きみのやさしいを咀嚼する
夜のにおいが消えたことにとっくに気付いていた。それでもと粘ってはみたものの、薄い光が閉じた目蓋を照らし出したから、今日も駄目かと目を開けた。
最近やっと見慣れてきた天井には白い太陽光が揺れている。開けた窓から入り込む風がカーテンレースをひらひらと泳がせて、まるで波のように透けた光が寄せては返した。どこからか聞こえてくるひそやかな暮らしの息遣いが鼓膜を掠める。
しばらくぼうっとした後にタオルケットから抜け出して、洗面所へと向かった。
冷たい水から顔を上げると、眠っていなくても起きたという気分になる。そのまま歯を磨いて清潔な服に袖を通すと、どれだけ怠くても背筋が伸びるから不思議だ。
染み付いた生活習慣のおかげだろうか。髪を梳かしながらぼんやりと鏡を見つめた。
身だしなみを整えて朝の支度を終えると、狙ったかのようなタイミングでノック音が響いた。規則正しい間隔で二回。
時計の針はぴったり七時を指している。今日もいつも通りの時間だ。
「どうぞ」
ロックを解除して扉の前の人物にそう声をかけると、「入るぞ」という声と共に扉が開いた。
ノック音からして堅苦しさが滲み出てるのに、そうやっていちいち声をかけるところが真面目さに拍車を掛けている。
「おはよう」
凛とした声が静かな室内に響く。わたし以外の誰かがいるだけで、しんと冷えていた空間が熱を持つようだった。
今日も頭の先から爪の先まで完璧を体現したかのようなそのひとは、わたしの傍に寄ってきて、鎧じみた服に皺を刻む。
「……おはよう、サリア」
ただの挨拶。それが落ち着かなくていつも一拍遅れる。おはようの後に続く言い慣れない名前もぎこちなくて気まずい。
それでもサリアはきまって無愛想な表情を緩めてわたしを見つめた。
「眠れたのか」
無骨な指が、一瞬だけ目の下に触れていく。
「うん、大丈夫」
「……そうか」
温かい肌の感触が微熱みたいに燻ぶって消えていく。面影がまなうらにちらついては去っていく。
サリアはなにかを言いたげにして、けれどそれ以上はなにも言わなかった。
切り替えるように立ち上がると、時計を確認していつもの言葉を口にする。
「朝食の時間だ。食堂に行くぞ」
「……うん」
お腹は空いていない。けれど、頷かないと小脇に抱えられて、食事の重要性や栄養素の役割を延々と聞かされながら食堂までの道を辿ることになる。あんなのはもう二度とごめんだ。
わたしは渋々、首を縦に振った。
部屋から出ると艦内はざわざわと騒がしく、新しい朝の活気に満ちていた。通り過ぎる部屋のそこかしこからは人々の営みの音がする。
サリアはわたしを置いていかないようにと歩幅を合わせながら前を歩く。広い背中を見上げながら、わたしは迷わないようにと付いていく。
迷路のような艦内だけど、サリアの後ろを大人しく歩き続ければ目的地にはすぐに到着した。
相変わらず盛況なようで、テーブルの空きは数えるくらいしかない。
個室には簡易キッチンも備えてあるけど、朝から自分で作るのは面倒なんだろうか。そんなことを一瞬考えて、自室の埃をかぶった簡易キッチンが脳裏を掠めたから、早々に考えるのをやめた。
サリアは適当な場所を確保すると、待っていろとわたしを残してさっさと注文口に行ってしまった。
ぽつんと椅子に腰かけて、わたしは周囲と自分とを遮るように瞼を伏せる。
サリアにとって、これは何の意味を持つんだろう。動機を察することはできても、この行き過ぎたお節介が何を意味するのか、何を齎すのか、わたしはよくわからないでいる。
ぼんやり考えていると、ほどなくしてサリアは両手にお盆を乗せて戻ってきた。
テーブルに置かれた料理はいつも通りにバランスの整ったものだけど、肉と根菜が多めのメニューだ。あと、いつもの豆パンとミルク。
「待たせたな」
「大丈夫、ありがとう」
サリアが向かいに座るのを待ってからいただきますと声を重ね、食事に手を付ける。
食欲がないからか、喉の通りが悪い。それでも咀嚼して胃に詰め込む作業を皿が空になるまでもくもくと繰り返す。
サリアは時折、手を止めてわたしに視線を注いだ。ひたすらに顎を動かして食道にものを流す様を見つめている。
こういうときのサリアは、吊り上がった眉尻をほんの少しだけ緩めて、どこか嬉しそうな顔をしていた。
お腹の底がきゅうっとなる。どんな顔をすれば良いのかわからなくて、わたしは睫毛の隙間からサリアをちらちら見るだけだった。
「今日はA1の面々と共に任務に編成されていただろう」
わたしの皿がやっと半分になったあたりで、ふと、サリアが口を開いた。
見れば、サリアの皿はもうすっかり空っぽだ。相変わらず食べるのが速いなと思いながら、わたしはこくりと頷いた。
「内容は物資輸送車の護送だったな。ルートは先日、偵察を済ませてあるようだが、あらゆる可能性を考えて警戒を怠るな」
どうしてサリアがわたしの任務の内容を知ってるんだろうと思うけど、もういつものことだから黙っておく。
もしかして、この炭水化物とタンパク質が多めの食事はそれを見越してのことだったのだろうか。フォークに絡まった料理とサリアの顔を交互に見比べた。
「……お前は特に負傷率が高い。過度な負荷は身体の成長の妨げになる。くれぐれも気を付けろ」
この言葉が心配からくるものだと気付いたのはここ最近だ。サリアは、あまりわたしにアーツを使わせたくないらしい。なんとなく、鉱石病の進行を気にしているんだろうなと思った。
