あれはいつぞやの夜の話だった。日付を跨ぐような時間だったせいで我が本丸の刀達が各々眠りにつこうとしていた頃のこと。私は政府への報告書作成がようやく片づいたのでいつもより遅い就寝を迎えようとしていた。ちょうどその時、スッと襖が開く。御簾越しに見えた小さな影にまた短刀の誰かが眠れず枕を携えてやってきたのだろうと思ったのだが、男らしく低い声が私を呼んだので私の想像した人物とは異なった。声をかけられれば眠りたくても返事せずにはいられない。逆にこんな時間にどうしたのかと私は御簾の向こう側に問いかけた。スッと御簾を潜り抜けて小さな影がようやく私に顔を見せる。すっかり明かりを消した室内ではお互いにどんな表情を浮かべているか分からない。
「もしかして、薬研も眠れないの?」
他の短刀達のように彼にも子供みたいに眠れないという日が存在したのかもしれない。彼はいつだってあの長兄と同じように弟達のことを気にかけているのでその疲れが出たのだろうと思う。しかし、彼から返ってきた返事はそんな甘いものではなく、寧ろ、想像を絶するものだった。
「名前」
突然私の身体に襲いかかる衝撃と体重、そして私の視界の先に映る天井と彼の顔に私は今何をされたのか瞬時に理解した。いつもは私を大将と呼ぶ低い声が艶やかに私の名前を何度も呼ぶ。薄暗い部屋の中でも分かるくらい彼の瞳はこれが冗談ではなく本気であることを物語っていた。危険を感じた私はすぐに抵抗を試みようと彼の薄い胸板を必死に押し返しながら拒否の言葉を口にする。残念ながら体格差はあれど戦場に赴く彼とただ本丸で帰りを待つだけの私とでは力の差は歴然としていた。小さくても骨張った手がいとも容易く私の暴れる両手を掴んでしまう。もう片方の手は私の寝間着にかかり無理やり引き剥がした。嫌だ嫌だと暴れながら叫ぶ私の唇を彼は耳障りだと言わんばかりに舌打ちしてから何度も塞ぐ。強姦紛いの彼の行動にこれ以上やめてほしくて私は涙を流しながら強く祈ってしまった、彼がただの刀に戻るようにと。その瞬間、ぽとりと私のお腹の上に短い刃が落ちる。薄暗い室内に残されたのはぼろぼろの寝間着を纏う私だけになった。私は恐る恐る短刀を拾いあげる。すっかり温度を持たなくなった無機質な彼の姿に何度も謝りながら胸に抱きしめた。そのままやがて朝を迎えた私は人の姿に戻った彼の腕の中で目を覚ます。私と同じように眠りに落ちていた彼の頬には涙の跡が一筋残っていたのだった。
あの日の朝、目を覚ました彼は自らの腕の中にいる私を見るなり眉間に皺を寄せた。そっと私の身体を離してからすぐに布団から出てその布団を私の頭まで被るように私にかけ直し、風邪ひくなよと告げてから何事もなかったかのように彼が部屋から出ていったのである。それ以来、彼は私と必要最低限しか口をきかず幾日も時が過ぎようとしていた時だった。
「大将、入るぞ」
普段私から遠ざかっていたくせに何故かこの日に限り彼は私の部屋を訪ねてきた。私の前に姿を現した彼は旅装束を身につけ、しばらく旅に出ると私に告げたのである。別に誰かが旅に出ることは我が本丸でも他の本丸でも珍しいことではない。刀としての本分とでも言うべきかは分からないが、どの本丸でも主に短刀がもっと強くなるべく修行に出かけていく。確か、三日ほどで帰ってきたと思うけど。つまり、私には彼が旅に出ることを止める権利などないのだ。ましてや自己防衛のためとはいえ彼の顕現を一度でも解いてしまった私が彼に今何を言ってやれるのだろう。
「気をつけて、ね」
必死に振り絞って出した言葉に彼から何と返ってくるか不安だった。もしかしたら、もう二度と帰ってくる気がないかもしれない。彼の行為を受け入れることもできなかったくせに私は彼を失うことを恐れている。理由は何だろうか。せっかく集めた内の一振りだから、そんな身勝手な理由かもしれないが、私にもよく分からない。
「ああ。行ってくる」
その言葉はちゃんとまた私の元へ戻ってくることを意味していた。ホッと安堵の息を吐く。彼は私の顔をまじまじと見つめたかと思えば何か言いたげに少しだけ口を開く。でも、またすぐに口を閉じゆっくりと首を横に振った。それを私は気づかないふりをする。結局は彼から私が予想できない言葉をかけられることを私は恐れているのだ。あの日から、ずっと。それじゃあと立ち上がり襖の向こうへ行ってしまう彼に思わず引き止めるように名前を呼ぶ。きちんと私の呼びかけに応じるように振り向いてくれる彼の表情には何処となく悲哀みたいなものを感じた。ほんの少しだけ交わる視線にあの日の夜のことを思い起こさせる。あれは私にとって人生で一番怖い出来事だった。だけど、それ以上に彼を失うことの方が、怖い。
