良い事なんかなんにもなかったけれど、貴方だけはって思えた

 任務の帰りにみんなとはぐれてしまった。幸い、はぐれた地点が都市近郊だったから徒歩でも街中に移動できたけれど、連絡手段がないことに気付いたのが三十分ほど前のこと。
 心細さはないけれど、どうしたものかと立ち竦んでいた。
 陽はすっかり落ちてもう夜だ。あたりは色とりどりの光に照らされている。
 戻ろうかと考えたけれど、荒野同然の場所だ。犬や虫が寄ってくることは想像に難くない。
 私は夜目がきく方じゃない。耳もあまりよくない。アーツの扱いもまだまだ。下手をすれば私が吹っ飛んでしまうからひとりでは絶対に交戦するなと厳命されている。鼻は血と硝煙のにおいで馬鹿になってるし、そもそも私の脚では後を追うこともできそうになかった。

「怒られるかなあ……」

 はぐれないようにと手を握ってくれたシージの温かい肌の感触を思い出す。今頃どうしてるかな。
 手を離すなって言われていたのにこの有り様だから、もしかしたらみんな怒るより呆れているかもしれない。

「どうしよう」

 ひとりなんて本当に久しぶりだ。昔はずっとひとりだったのに。いつの間にか誰かと一緒にいることが当たり前になっていたから、落ち着かないような気持ちになる。
 シージは私がひとりで外に出ることを許してくれない。というより、私が外に出ること自体が好きじゃないみたいだった。
 スラムにいたころは石を投げられたりしていたからわかるけれど、ロドスに移ってからもそれは変わらなくて、扉の前に立つだけで長い尻尾を私に巻きつけてはベッドに強制連行するのだ。
 シージはとにかくよく寝るから、そのまま抱き枕にされることもしばしば。一日抱き枕にされるのは嫌いじゃないけれど、どうせならもっと抱き心地の良い抱き枕を買った方が良いと言ったら変な顔をしていた。病気がうつるとも言ったけれど、いまだに私は抱き枕だ。
 だから、本当は私が任務についていくことも嫌なんだと思う。
 ロドスに移るより前、私が拾われて間もないころ、シージ達がアジトを留守にしていたときに襲われたことがあった。それ以来、何処に行くにも私を連れて行ってくれるようになったけれど、やっぱり今でもあまり良い顔はしない。
 そりゃそうだ。だって連れて行ってもあまり戦力にならないし、何より私は感染者だから。
 差別がつらいと思ったことはないのにな。石を投げられても、私もいずれ石になる体だ。同じだねって笑ったら、シージは少し怒ったような顔をしていたけれど。

「…………でも、言いつけ守れなかったし、また留守番になっちゃうかなあ」

 喧騒に紛れて独り言を呟いても誰も気に留めない。まあ、こんな時間に徘徊する血塗れでぼろぼろの生き物なんて、いくら子どもだろうと普通なら関わり合いたくないだろう。
 ちらりとこちらを一瞥して、人々は私なんていないようにどこかへ流れていく。
 見慣れない街を見回せば、淡い闇が手招くように煌めいていた。夜の街は昼に通ったときとはまったく違う顔をしている。
 どうしようかな。このまま此処に突っ立っていても仕方ないし、街を見て回ろうかな。任務終わりで少し疲れているけれど、こんな機会もうないかもしれない。
 よし、そうと決まれば探索だ。くるり、と踵をかえす。胸の弾みが導くまま、ネオンが輝く街の隙間を泳ぐように歩みを進めた。


 
 宝石のように磨かれたガラス、整列するマネキン、入り組んだ迷路のような街並み、よく手入れされた街路樹、そのどれもが私の目には真新しく映った。等間隔に並ぶ白い街灯の光も、きれいに整備された道も、私の故郷とは全然違う。
 けれど、やっぱりどこの街もそんなに大差は無いのだ。
 褪せた看板を掲げる露店の立ち並ぶ小径を抜けた先に広がっていたのは、スラムとは違うけれど似たような景色だった。
 人間も物も関係なく、街の汚いものをすべて詰め込んだようなゴミ溜め。ひどいにおいがつんと鼻の奥を刺す。退化した嗅覚でもわかるような腐敗臭はどこか懐かしくて、私は引き寄せられるように近くの物陰に座り込んだ。
 額から垂れてくる血を拭って空を見上げた。ぬるい風が頬を撫でる。まだ肉片がついてるような感覚がして、手の甲でぐいっと擦った。
 息を吐いて遠くの極彩色を何とはなしに眺める。どうしてか、街の中から見たときよりずっときれいに見えた。
 はぐれてからどれくらい時間が経ったのだろう。さっきまで元気だったのに、座り込んだら体が重くなってきた。足が痛くて膝を抱える。シージに拾われる前に戻ったみたいだった。