わたしは澄み透った双眸に宿る、燃えるような夕焼けの色を見つめて、再びこくりこくりと頭を縦に揺らした。
「ん……気を付ける」
そうは言ったものの、やっぱり今日も怪我まみれだ。
帰還後、わたしは一緒に編成されていたハイビスに有無を言わさず医務室へと連行され、いまは彼女の小言と共に処置を施されている真っ最中だった。
「もう! ラヴァちゃんより無鉄砲なんですから!」
「ハイビス、もうわかったから……」
元々の世話焼き気質もあるのだろうけど、こと、怪我においてはやけにうるさい。
ハイビスはもう、と繰り返し唇を尖らせながら、ほっとけばすぐ瘡蓋になるようなちいさな傷ひとつひとつを消毒し、絆創膏やガーゼで保護していく。
彼女はアーツを操る感覚が嫌いだとかで、治療は道具や薬を使ったものが多いけど、そのせいでわたしは鈍臭い子どものような様相だった。
「わかっているならあの無茶苦茶な戦闘スタイルを改善してください! 前に出すぎです!」
「べつにそれがわたしの戦闘スタイルなわけじゃないけど……ごめん」
理由はわからないけど、戦闘に出ると度々、頭の中が煮える。そうして気付いたら前に出ているのだ。おまけに使えるものを何でも使ってしまうせいで怪我が絶えないことは自分でもわかっている。
仕事を増やしてしまうことについては申し訳ないと思っているけど、それにしたって無茶苦茶は言い過ぎじゃないかな。
「でも、無茶苦茶っていうのはブレイズさんとかシージさんみたいな戦い方のことだと思うんだけど」
あの人たちに比べればわたしはまだ可愛いほうだ。
ぼそりと付け足すと、ハイビスはぷるぷると唇を震わせ、やがて大きなため息を吐いた。
「あのお二人は真似しちゃ駄目な部類です。恵まれた体格や強靭な肉体、そして成熟しきった健康な身体という前提で成り立つ無茶なんですよ」
「ふうん……」
「まだ身体が出来上がってもいない名前さんは言語道断! 皆さんの健康を預かる身としては見過ごせないんです!」
「……ねえ、それ、わたしの身体がひょろひょろの未熟だってこと?」
「えっ! そんなことないですよ! これから来る成長期のためにも、体を大切にしてくださいってことです!」
ハイビスはちぎれそうなほどぶんぶん首を振ると、さっきの怒りなんて忘れたみたいに柔和に笑って睫毛を瞬かせる。
白い手のひらがわたしの傷ついていない方の手を取って、そっと包み込んだ。
「楽しみだなあ……名前さんはどれくらい背が伸びるんでしょうね! 大きくなってほしいですけど、私より伸びてほしくないような……」
「なにそれ……ハイビスだってまだ伸びるでしょ」
「えへへ、だと良いんですけど。兎にも角にも、たくさん眠って、 たくさん食べて、大きくなってください。それで、一緒にお洋服と か見に行きましょうね! ラヴァちゃんは荷物は持ってくれるけど、お洋服選びは付き合ってくれなくて寂しいんです」
約束ですよ、とにこにこ笑ってハイビスは最後の傷の処置に取り掛かる。
わたしはサリアの顔を思い浮かべた。
サリアもそうだ。似たようなことを言いながら、わたしの食事とか睡眠とか、いろんなことを気にする。鉱石病の致死率を知らないわけじゃないだろうに、あのひとはわたしの未来を信じて疑わない。
何だか口の中が苦くて唇を引き結んだ。ずきずきと四肢に疼痛がはしる。
つま先を擦り合わせると、ハイビスは慌てたように「もしかして痛いですか!? 大丈夫です、もう終わりますよ!」と、膝小僧に薬を塗り込んでいく。
違うと言おうにもサリアとは違う指先が、彼女よりも器用にわたしに触れるから、言葉が上手く出ない。
迷った末に、その滑らかな指が必死に傷口を塞ごうとするのを黙って見つめた。
「……はい、終わりましたよ。細かい傷はアーツをかけてあるのですぐに治りますけど、右手は塞がるのに時間かかりますからね! それから、罅も骨折だということを忘れずに! お迎えはサリアさんを呼んでおきましたから、それまでここまでお待ち下さい!」
「ありがとう、ハイビ…………なんでサリア?」
ハイビスが当たり前という顔をして言うからつい受け流しそうになった。
たしかにわたしはまだロドスを攻略できていないから、ひとりで帰れば迷子になることは目に見えている。送ってもらえるのは素直にありがたい。
けど、どうしてそこでサリアの名前があがるんだろう。
「えっ? むしろ、サリアさん以外にいますか?」
質問に質問で返された。
むしろってなに、どういう意味だと、じとっとした目を向けてもハイビスは首を傾げる。交差した紫色は光を飲み込んできらきらと無邪気な子どものように輝くばかりだ。
このまあるい瞳には、わたしとサリアがどんなふうに映っているんだろうか。
想像して、すぐにかき消した。どうだって良いか、そんなこと。
それから少しして、医務室にやって来たサリアにより、わたしは彼女に抱えられた状態で医務室を後にした。
歩けると言っても聞き入れてくれず、すれ違う職員やオペレーターからは生暖かい視線を注がれる。
恥ずかしくて廊下を歩けなくなるかもと抗議しても、サリアはそうかと言うだけで、けしてわたしを離そうとはしなかった。
諦めてもたれ掛かるように胸に顔を埋めると、サリアの拍動が聞こえた。真ん中の、左寄り。耳をそばだてるとより鮮明にどくどくと、少し駆け足で力強い命の音が鼓膜を打つ。
指の先まであたたかい熱に満ちた体が、むずがるように身を竦めたわたしを離すまいと抱え直した。
