざわついた。バーボンとはどのような人物なのか、こちらは全く情報を得ていない。一方で彼にはどれだけ自分を知られているのか若干不安がよぎる。ベルモットと頻繁に行動しているようで名前は耳にしたことがあったが、詳しい話を聞いたことはなかった。今までコードネームは単独行動が多かったから知る必要もなかったのだ。こんなことなら少しは興味のあるふりをして聞き出しておけばよかった。今回バーボンと仕事をするということも、一度は断った案件だ。しかし「上からの命令よ」とだけ言われ、押し切られてしまったのだ。それは本当なのか、はたまたベルモットの嘘なのかすらわからない。どっちにしろ断れないのだから、腹を括るしかなかった。
つっかえる不安を押し殺しながらスマホをポケットに戻せば、店内ではジャズの生演奏が始まっていた。後方を振り返ればピアノ、ベース、ドラムがセッティングされており白髪の老人たちが音を奏でる。年季の入った心地よい演奏だ。

カタンと目の前のカウンターにグラスが置かれた。ロックグラスに氷が沈んだ琥珀色のお酒。頼んだ覚えはなかった。ウイスキーなんて滅多に口にすることはないのだから。

「え?」
「あちらのお客様からです」

自分の疑問を見透かしたかのように、バーテンダーが答える。彼が手のひらで示す方向を見れば、そこには先程の金髪の男。口元に笑みを浮かべて、碧い眼が自分を捉えている。

「これって…」
「バーボンですよ」

バーテンダーの言葉に答えが一致した。やはり彼がバーボンだったのか。それにしてもベルモットめ、連絡するのが遅すぎやしないか。もう少し早く言ってくれれば心構えができたものの、全くの不意を衝かれてしまった。

「そちらに行っても構いませんか?」

少し離れた席からバーボンが問いかける。この男、口元は笑っているが目が笑っていない。何を考えているのか全く分からないのが恐怖心を煽った。

「えぇ、どうぞ」

バーボンはグラスを持ったまま、少しずつコードネームに近づき隣に腰かける。彼の手の中にある物は、自分の目の前に置かれているグラスと同じものか。

「そんなに警戒しないでください。僕はバーボンです。どうぞよろしく」
「こちらこそ」

コードネームは相手の出方を探りながらも、ふわっと柔らかい笑みを贈った。写真で見ていた通りだった。長い睫毛に通った鼻筋。形の良い唇に、白い肌。既にお酒が回っているのかその頬はほのかに染まっている。そして、その容姿を際立たせる艶のある髪。文句なしの理想形だ。改めて実物を前にして、やっぱり思っていた通りだ。とても可愛らしい。とバーボンは感嘆していた。

「悪いけど、ウイスキーは飲まないの」
「そんなこと言わずに。舐めるだけでも」

その言葉に渋々という様子でグラスを口にする。突き抜けるようなアルコールの香りに、後を引くバニラの甘み。バーボンウイスキーの中でも一番口当たりがよく、まろやかな銘柄を選んだつもりだ。しかし、ほとんどウイスキーを口にしないコードネームにはやはりきつかったようで、そっとバーボンの前にグラスを戻した。それでも十分満足だった。“バーボン”という自分の中の人格の一人が、彼の体を汚しているようで妙な高揚感に包まれていた。

お互いの当たり障りのない情報を交換し、仕事当日の動きを確認した。それだけでも任務を遂行するには事欠かなかった。しかし、これではその場限りの関係で終わってしまうだろう。コードネームの中にしっかりと自分の存在を残しておきたかった。そして、あわよくば二度目が舞い込んでくるように親密で良好な関係を築いておきたかった。

「コードネーム…」

その名を口にしながら、そっとその頬に手を寄せる。思っていたよりもひんやりとしていた。突然触れてきたバーボンの手に少しばかり肩を揺らしたが、その手を振り払おうとはしなかった。

「なに?」
「近くにホテルを取ってあるんです。良かったら僕の部屋でゆっくり話しませんか?」

徐々に淡く染まりゆくピンク色の頬を撫でる。彼は否定も肯定もしなかった。ただその不安と恐怖の中に混じる期待や好奇心といった視線にバーボンは確信していた。

「行きましょうか」

カウンターを下り、幾分か小さな手を取った。素直に後をついてくるコードネームに、バーボンは笑いが止まらなかった。

さて、そのほろ酔いの身体をどうやって溺れさせようか。骨の髄まで溶かすほどに、深く深く酔わせてあげたい。
───僕の声と、この身体で。




2018.08.15

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