「…………シージ、見つけてくれるかな」

 探索前のわくわくはどこかに消えてしまったみたいに、胸の中が静かだ。

「……私のこと、迎えに来てくれるかな」

 でも、このまま捨てられても、それはそれで良いと思う自分もいた。そんなことシージは絶対にしないけれど。
 頑張って記憶を辿ってみてもどこをどう通ってきたのかわからない。ふらふら彷徨っていただけだから、道もよく覚えていない。
 馬鹿だなあって、私の髪を鳥の巣みたいにしながら笑うインドラの声と、シージの慈しむような眼差しを思い出して目を瞑った。
 なんだかねむいかも。
 ちょっとだけここで休んでしまおう。起きたらどうにかして街に戻らなきゃ。入り口まで辿り着ければ元の場所には戻れるから大丈夫。そう、きっと大丈夫。
 唱えるように繰り返して、薄汚れた壁に寄りかかる。疲れていたのか、意識がすぐにほどけていくのがわかった。

「…………シージ」

 睡魔に身を委ねる間際、ふと気付く。
 答えてくれる声はない。髪を梳く指先も、ぎゅうっと抱きしめて離さない腕も、ぐるぐるに巻かれる尻尾も、ここにはない。
 いつのまにか、すっかりやさしさに慣れてしまっていた。ここも昔みたいで悪くないけれど、シージの柔らかくてあたたかい腕の中のほうがずっといいなんて、寂しくなってしまう。



「…………ん……」

 瞼を押し開くと、見慣れた天井が目に入る。昼下がりの蜂蜜色の太陽が眩しい。
 あれ、と思って視線をずらすとそこはロドスの、シージと私に宛がわれた部屋だった。

「……なんで……」

 陽だまりと石鹸の匂いが鼻先を擽った。血と砂埃に汚れていた服は清潔な服に着替えさせられていて、怪我の手当もされている。
 ゴミ溜めにいたはずなのに、と身体を起こすとかけられていた布がずり落ちた。よく見るとシージの上着だ。すん、と匂いを嗅ぐと少し甘くて良い匂いがした。うん、間違いなくシージのもの。
 でも、肝心のシージの姿はどこにもない。
 意識がまだふわふわしている。もしかしたら夢かもしれない。実は私の体はまだ眠っていて、あのゴミ溜めに埋もれたまま、ロドスに、シージの元に帰った夢を見ているとか。
 不思議。どこかに、誰かの元に帰る夢なんて初めてだ。
 数十分ほどぼんやりベッドの上で窓の外を眺めていたら、とつぜん部屋の扉が開いた。足音が聞こえなかったからびっくりして肩が跳ねる。扉の方を見て更にびっくりした。なんとシージが立っていたのだ。
 一番望んだものの登場に心臓がばくんと大きな音を立てた。夢ってこんなに都合が良いものだっけ。

「……起きたのか」

 目が合うと、シージは瞳を二、三度瞬かせた。私と同じなのに、私よりずっときれいな琥珀色。太陽の光をのんだ双眸がきらきらと眩しい。
 静かに扉を閉めると、シージは私の傍へと腰掛けた。
 ベッドの軋みも、シージの息遣いも、なんだか本当に本物みたいで、益々不思議な気分だった。

「体はどうだ。まだ痛むところはないか。一応、医療オペレーターには診せて処置は済ませてあるが、異常があれば…………おい、聞いているのか」

 大きな手のひらが私の髪を、頬を撫でる。確かめるように触れていく指先が擽ったくて身を捩ると尻尾が絡みついてきた。
 むずがっているとぎゅむ、と頬を掴んで顔を覗き込まれる。

「えと……夢、だよね……?」

 夢の中のひとに夢かって聞いてどうするんだろう。でも、伝わってくる体温がとてもあたたかくて、そう尋ねずにはいられなかった。
 ぴたりとシージの動きが止まる。次いではあ、と大きな溜め息が睫毛を掠めた。甘酸っぱい、ロリポップの匂い。

「まだ寝ぼけているのか?現実だ。スラムもどきで寝こけていた貴様を連れて帰ってきた」
「え……夢じゃない……?」
「そうだと言っただろう」
「…………迎えに来てくれたの? 私を? あんなところまで?」
「当然のことを聞くな。私が貴様を迎えに行かないとでも思ったのか」
「そっか……見つけてくれたんだ」