慣れたくないのに、ひどく安心する。いきものの温度に包まれた体は、もうすっかりふやけてしまいそうだった。
「右手を負傷したそうだな」
部屋に戻るなり、サリアはそう切り出した。
わたしをベッドに降ろして、いつもみたいに目線を合わせるために膝を折る。
その顔を正視できなくて目を伏せても、サリアは叱りつけたりせず困ったように目を細めた。
睫毛の隙間から途切れ途切れに白い肌が透ける。わたしのための鎧の皺が視界に入って息苦しい。
しばらく黙ってこちらに視線を向けて、それでも何も言わないわたしに痺れを切らしたのか、不意にサリアが距離を詰めた。いつもはひとりぶんの距離を保ってわたしと向き合うのに、どうしたのろう。やっぱり怒っているのだろうか。
絹糸みたいな髪がさらさらと揺れた。いつもの石鹸の香りではなく、土と硝煙と血のにおいが漂い、鼻腔を掠めていく。
彼女も今日、任務に編成されていたことに、わたしはそこでようやく気付いたのだった。
「……ん」
任務帰りで疲れているところに、こんなどうでもいいことで迷惑を掛けている。
後ろめたくて隠すように左手を右手の甲に重ねても、すかさずサリアに引き剥がされてしまった。
任務後に、サリアは必ずわたしの手に触れる。理由はよくわからないけど、わたしがオペレーターになってから絶対に欠かすことがない。
今日もそれは変わらなくて、いつもは両手だけど、無傷の左手を包み込んで握られた。
輪郭をなぞるようにして触れるのは、ハイビスとも、わたしとも違う、骨ばったしなやかな大人の指先だった。でも、この手は母さんにも父さんにも似ていない。
爪の先まで一寸の隙なく鍛え上げられ、逞しい肉刺の硬さを感じるこの手は、戦うひとの手だ。
「名前」
薄い唇がもどかしそうにわたしの名前を形作る。サリアが呟く滑らかできれいな音の連なりは、いつもわたしの呼吸をぎこちなくさせるから困ってしまう。
「完治まで私が傷の具合を見る。しばらくは不便だろうが、右手は使うなよ」
怒られるかと身構えたけど、サリアは静かにそう告げるだけだった。
肩から力が抜けていく。恐る恐る目を合わせて今度は喉から息が抜けた。
サリアの目は吊り上がるでも烈しい感情を宿すでもなく、凪いだように静かにわたしを見つめていたから。そこには怒りや苛立ちなんて欠片もない。
ただ、ひどく悲しげで。
「……」
どうしてサリアがそんな顔をするの。
口を開きかけて、けれど尋ねることは出来ない。
黙って頷くと、サリアの手のひらがそっと、わたしの髪に触れた。
差し込まれた指はどう触れたらいいのかわからないとばかりに不器用な動きだけど、込められる力はとても柔らかいから喉の奥がつきんと痛い。もういない温もりを重ねて奥歯を噛んだ。
「……痛むのか」
顔を覗き込まれてはっとする。咄嗟に首を振った。
無意識のうちに眉間に皺を寄せていたことに気付き、急いで眉を平に均す。
「ううん。サリアの注射のほうが痛いよ」
そうやって冗談めかして誤魔化した。
サリアは少しの間、難しい顔をしていたけど、やがてふっと吐息で笑った。
乗っかった指が動く度、傷よりも胸の奥底がひどい音を立てて痛む。こんな、穴の空いた歪な心のくせに。
わたしの綻びを辿るようなやさしい指。錆びたロボットのように不器用な手のひら。
サリアの手は、わたしを撫でるにはどうしたって向いていない手だった。
◆
数カ月前、わたしはどこぞで死にかけていたところを偶然サリアに救われた。
そして目覚めたその日からずっと、彼女は何かにつけてわたしの面倒を見てくれている。
サリアの第一印象は、かたそうなひと、だった。
鎧のような堅固な衣服に包まれた、鍛え抜かれた逞しい身体。睫毛の一本まで微動だにしない表情。彼女が纏う粛然とした雰囲気に、肌がひりついたのをよく覚えている。
実際、初めて会話したときもサリアの口から出る言葉はお堅いものばかりだったし、わたしに触れる指の拙さだって彼女の生真面目さを如実に表していた。
最初は少したどたどしく呼んでいたわたしの名前が確固たる形を持った今でも、何故かその触れ方は変わらない。
子どもの触り方がわからないのか、それともわたしが感染者だからなのかと思ったけど、イフリータに触れていたときはもっと力強かったし、ぎこちなくはあってもよく触れてくるから不思議だ。そもそも、彼女は感染者だからと忌避したりしないんだけど。
サリアは口を開けば健康的な生活を心掛けろだとか、食事は三食バランス良くだとか、健診をしっかり受けろだとか、とにかく親よりも口うるさい。ときに強引にわたしの健康を管理することに、最初は戸惑った。同情なのかもしれないと勘繰ったりもした。わたしの村は感染者を抹殺せんとする暴徒に焼かれ、非感染者だった両親もわたしを守ったせいで惨殺されたから。
でも、そんなのは特別、珍しいことじゃない。それに、答えはすぐにわかった。
責任感。
堅物、生真面目なあの性格からしてそれでまず間違いない。わたしを救った責任感から、サリアはわたしを放っておくことができないのだ、と。直接、確かめたわけではないけど。
毎日わたしの元にやって来て、勉強をみたり食事に連れ出してくれる。ひとりで出来ると言っても頑として譲らない。
暇を持て余しているならまだしも、サリアがただの暇人じゃないことはわたしでもわかる。なのに、あのひとは時間を見つけては惜しみなくわたしに費やす。
