
私たちは所謂「お付き合い」の関係ではなかった。あらかじめ言っておくが、別に浮気とか遊びとかそういうやましい仲ではない。私と真波は友達でも恋人でもない何かだ。ちなみに付き合いはだいぶ長く、かれこれ十年近くといったところである。
初夏の生ぬるい寝室に、いたく安らかな寝息が響く。私が寝返りをうつと僅かにベッドが揺れる。しかし彼は目覚めない。私は眼前にある真波の寝顔を見つめる。彼が私の前で無防備な姿を晒すようになったのはいつからだったろう。思い出せない。私たちはいつの間にか懇意になった。きっかけは特にない。
今、私は彼と二人で過ごすこの時間を底抜けに心地よく感じる。だからきっと私は彼のことが好きなのだと思う。この気持ちに名前をつけるならたぶん恋とか愛とかそういう類のものになるのだろう。けれど不思議なことに、私たちの間で恋の告白や愛の確認といった行為が生じたことは一度たりとも無かった。私たちはなんとなく寄り添っている。そして気づけば積もる年月が、今日も今日とて更新されていく。
真波を起こさぬよう慎重にベッドから抜け出し部屋を見渡す。私の私物と真波の私物で散らかった憤然雑然たる空間。この場所とも今日でさようならなのかと思うと、つらい。そして私はこれから真波を傷つけてしまうんだろうと思うと、もっとつらい。
部屋中に散らかっていた自分の荷物を集めて一つの鞄に詰め終えた頃、真波が目覚める。寝起きの彼はまず自分の真横に私がいないことに気づき、次に私を探す。彼の視線がしばらく宙を漂って、ようやく私を捉えたその瞬間、彼の顔にふにゃりと頑是ない笑みが咲く。
「おはよう、どこか行くの?」
真波が寝ぼけた口調で尋ねてくる。私はとりあえず「うん」とだけ答える。ここでどう切り出すべきか長いこと考えたのに、未だ良い台詞が思いつかない。「別れよう」なんて一言は相応しくないし、かといっていきなり「さようなら」は酷すぎる。どうすれば真波を傷つけずにすむのだろう。そんな優しい終わり方が果たして存在するのかすらわからないけれど。
二人が明確に恋仲であればどれほど良かったろうと思う。「お付き合い」には必ずわかりやすいはじまりと終わりがあるから。ここでいう終わりとはひとえに破局だけを指すのではない。むしろゴールと称すべきか。まぁとどのつまり何が言いたいかというと、真波と終わりを迎える覚悟も勇気も、私には無いということだ。
多年そばにいた私からすると、真波は中学高校の頃から毫も変わらない。天然で、マイペースで、子供っぽくて、なんにも考えていないように見えて実はいろいろ考えていたりする。だからたぶん、私と彼の曖昧な関係についても彼なりにちゃんと考えているのだ。あるいは赤縄を結ぶ気でいるのやもしれない。しからば私の行為は彼への裏切りに等しい。
親、お金、体裁。そういうものと真波への思いとを、私は天秤にかけてしまった。必ずどちらかを捨てねばならないとわかっていたのに。たとえば私がすべてを打っちゃって駆け落ちできるほど勇敢な女だったなら良かったのだろうか。
「どうしたの」
黙っている私に、真波が柔い声で問いかける。彼は依然として寝ぼけ眼をしょぼしょぼさせていて、ともすれば二度寝するのではないかと思われるくらい眠そうだったが、やおら起き上がり私のそばまで歩み寄った。
「泣いてるの?」
「泣いてないよ」
言下に私は否定するが、言葉とは裏腹に、滾滾と溢れ出る罪悪感の雫を止めることができない。
真波はパジャマの袖で私の涙を拭きながら、まとめられた私の荷物を一瞥し、やんわりと、いつも通り、まるで天使みたいに稚気に富んだ微笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい」
そう一言だけ言って、真波は再び布団に潜っていく。それを見て私は察し、何も言わず部屋を出る。惜別の言葉など真波は望んでいない。私たちがなんとなく理由もなしに寄り添ったのと同じで、真波は私が離れていくことに理由を求めない。真波自身が人に拘束されるのを嫌う性格だから、他人にも強制というものをしないのだ。そうとわかっていても、私は彼に許されたのだと自覚せずにはいられなかった。胸に焼きついた真波の微笑みは部屋を出たあとも変わらぬ鮮やかさのまま、底抜けに優しく私を包み続けている。