そしてしばしの戯れを






*魔界ヒロイン


「何してるの?」
「ん?見て分からぬか?下等生物に反省という言葉を身体で覚えさせているところだ」
悦に満ちた表情で弥子の頭をぐりぐりと踏みつけているネウロ。
彼の最近のもっぱらの楽しみは弥子を苛めることだ。
人間相手には少し過激すぎる体罰を受けている弥子は、人間ながらに逞しい、いやしぶとい精神と体力を持っていた。
あんなことやこんなことをされても数秒後にはネウロに対して何事もなかったかのように接することができるのだから、本当に稀有な人間だ。
ふぅん、と興味なさげに素通りして冷蔵庫を開ける名前の耳に、弥子の「だずげで」と小さな呻きが聞こえる。興味がないわけではない。大有りだ。勿論それは弥子に対してではなく、ネウロに対してだが。

魔界から姿を消したネウロを死に物狂いで追いかけてきてみればこの様だ。
もとより、私のほうが彼にくっついている、という感じではあったが、彼が魔界に帰ろうとしない一つの大きな要因が人間にあるとは思いもしなかった。
(私にはあんな表情一度も向けてくれないくせに)
弥子は可愛い。魔界に住んでいたときには人間なんぞ考えるにも値しない存在であったが、ここ一ヶ月間接した結果、私の中で”興味深い対象”として評価が伸し上がったほどだ。そんな弥子が死ぬとなれば正直惜しいな、くらいには思う。
今だってネウロがあと少しでも力を込めれば弥子の頭蓋骨は簡単に砕け散ってしまうのだが、止めないのには理由がある。名前には解っていた。ネウロは弥子を殺しはしない、と。
ただ自分の為に適度に痛めつけて遊んでいるのだ。彼の娯楽の為に。彼の暇つぶしの為に。
彼とはかれこれ長い付き合いにあるが、弥子に接するように接された覚えは一度もない。
「どうしたんですか?何か悩み事、とか??」
ようやくネウロに解放されたらしい弥子が、目前にひょっこりと顔を覗かせた。
冷蔵庫のドアに手をかけて止まったままの名前を見て、弥子は心配そうな表情で見つめる。
「なんでもないわ。」
素っ気無く返す名前に弥子は微妙な笑みで返す。
名前がネウロと同じ魔界から来たということは知っている。彼女が普段から言葉数が少ないのも、態度が素っ気ないのも、それが普通なのだというのをネウロに教えてもらった。と、そう分かってはいても、素っ気無くされるとなんだか寂しく思える。そんな胸中が混ざり合った表情であった。