正直、いくら生真面目と言えど、度が過ぎているとは思う。でも、サリアの目は嘘をつかないから疑うことも出来ない。あの澄んだまなこには、下心とか打算とか、そういったものがないのだから。
「経過は順調だな」
あれから二週間。今日も今日とて、サリアはわたしの部屋を訪れた。
毎日見たって何が変わったのかわからないけど、サリアは満足そうだ。
神経質なほど丁寧に汚染したガーゼを剥いで捨て去る。手際よく手のひらの引き攣った傷に薬を塗り、清潔なガーゼを当てて包帯で固定していく様子を見ていた。
「もう少しすれば抜糸できるが、抜糸の後も傷が強くなるまでは今まで通り薬剤の塗布と保護が必要だ。気を抜くなよ」
「うん。ありがとう、サリア」
「ああ。骨の方は……今は免疫系の細胞の活動と血流量が増加している関係で腫れと痛みがあるだろうが、これは炎症期といって……つまり、お前の体が正常に機能している証拠でもある。手のひらの切創と同じだな」
組織や骨の破片、内出血した血液を免疫系の細胞が掃除しているのだと付け加えて、サリアは救急箱を仕舞うために立ち上がった。
背中を覆う長い灰がかった銀の髪が、淡い光に染まって白く見える。そういえば、骨って本当に白いんだろうか。
「ヒビの入った骨は徐々に新しい骨に置き換わっていく。仮骨というカルシウムも含まず安定性もない軟らかい未熟な骨だ。それが時間をかけて強くなり、本来の機能を取り戻す」
サリアは時々、難しいことを言う。それはもしかしたら世間話のつもりなのかもしれないけど、堅苦しくてまるで授業を受けているみたいな気分になった。
きっとサリア自身もそれに気付いているから、言葉の途中ではっとして眉間に皺を刻んだりするんだろうけど。
「へぇ……つよいんだね、人間って」
「……ああ、そうだな」
どう返そうか迷って、結局、そんなことしか言えなかった。けど、振り向いたサリアは頭の悪そうなわたしの感想を馬鹿にせずに穏やかに笑みを浮かべた。
光が照らし出すサリアは、とても美しいものに見えて眩しい。
長い腕が躊躇いがちに伸びて、髪をかき混ぜる。わたしを見つめる眦の緩みが、ただ温かかった。
目を閉じると、ささやかで満ち足りていた暮らしを思い出す。
けして贅沢は出来なかったけど、そんなことに苦を感じないほど愛おしい日々だった。
今でもそこにあるような、手を伸ばしたら届きそうな気がするけど、目を開けたら幻みたいに消えていく。
サリアのそばは、幸福だから苦しい。
きらきら、一等星でも撒いたように見える笑顔を見上げた。
本当はあの日、死にかけていたんじゃない。そう言ったら、このひとはどんな顔をするだろう。わたしがただの被害者じゃないと知ったら。
わたしに触れる手を握ることも突き放すこともできないくせに、サリアのやさしさだけ享受するわたしは、とてもずるくて汚いもののように思えた。
◆
手のひらの糸を引き抜かれたのはそれから少し後のことだった。
数週間後には骨も元通りになって、今日は機能回復を兼ねて軽い任務についていた。
交戦予定のない、本当にごく簡単なもの。念の為とサリアも同行したために難易度は格段に落ちたお使い程度の任務だ。
何気にサリアとの任務は初めてだった。
サリアは厳しいからちゃんとしないと、なんて気合を入れて明朝、ロドスを発った。
――それがこんなことになるなんて、一体、誰が予想出来ただろう。
目の前に立ち並ぶ暴徒。違う、レユニオンだ。
大量のレユニオンの渦に、わたし達は飲み込まれていた。
対話さえままならず襲いかかってきたその大群は、自我を持たない何かのようで、知性体と呼べるのかもわからない有様だった。
まるで、あの夜みたいだ。
「名前、前に出るな!」
サリアの指示通りの配置についたはずなのに、気付けばわたしはずっと前へ踊り出していた。
背後でサリアの声が聞こえた気がした。咆哮のような叫びと剣戟にまぎれてわからない。全然わからない。どうしてこんな状況になっているのかも、なにも。
視界が真っ赤になったまま、呼吸の荒さも戻らない。激情が、わたしを烈しく駆り立てていた。
前に出ちゃ駄目なんだっけ。無茶苦茶なやり方もよくないって言われたのに、いつもより頭ん中がぐちゃぐちゃで思考が立ちいかない。
「私から離れるな……ッ」
血で濡れた草の上を滑り駆ける。敵と見ればすぐさま飛びかかった。まるでけだもののような、ひどく醜い動きだった。
焦げた草木と撒き散らされた臓物の臭いで馬鹿になった鼻を、火の粉が掠めていく。服の裾が焼け落ちていく。落ちかけた夕陽のかわりに戦火がわたしを照らす。翻った髪からは生あたたかい血が滴った。
「戻れ! 名前!」
声の方で敵が吹き飛んだ。轟々と唸りをあげて降り注ぐ矢の雨の隙間から、サリアがわたしを呼び戻す声が、今度は確かに聞こえた。
煮え滾る脳から、少しだけ熱が引く感覚がする。
止まりたい。
絶叫するように関節がギシギシと鳴った。涙腺が情けなく震えるのに涙なんか出ない。嗚咽のかわりに喉が破けそうなくらい吠えた。
一撃が重い。受け止めた鉄塊に耐えきれず、骨が悲鳴をあげる。鳩尾に入った拳に、臓器が無理だと根をあげる。アーツで施した自己強化もまるで意味がなかった。
棺桶に片足を突っ込むどころじゃない。半身を沈められているようだ。
強かに蹴りあげられた腰骨を中心に体が勢いよく折り曲がった。地面に顔を擦り付けたせいで口の中に土が入り込む。