だいたい三日くらいで帰ってくるよと刀達に励まされてからもう一週間経ったと思う。待てど暮らせど彼の帰還はまだなかった。他の短刀が旅に出た時には毎日一通ずつ近況報告を兼ねた手紙をくれたのだが彼からの手紙は一つもない。それが私を更に不安にさせていった。彼は今何をしているのだろうか、無事でいてくれているのだろうか、彼の身を案じるだけで胸の奥が苦しくて泣きたい衝動に駆られていく。毎夜眠りにつくと彼にされたことをありありと思い出す。だけど、全部が恐かったわけではない。一度は顕現を解いてしまったが泣きながら眠るうちに再び彼が顕現するよう祈り、そして気がつけば彼の腕の中で眠っていた。彼の腕の中はあたたかくて優しくてずっと傍にいてほしいと願うほどにあの日の朝は嫌ではなかったのだ。つまり、私は、私は彼のことを。
彼の帰還が本丸中に伝えられたのは彼が旅に出てからもうすぐ一月が経とうとしていた頃のことだった。私の自室に粟田口の子達が彼の帰還を知らせに来たことを受けて私は急いで玄関まで走る。急ぐあまりもつれそうになる自分の足に構う余裕もなく転がり込むように彼の前に姿を現わすと、少しだけ大人びた表情を浮かべた彼が私を見つけて微笑んだ。
「ただいま、大将」
大将。聞き慣れている呼び名なのにそれが他人行儀な気がして嫌だと叫びたくなる。でも、それ以上に彼がようやく私の元へ帰ってきたという喜びの方が強い。無我夢中で両手を伸ばし私より小さい身体を強くきつく抱きしめる。ぼろぼろ止まらない涙のせいで私の顔は誰かに見せられるものではないだろう。
「ずいぶんと熱烈なお迎えじゃねえか」
からかうような口調なのに彼の声音は泣きそうなほど震えていた。私の背中に腕を回していいのかしばらく悩んでいたようで彼の手が宙を切る。彼が一度深呼吸した気配がした。その直後、私の背中にそっと腕が回る。彼の手もまた声と同様に震えていた。私達の姿に刀達が気遣ったようで気がつけば玄関に残っているのが私と彼だけになっている。
「もう、帰ってこないのかと思った」
先に口を開いたのは私だった。ずっと思っていた不安をようやく伝えることができたせいでほんの少しだけ心が軽くなる。
「本当はそのつもりだったんだ」
そんな気はしていた。何も音沙汰もなく幾日過ぎても帰ってこないだなんて誰がどう考えても本丸から出て行ったとしか思えないだろう。それでも必死に考えないようにしていた。彼を失うなど、彼との日々を失うなど、絶対に嫌だったから。
「旅をしながらずっと考えていた、戻るか戻らないか。戻れば俺はきっとまた大将にあの日と同じことを仕出かすに違いない」
私の頬に長い指が滑るので私は顔をあげて彼を見つめる。私より低い位置にある男の子の顔。違う、本当はとっくに分かっていた。彼は間違いなく男の人なのだ。
「でも、俺は大将の元へ帰ることを決めた。大将のことを怯えさせる存在でしかないとしても、俺は大将と共にいたい」
彼の瞳が揺らぎ、形のいい唇が歪んでいく。涙を流していないのにまるで泣いているような彼の表情に私の胸が押し潰されそうなくらい苦しくなる。彼は私の元へ帰ることを選んだ、それと同時に、彼は私のことをこれからも大将として見続ける決意もしたのだろう。私の名前を絶対に呼ぼうとしない、それが証拠だ。
「勝手に自己完結しないでよ」
私の頬を滑る長い指に私の手を重ねる。私の行動が意外だったようで彼は戸惑ったように口を開けたり閉じたりしてしまう。言いたいことはたくさんある。だけど、複雑に絡まりあった言葉はたった一つしか私の口から出てこなかった。
「お願いだから、何処にも行かないで」
驚きに彼がようやく小さな声を溢す。私は無意識に彼の指を握り潰さんばかりに力を加えてしまっている。ただでさえ色白の彼の指が余計白くなっていく。彼は私に握り潰されそうになっている自分の指にちらりと視線を向けたかと思えば深く長く息を吐き出した。身体中の力を全て出し切るように。
「大将に嫌われたかと思ったぜ」
今度こそ彼は一筋だけ涙を溢した。心の底からホッとしたような彼の表情に私の胸の奥が込みあげてくる。嫌いになるわけがないのに。
「大将だなんて呼ばないでよ」
その瞬間、私の手が振り解かれる。拒絶されたのかと弾かれたように彼を見る。すると突然私の顔が彼の大きな両手で包まれ力強く引き寄せられた。ぐっと彼との距離が縮まり思わずぎゅっと目を閉じる。しかし、彼と私の距離がそれ以上近づくことはなく、一拍置いてから私の額にあたたかいものが押し当てられた。そっと目を開けると彼が私から手を離し、代わりに私の頭を数回だけ撫でてくる。
「あんなことまでしたくせに言うのも何だが、これからは大切にする、名前のこと」
ふっと彼が柔らかく笑ってみせる。その表情がたまらなくかっこよくて愛おしくて私は自然と笑顔を返していた。胸の奥が甘い音を立てる。今度はちゃんとした順序で私達は愛を育んでいくのだろう、きっと。
「また無理やりしてきたら許さないからね」
「それは約束できないかもな」
彼が戯けたようにそう言うものだから私はわざとらしく拗ねた素振りを彼に見せつける。そんな私に対し彼は少しだけ考えてから再び口を開いたのだった。
「つまり、それだけ俺っちは名前のことを愛してるということだ」
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