名前は当初の目的であった炭酸飲料のペットボトルを取り出し、冷蔵庫を閉めた。
と、丁度事務所の扉が開き、吾代が汗だくだくで帰還した。
「あっちぃ〜・・・、って、なんで俺が全力疾走で町内徘徊してビラを撒き散らさねぇといけねーんだよ」
「貴様の撒いたビラで客が一人来る度に、貴様に小遣いをやろう。・・・そうだな、喜べ、一人につき10円!死ぬ気で頑張れ。」
「俺は三歳児の餓鬼かっ!!!んなのいらねーよ!!」
ったくもうよぉ〜、と吾代は手の甲で額の汗を拭いながら冷蔵庫を開けた。が、すぐに力任せに閉める。数秒固まって、突如怒り狂ったように顔をあげて叫びだした。
「くぉらぁ!!俺のサイダー飲んだの誰じゃいっ!!!今正直に白状したら、九割殺しで許してやらぁ!!!」
眉を八の字に寄せ、瞳は血走っている。
実際のところ彼が九割殺しにできる人物といえば、この部屋にいる中では弥子だけなのだが、この際何も言うまい。
きょろきょろと室内をがん見する吾代が見つけたのは、名前の手にある自分のサイダーペットボトルであった。
吾代の視線が自分の手元に寄せられているのに気が付いた名前は、俯き気味だった瞳をついと吾代へと上げた。
「貴方のだったの。はい、返すわ。」
悪びれた様子もなく、はい、と投げ返された吾代は違う意味で焦った。
彼にとって名前は憧れの存在であり(見た目がものっそい好み)、いくら汗まみれでサイダーが死ぬほど飲みたくて、冷蔵庫で冷やしていたたった一本のサイダーが飲まれた相手が名前ならば怒りの対象にはならないのであった。
それよりも、問題は・・・
「ちょっ・・・、これって、その・・・」
「半分も飲んでないわよ。十分でしょう?」
それでも文句あるの?と、苛立ち気味に訊ねる名前には人の物を飲んだという罪悪感が欠片ほども見受けられない。
勿論吾代とて謝罪を求めているわけではないのだ。問題は全く別の場所にある。
「いや、あの、これって間接キス・・・とかに」
普段悪ぶっている吾代であったが、変な場所に純情っぷりを発揮する。
彼にとってマドンナ(死語)的存在である名前の飲んだペットボトルを飲むということは、本来ならばありえることのない、ありえたとしても決死の覚悟をして行うものだと思っていたのだ。
運動をした後だからではなく、恥じらいの意味で薄っすら頬を赤らめる吾代を見て、名前は「あぁ」と納得したように頷いた。
「唇と唇が間接的に触れ合う行為の事ね、確かに両者の細菌が混じり合うわね。人間には潔癖症と呼ばれる人種が存在するとこの間本で読んだわ。新しいの買ってくるから待ってなさい。」
「ち、ちげぇよっ!!俺は寧ろ嬉しいってゆーか・・・・・・」
「ふぅん、一般的な人間の男ってのは直に触れ合う行為の方が悦な感情を抱くって勉強したけれど、貴方は間接的なのがお好みなのね。」
寧ろ魔界の住人であっても例外ではない。直接的行為のほうが気持ちいいことこの上ない。
人間のことはここ一ヶ月であらかた学んだつもりであったが、自分はまだまだ覚えることがありそうだ。
ふむふむと頷き知識を記憶する名前。吾代はこうなった彼女は止められない事を短い付き合いの中で知っていたため、否定する事を諦めた。
海外からの留学生(吾代にはこう説明してある)というものは難しいものだ、と自分の恋愛の道への遠さを再確認させられる。
だが、このペットボトルは大きな収穫だ。これ(一方的な間接キス)を機に名前との距離がだいぶ縮まるだろう。
内心うはうはしていた吾代であったが、この部屋には自分ひとりだけではない。ネウロに弥子そして当本人の名前までいる為、飛び上がりたい自分を抑え、普段の自分を装うので精一杯であった。
(これは一生モノの宝だ!!)
逸る気持ちを抑えながら震える手で蓋を閉めようとする吾代とぶつぶつ独り言を言いながら研究モードにはいった名前。

一方二人の会話を最初から見ていたのだが、理解しかねる弥子は頭に「?」を浮かべて首を傾げた。個人的に20度くらい傾ける予定だったのだが、他者によって100度近く曲げられる。
「いでででででで!!!」
それは勿論ネウロなわけで、弥子は無駄だと分かっていても両手で小さな反抗を示した。
だが、ネウロにとっては微生物の足掻きと大差なく、弥子の首を一通り曲げながら吾代が大切そうに持っているペットボトルへと人差し指を向けた。
「うおあっ!!!」
突如吾代の持っていたペットボトルが爆発を起こした。その残骸である焦げ臭い粉末が宙を漂う様子を、吾代は酷くがっかりした表情で眺めている。
弥子はネウロの仕業だと分かっていた。あんな芸当ができるのはネウロか名前しかいないのだが、彼があからさまに指差していたのを目撃していたからだ。
どうして?と訊ねるように視線をネウロへと移すと同時に、ネウロは弥子の頭をむんずと掴み、吾代の方へと放り投げた。弥子はそのまま頭から吾代へと突っ込み、事務所内が一度大きく揺れた。
「外でビラを撒いてこい。」
「さっき1000枚撒いたばっかだろーが!!」
弥子の下敷きになった吾代が、彼女を押し避け立ち上がりながらネウロへと食いかかる。
暑い中汗だくでビラ撒きをして、まだ水分も補給できていない。こんなことなら勿体付けずに威勢よく飲んでいれば、と後悔せずにいられない。
「我輩は暇なのだ。まだあかねの作ったビラは大量にあるだろう?全て配り終えるまで戻ってくるな。」
「全てって、お前ぇ!1万枚あるうちの千枚配っただけだから、あと九千枚配れって言ってんのかぁ?!」
吾代の横で弥子は顔を青ざめさせた。事務所の角のスペースに積み上げられているビラを見て愕然としてしまう。
「嫌か?」
「「うっ・・・!!」」
指を顎に当てて、比喩するならば”可愛らしい子供のような”素振りで訊ねてきたネウロに、吾代も弥子も固まった。
無理強いさせられるより数段性質が悪い。普段が悪質なだけに、これ以上に怖い素振りはないのだ。
全てを諦めた二人は揃って肩を落として、ビラの束を抱えてふらつきながら外に出て行った。
名前も二人に続いて外へ出ようとする。