苦しい。呼吸もままならなくて体が軋む。あんなに痛みを受けて、こんなに血反吐を撒き散らして、たくさん殺して、それでも止まれない。
バクバクと、体内に響くような鼓動が耳のすぐそばで聞こえていた。
構わず体勢を立て直して、助走と共に無理やりに首を刎ね飛ばしたら、ぬめった血脂のせいで武器まで明後日の方に飛んで行った。
敵は待ってくれるはずもなく、今度は横から振り下ろされた刃を手のひらで受け止める。
「――あ」
はっとしたのもつかの間、正気を引き裂くように押し込まれて皮膚も血管も肉も圧し切られていく。
ぶちぶちと嫌な音が鼓膜を穿った。
痛いなんて次元じゃない。毛穴という毛穴から脂汗が滲む。濁った呻きが溢れる。せっかく閉じた傷痕も押し開かれてぱっくりと中身を晒していた。
「こ、の……ッ!」
ぽたぽたと重力に従って血が流れ落ちる。
サリアが注いでくれたやさしさだとかいつくしみだとかを一緒に垂れ流しているような気分だった。掻き集めることもできなくて、ぼろぼろ、血溜まりに沈んでいく。
渾身の膝蹴りをぶち込んで、体がブレた隙にナイフを拾い上げた。腕が痺れている。もう殆ど力が入らなくて、がむしゃらに頸動脈を掻っ切った。
敵が地に伏すと同時に、脚から急速に力が抜けてわたしも地面に崩れ落ちる。
身体は立ち上がろうとするけど、押し寄せる鉛のような疲労感には勝てずに次第に背筋が丸くなっていった。それと同時に思考が自由を取り戻していく。動くことが出来なくなったからだろうか。
手に残る感触が気持ち悪くてたまらず嘔吐いた。
こびりついて取れない人殺しの感触に、固く握り締めていた手が緩んで武器が転がっていく。
「はっ……ゲホッ……はぁ、ッ……!」
吐瀉物を血溜まりに吐き出すと、肺からひしゃげた息が漏れる。真っ赤だった視界は真っ暗だ。
「名前ッ!」
喧騒を割って耳を劈くような叫びが響き渡った。サリアのこんなに必死な声、初めて聞いた気がする。
顔を上げれば、崩れ落ちたわたしの眼前に敵影が迫っていた。澱んで血走った目がわたしを捉えている。
どれだけ殺せば良いんだろう。もう、こんなに疲れてるのに。うんざりするくらいしんどくてたまらない。
溜め息を吐いても獲物の鈍い煌めきは近付くばかりだ。闇を払うかのように瞳を照らし出されて視界が明滅する。
感覚があるんだか無いんだか、痛みも感じないけどそれでも手はまだ動いた。使えるものは何でも転がっている。死体でも、武器でも、わたしでも。
はやく手を伸ばさなきゃ間に合わない。
背骨を這いずる冷たいものが、死を予感していた。
わかってる。
「……あ、れ」
わかっているのに、どうしても手が伸びなかった。
そうこうしているうちにも、大きな影に飲み込まれていく。広がる暗闇はぱっくりと口を開けた虚みたいだ。
ぼやっと座り込んだままのわたしの髪に、耳に、頬に、死の気配が近付く。
……違う。それはずっとわたしの近くにいた。あの日からずっと、わたしがこころに飼っていたものだ。
両親を殺され、ひとり生き残って、彷徨って疲れ果てて、死に場所を探したあの夜から燻っていたものだ。
胸底から膿んだ何かがどろりと垂れ流れてくる。憎しみなのか悲しみなのか怒りなのか、自分のものなのに判別すらつかなくなった感情が糸を引いて、綻びから溢れ出てくる。
或いは、それがわたしを駆り立てていた激情の正体なのかもしれなかった。
鼓膜を破るような叫び声はもうすぐそこだ。
あれだけ勝手に動いたくせに指先は宙すら掻かない。その理由も、もうわかっていた。
――じゃあ、これでいいのかな。
見上げた先、凶器を振りかぶる動きがスローモーションに見える。髪の先がはらはらと舞い上がった。
――どうせ一度捨てようとしたんだから、このまま、死んじゃっても。
地鳴りのような轟音と共に砂埃が肌を強く叩く。もう目も開けていられなかった。
その瞬間、サリアの横顔がまなうらに滲んだ。
星屑を纏ったみたいにきらきらして見えた姿が網膜に焼き付いている。わたしの糸を引き抜いて、傷跡を祈るように包み込んだ、あたたかい指の熱を思い出す。
引き戻されるように、手が、僅かに動いたような気がした。
……ああでも、もう遅いや。
風を切る音がした。寸断されるように、思考はそこで途切れる。
けれど、想像していたような痛みはいくら待ってもやって来ない。三秒、五秒、十秒経っても、訪れなかった。
「 ……………………え?」
そのかわりに柔らかな熱に包まれて、思わず間抜けな声が出る。
何が起こっているのかわからない。
でも、それがサリアの体温だと気付くのに時間はかからなかった。
抱きしめる力の強さも、しなやかな体の感触も、すべてがサリアだ と告げている。感覚器官が働いていないのか、肌感覚が鈍くなっていたのにそれだけははっきりと感じ取れてしまう。
慣れたくないなんて言いながら、わたしの体はもう誤魔化しようのないほどサリアの体温に慣れきっていたのだ。
「…… 名前」
声に導かれるように目を開けると、ぼやけた視界いっぱいにサリアの姿が映った。
わたしを襲ったレユニオンはもちろん、あれだけいた敵はきれいに一掃されている。
「サリ、ア……」
名前を呼ぶと、返り血に塗れてドロドロで、それでも凛々しいサリアの目元が一瞬だけくしゃりと歪む。頬を、かさついた親指が確かめるようになぞった。ぎゅうっと、わたしの体を抱く腕に力が入る。
「帰るぞ」
数秒? いや、数分? わからないけど、抱きしめ続けた後に、怒るでも責めるでもなく、サリアが口にしたのはその一言だけだった。
手早く止血をしてから、軽々と抱え上げられる。
いつぞやと同じように、もたれ掛かったサリアの胸からは拍動が伝わってくる。あのときより速くて荒いような心音が聞こえる。
いつだったかサリアが教えてくれた。ここには血を巡らせ、酸素を運び、脳を動かす生命の奔流が埋まっているんだって。
ヒトの生の象徴の音。彼女は聴診器越しのわたしのその音に、穏やかに笑っていた。
肉と骨を隔てたその先で、サリアの心臓は確かに脈打っていた。
目を閉じて深く息をすると、わたしの心臓もまた同じように鼓動しているのがわかる。
――生きてる。
そう感じてはじめて、わたしは口の中いっぱいに広がる、鉄錆のような血液の味を認識したのだった。
ロドスへ帰還後、わたしはすぐに医務室に放り込まれた。
サリアに内臓や骨、神経への被害がないかをとことん確かめられ、現在は外傷の治療を受けている。
もうすっかり夜も深い。わたし達がロドスを出たのは朝のことだ。疲労が溜まっているだろうに、サリアは嫌な顔ひとつせず、開いた手のひらを閉じていく。
節くれだった指先が器用に肌を縫い合わせる様子をじっと見つめていた。麻酔をかけられているから痛みは感じないけど、不思議な感覚が皮膚を奔る。
どうしてサリアはこんなことが出来るんだろう。
わたしの、それも他人の傷口に触れて、直視するのも躊躇われるような抉れた肌から目を逸らさずに治そうとするんだろう。血で汚れることもいとわず、文句ひとつこぼさずに。
引き結ばれた唇に無言で問いかけたところで答えなんか返ってこない。
サリアは何も言わなかった。帰還する道中も、帰還してからも。
怒って口もききたくないのかと考えたけど、そんなひとじゃないことはもう知っている。
ただ、ずっと何かを考えているようだった。
「名前」
丁寧に最後のひと針を縫込み、傷口を保護した後のことだった。
不意に、サリアがわたしを呼んだ。
たった数時間、口をきかなかっただけなのに、ずいぶん久しぶりに声を聞いたような感覚がして、弾かれたように顔を上げる。
視線が交わる。でも、サリアの口から言葉は出ない。
「……サリア?」
はくはくと、薄い吐息だけが漏れる。珍しいことに、言葉を探しているようだった。
少し待ったあとに声をかけると、サリアは応えるように少しだけ目じりを柔らかくする。
そして一呼吸置いてから、大きな手が意を決したようにわたしの手を慎重に覆った。
「私はお前を諦めない」
それはとてもシンプルで、だからこそ力強い響きだった。
遮るものが何もないから、真っ直ぐな視線に射抜かれる。
呆気に取られてどういうことと聞き返すことも出来ない。固まったわたしに構うことなく、サリアは二の矢を放った。
「だからもう、死にたがるな」
言葉の意味を理解するより先に、息が止まった。
本当に矢を射られたかのような痛みが、胸を抉り抜いていく感覚だけははっきりと感じる。
数十秒してようやく我に返っても、頭の中が真っ白だ。
何も言えなくて静寂が横たわる。わたしの浅い呼吸音だけがやけに耳についた。
左胸が痛くて声も出ない。でも、本当に痛いのは、きっとこんなことを言わなければいけないサリアの方だった。
長く豊かな睫毛の先っぽが瞬く。絡んだ光の陰影で泣いているように見えた。
目を逸らしたいのに、サリアを見上げたまま瞬きも出来ずにいる。
サリアもまた、同じようにわたしを見つめている。出会った時から変わらない、悲しいくらいやさしい眼差しだった。
サリアは、最初から気づいていたんだ。
わたしの汚くて、ずるくて、甘ったれた部分を知っていた。
「…………わかってたなら、どうしてわたしを助けたの」
長い沈黙を経て、ようやく絞り出せたのはそれだけだった。
声が掠れる。震えていたのかもしれないけど、よくわからない。
ひどい台詞だった。サリアにそんなことを言える資格なんて、わたしには無い。こんなふうに責め立てるような権利なんか無い。
最期なんてわかりきっている感染者であっても、世界の不条理を知っていても、生きている幸福が苦しいからと手放そうとする愚かさを棚に上げて、よくもこんなこと。
母さんや父さんの、さんざん殺したひとたちの命も背負えないどころか、わたしは自分の命だって背負えない。
ずるい。汚い。どこまで最低なんだろう。自分が心底、嫌になる。でも、いくら自分を嫌っても、世界を呪っても、死んだひとは生き返ってはこない。突き立てた言葉だって、もう喉の奥には戻せない。
「あの夜、お前は私の手を掴んだ」
サリアはもう言葉を探したりしなかった。
その、迷いも淀みもない言葉に、凄まじい衝撃がはしる。頭の中から弾けるような。まるで目いっぱいの力で殴られたような感覚がして、目の前が眩んだ。
「意識も混濁して、ひどく衰弱していた。助かる見込みなどほぼなかった。だが、お前は確かに、私の手を掴んだんだ。……だからこそ、私はお前を必ず救うと決めた。たとえお前が自分自身を諦めていてもそれは変わらない」
サリアはわたしの苦しみを否定しなかった。
生きている幸福を説くわけでも、ちっぽけな苦しみを蔑むでも、お前は地獄を知らないと窘めるでもなく、わたしを諦めないと、ただそれだけを口にする。
脱力した。
なに。なんだ、それ。
だって、死にたくて、死に場所を探していたはずなのに。
わたしは、生きたくてサリアの手を掴んだって言うの?