「お前は残れ」
「え?」
開いた戸から出ようとした名前の腕を掴み、止めたのは他でもないネウロだ。
てっきりビラ配りメンバーに加入しているのかと思っていたのだが、そうではないらしい。
名前は言われた通りに、ドアを閉めて室内へと戻った。
「ねぇ」
「なんだ?」
「どうしたの?」
「なにがだ」
「何がって・・・」
ネウロは未だに名前の腕を掴んだまま離さない。
ソファーへと座った彼女の隣にそのまま彼も座っている。
ネウロと知り合って人間の寿命の倍ほどの年数が経ってはいるが、こんなことは初めてだった。
いつだって彼は気まぐれで、その時その時に執着するものへと興味が移り変わる。そして彼は今まで一度も進んで私に近づくことなんか一度もなかったのに。
掴まれた腕が熱く感じる。ネウロに触れるときはいつも私からで、それも幸せだったが、触れられることがこんなにドキドキしてしまうことを初めて知った。
「どうした、はこちらの台詞だ。」
「なにが?」
「吾代に好意を寄せているのなんか初耳だぞ?」
「・・・・・・・は?」
面白そうに笑みを浮かべながら話すネウロの言葉自体意味不明だった。
誰が、吾代に、好意。誰が、の部分は勿論名前のことだろう。室内には彼女しかいないのだから。
ネウロはさも面白そうに続ける。
「人間なんぞに好意を抱くとは」
それは自分でしょ?とは言えなかった。
蔑んだように言葉を吐くネウロにとって、彼自身弥子に興味を抱いている端に好意が潜んでいることを気づいていないのだろう。
それにこれは私の推測であって、確定のものではない。
万が一、本当に興味という名の好意を抱いていたとしても、それに気づかせる義理もない。
彼は知らないほうがいいのだ。そのほうが、私にとっては都合がいい。恋するネウロなんか見たくない。
それにしてもなんで私がよりにもよって吾代なんだか。そこだけは否定しないといけない。彼は最近自分の中で芋虫クラスに昇格しただけの人間である。
名前は否定しようと顔を上げた。が、突然噛み付くようにキスをしてきたネウロに押し倒される形でソファへと沈み込む。
「んんっ・・!」
嫌ではないから、抵抗するつもりはない。反射でくぐもった声が零れる。目を開けば、ネウロの闇のような双眸とかち合った。
氷のような冷たい色に、心臓がどくんと波打つ。
それを計ったのように、口内へと舌が入り込み、舌を絡め取られ翻弄される。
(――――珍しい珍しい珍しい珍しい。)
こんな情熱的なキスは初めてだった。唇の裏までもがしびれるくらい甘い口付けが、呼吸するのを忘れてしまうほど長い時間続いた。息苦しさも苦にはならない。寧ろこのまま窒息死したい。殺して欲しい。
「――ん、っんはぁっ・・・、」
「間接的な行為を吾代が好んだとしても、」
合間に甘い吐息が零れる中、ネウロは唇をずらす瞬間に言葉を挟んだ。
吾代、の名前に名前は疑問符を浮かべる。先程から吾代吾代と何なんだろうか、一体。
「お前は我輩の物なのだから、間接的であろうと、することは許さん」
脳髄に響いてきた言葉に頭がくらくらする。胸がどくどくと波打って死にそうだ。
何がどうなってこうなったのかは理解不明だが、吾代のおかげであることには間違いない。
ビラ配りから帰ってきたらジュースの一本でもくれてやろう、と名前はネウロの首に手を回しながら考えていた。


20150915 

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