形にならない言葉が頭の中を回る。
だからその問いに答えたのは、サリアじゃなかった。
わたしだ。わたしの内側が、声をあげていた。
鉱石に侵されても肺は膨らむし、病で汚れた血でも全身に巡る。腫れて熱を持つ傷口は、傷付いた身体を治そうとする証左だ。疲れて、もう苦しくて、それでも、心臓は鼓動をやめない。
そのすべてで張り裂けそうなほど叫ぶ。
多分、ずっと叫んでいた。わたしが蓋をしていただけで、あの夜も、今日も、いつも。
生きたい。
それでも、生きることをやめられないと。
「……っ」
目の奥が 、つんと痛い。熱い膜に覆われて、サリアの輪郭が揺らいでぼやけていく。押し込めた息が熱い。
崩れる視界が、わたしの手を包む大きな手の、血の通った肌の赤みを捉えた。関節の窪みがつくる皺。浮き出た血管の凹凸。それらを呆然と見ていた。
ずっとそばにいたのに知らなかった。意外と爪が大きいことも、人差し指より中指が長いことも、見つめた虹彩の模様も。きっと、見ようともしていなかった。
堪えきれずに決壊した膜が溢れて涙になる。大粒の雫が頬を伝った。ぽろぽろ顎の先から流れて、サリアの手の甲に落ちていく。
煩わしくて拭おうとしたら、それより先にサリアの指が目尻に触れた。
温かい手だった。
あの日も、今日も、死にたくて、そのくせ生きたくて、どうしようもなくて、わたしを殺そうとするわたしから、守ってくれた手だった。
だから、もしかしたら、なんて今更のように考える。
裂けた傷口を縫い合わせるように、サリアはずっと、わたしのこころの綻びを塞ごうとしていたのかもしれないって。
「…………ごめん、ごめんなさい。ひどいこと言って、ごめんなさい」
皮膚と皮膚を通して、サリアの熱が滲んでいく。ゆっくりと、少しずつわたしの肌に馴染んでいく。
「サリア」
血管から血液と共に胸の奥に入り込んで、胸に詰まった痛みを溶かしていくようだった。
熱が穴ぼこだらけの腫れた心を埋めて、やさしく包んでくれる。覆われたままの右手の肌をいつもみたいに緩やかに撫でられて、生々しい肉と骨の感触が少しずつ剥がれていく。
サリアがわたしに触れる理由なんてわからないと思っていたけど違った。苦しさばっかり抱えて、気付こうともしなかったんだ。
「わたしを救ってくれて、ありがとう」
もっと、色んな言葉が胸を駆けるけど、言葉にできたのはそれだけだった。
ずっと涙も出なかったのが嘘みたいにこみ上げて止まらない。抑えようとしても嗚咽がこぼれて声が形を保てなくなる。
受け止めるだけだった手を、初めて引いた。
恐る恐る握り締めたらサリアは息を飲んで、それからわたしを胸に抱き込んだ。
「……やっと泣いてくれたな」
吐息が耳朶を擽る。笑っているんだとすぐにわかった。馬鹿にしているんじゃなく、慈しむように目尻を下げた表情が、涙で溢れかえった目蓋の裏に浮かぶ。
背中を撫でられて、もう嗚咽を抑えることもせずにしゃくりあげて泣いた。
「サリ、ア」
「ああ」
「っ……サリア」
「ここに居る」
サリア、サリア。縋るように何度も呼んで、その度にサリアは応えてくれた。声で、体で、そのすべてで。
鼻を啜って、声をあげて、きれいな泣き方なんて出来ない。
それでもやっぱりサリアは嫌な顔なんてしなかった。わたしが泣き疲れて眠るまで、ずっと、抱き締めてくれたのだった。
◆
淡い光に照らされて目が覚める。
開いた目蓋はすっきりと軽い。唇に触れる風は心地よい冷たさだ。ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込めば、すぐさま脳が覚醒していく。
ゆっくり息を吸って、深く吐いた。今日も穏やかで、平和な朝だ。
見上げた天井に揺蕩う朝日を眺めてから、わたしはベッドを抜け出した。
冷水から顔をあげて、保湿をする。それから歯磨きをして、髪を丁寧に梳いていく。後ろでひとつにまとめて、パジャマからいつもの制服に。上からエプロンを掛ければ準備は万端だ。
ちらりと時計を確認すれば、針は五時五十分の場所。時間は十分にある。
「……よし!」
わたしはキッチンに立ち、意気込み十分に袖を捲り上げた。
テーブルに最後のひと皿を置いた頃には、すっかり部屋全体が昇ってきた太陽に温められていた。
窓の外は雲ひとつない快晴だ。
ひと息つきたくなるのをぐっと堪え、流しに溜めた調理器具を手早く洗った。
「ん……いい感じかな」
エプロンを脱ぐと達成感が湧き上がってくる。
時計は七時前を指していて、時間内に後片付けまでこなせたことに鼻唄でも歌い出したくなる気分だった。
改めてテーブルを見返して、並んだ料理の出来栄えに頬が緩む。
野菜とキノコのキッシュ風、クラウムチャウダーに、獣肉のハムを添えたサラダ。
簡単なものばかりだけど、悪くは無い。
パンをくり抜いて具を詰めるだけでキッシュになる。シチューを リメイクすればクラムチャウダーにだってなるのだ。
両親の見よう見まねで記憶を辿りながらの調理だったけど、我ながら良く出来た。
まだまだ手際が悪いけど、それでも最初に比べるとずいぶん成長している。
……多分。そのはず。少なくとも、手が絆創膏だらけになることはもうなくなっている。
鼻先を良いにおいが擽っていく。くう、とお腹が待ちきれないと鳴る。
あと少しだけ我慢と、腹の虫を宥めながら花瓶の水をかえて、お揃いのコップにミルクを注ぎ終わったところで、時刻は六時五十八分。そろそろだ。
秒針の音に心臓がドキドキ疼く。指の先が少しの緊張でぴりっと痛む。
今日のご飯は気に入ってくれるかな。美味しいって笑ってくれるといいなあ。不味いとか、気に入らないとか、言われたことはないんだけど。でもやっぱり毎回そんなことを考えずにはいられない。
そうして七時きっかり、扉をノックする音が聞こえて、わたしは弾かれたように駆け出した。
前髪をささっと整えて、はやる胸をおさえながら扉を開ける。眩い光が入り込んで、くらりと目眩がした。陽だまりと柔らかな石鹸のにおいがする。世界が一気に鮮やかな色を付ける。
太陽を背にしたそのひとの手を、わたしはそっと取って部屋の中へと引いていく。
「おはよう、サリア」
見上げたサリアが笑う。嬉しそうにわたしの頬を撫でていく。
「おはよう、名前」
ぎこちなくて、拙くて、やさしくて、やっぱりその手はわたしを撫でるには不器用すぎていとおしい。
「よく眠れたようだな」
「ふふ、くすぐったいよ、サリア。ほら、はやく食べよう。わたし、お腹すいちゃった」
「ああ、今日も美味しそうだ。冷めないうちに頂くとしよう」
向かい合って座り、わたし達は声を合わせていただきますと手を重ねた。
あの一件以来、色んな変化があった。そのうちのひとつが、朝食だ。
埃をかぶった簡易キッチンをぴかぴかに掃除して、料理の練習を始めて、わたしの部屋で朝食を食べるようになった。
きっかけは、小さな頃の記憶だった。小さなわたしが、母さんと父さんのご飯はどうしてこんなに美味しいのって聞いたときのことを思い出したのだ。
母さんは嫋やかに微笑んで、わたしの額にいとおしそうに口付けた。父さんは照れくさそうに頬を掻いてはにかんでいたっけ。
そうして、二人は答えのかわりに、とっておきの魔法を教えるようにして囁いたのだ。
素敵なひとを見つけたら、まずは胃袋を掴みなさいって。
その時は結局、言葉の意味も、どうして二人のご飯が美味しいのかもよくわからなかった。
けれど、今なら何となく、意味がわかるような気がする。
だから例え、サリアが責任感の延長でわたしに付き合っているのだとしても、その機会を逃したくないと思ったのだ。
「キッシュの生地は豆パンをくり抜いているのか」
「うん。くり抜いたパンの中身はラスクにしたから、おやつに食べようね。あ、そっちのクラムチャウダーはシチューのリメイクだよ」
「……上手になったな。どれも美味しい」
目を細めるサリアの姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
サリアが美味しそうにご飯を食べてくれる姿を眺めていると嬉しくなる。ずっと見ていたくなって、そうしたらサリアも同じようにわたしを見ているから、目が合って二人して笑った。
「ね、サリア、明日は何が食べたい?今日、街に出るから材料買ってこようと思って」
「私は名前が作る物なら……いや、私も街に行こう。その間に考えておく」
「いいの?ありがとう、サリア」
そういえば、母さんと父さんとも、よくこんなやり取りをしていた。
お金持ちじゃないけど、食材だけはケチっちゃいけないと食べたいものは何だって作ってくれた。食べることは、生きることだから、と。
懐かしい声が耳元で弾けた。
今のわたしとサリアみたいな、楽しげな笑い声が撫でるように肌を滑って、風と一緒に窓の外へと流れていく。
「…………」
「どうかしたのか」
外を眺めたわたしを、サリアが不思議そうに見ている。
「……ううん。幸せだなあって思っただけ!」
「…………ああ、そうだな」
噛み締めるように呟くと、サリアは少し目を丸くして、それから、とびきり綺麗に微笑んだ。それはもう、世界中のどんな綺麗なものも霞んでしまうほど、素敵な笑顔で。
サリアのそばは一等あたたかくて幸福で、どうしてもわたしに昔のことを思い出させる。
苦しさや痛みは、やっぱり消えることは無い。まだ胸の奥に燻って、不意にわたしの中を埋め尽くそうとする。熱を持ってズキズキと腫れる傷口は、柔らかく濡れたままだ。
けれど、どれだけ痛んでも、辛くても、傷はいつか傷跡になるって、サリアが教えてくれたから。寂しいくらいに人は強いってことを、わたしはもう知っている。
穴ぼこだらけの心を抱えて、それでも生きてる。わたしは、サリアのそばで生きたいと思う。
サリアが継ぎ接いでくれたわたしを、わたしは愛している。
back/
top