 あの日みたいに、ゴミの中で眠っていた私を。
 ぱちぱちと目を瞬かせた。夢じゃなくて良かったとこぼすと、シージは呆れた表情をしながらも、頬を掴んでいた手を離してそのまま私を抱き寄せた。
 シージのおおきな体にすっぽり包まれるとなんだか安心する。夢なんかじゃないというような力強い抱擁に、帰ってきたんだという実感が沸いてくる。
 打ち捨てられても、それはそれで良いなんて思っていたのに私は現金な人間だ。

「ありがとう、シージ」
「……まったく、貴様は本当に手がかかる」

 嬉しくて胸に顔を埋めて抱きしめ返す。私の短い腕じゃシージを包めないけれど、それでもシージはやさしく私の背中を撫でてくれた。

「……名前、額の傷はどこでつけた。作戦中ではないだろう」
「これ? いつものやつ。あ、大丈夫だよ、痛くないから」

 シージはよく見ている。たしかに作戦中の傷ではなく、街を探索していたときにできたものだ。
 安心させようと笑ってみても、シージは苦い顔をする。そうして何も言わずにガーゼ越しの傷にそっと唇を押し当てた。硬い石の感触を忘れさせようとしているのかな。
 明るい瞳が揺れて翳る。押し黙ったシージの顔をいくら見つめても感情を推し量れない。

「……ねえ、シージ、おこってる?」

 尋ねると目元がくしゃりと歪む。腕の力が強くなる。少し息が苦しいけれど、シージの方がもっと苦しそうだった。

「怒ってなどいない。だが、肝が冷えた」

 どうしてそんな顔をするのだろう。よくわからない。でもたぶん、シージがやさしいからなんだろうな、とは思う。

「…………もう二度と私の手を離すな」

 それは命令というより、祈るような言葉だった。シージらしくもない弱ったような声だった。
 こんなとき、どうしたら良いのかわからない。
 いつか来るお別れを振り払いたがるような、未来を望むような言葉。
 私にはどうしたって叶えてあげられない約束をさせようとするシージに、なんて言ったら良いんだろう。
 悩んだ末、私はおそるおそる、自分の尻尾をシージの尻尾に絡めた。祈りにはこたえられないから、せめて触れるだけで許してほしい。
 シージと同じ、アスランの尻尾。私のは少し不恰好だから普段は隠しているけれど、シージは私の尾を見ても笑ったりしないから。
 ここにいると巻きつけた私の千切れた尾の先に、シージの尾のふさふさの部分がそっと触れる。怯えているみたいだ。
 つよく、つよく抱きしめると、ようやくシージの口元がふっと、柔らかく弧を描く。眉を下げたその表情はやれやれと言いたげだ。

「今度から外出時には貴様の首に首輪でもつけてリードで繋ごうかと思っていたが……やめておこう」
「えっ……いまそんなこと考えてたの?」

 にやりと意地の悪い笑みが浮かぶ。首筋に触れる指先に身を震わせると「うむ」といつものシージの声が聞こえた。
 首輪にリードなんてペットみたい。私なんて飼ってもいいことないのにな。
 シージは変だ。ずっと昔からそうだった。そう遠くないうちに石ころになる私なんかを拾って、抱き枕にして置いておくなんて。
 ふふ、と笑って頬を擦り付ける。

「シージなら、いいよ。私が死ぬまですきにしていいよ。だって私、シージに拾われたんだから」
「ほう……ずいぶん生意気なことを言うようになったな」
「わっ」

 ふん、と鼻を鳴らして、シージが私を抱いたままベッドに転がった。タオルケットを手繰り寄せて、隙間なくぴったりくっついて髪を梳いてくれる。
 いつもの抱き枕モードだ。

「シージ、寝るの?」
「……貴様のせいで睡眠不足だ。今日は嫌だと言っても離さんぞ」

 たしかに、よく見ると目の下にうっすら隈ができている。私が眠っている間、もしかしたらシージは眠れなかったのだろうか。

「嫌だなんて言わないよ」

 答えると、シージは穏やかに笑った。眦の淡い緩みが春の日差しみたいにやさしい。
 私に触れる手つきはもっとやさしくて涙がこぼれそうになるから、誤魔化すように瞼を閉じた。
 シージといると愛とかそういうものを信じたくなる。世界はきれいだって思える。生まれてきたことを呪わずにいられる。
 だからシージにはとびきりしあわせになってほしい。私なんかを大切にしないでほしい。いつか、その時がきたらちゃんと捨ててほしい。

「……シージ、私が石になったら抱き枕にしちゃ駄目だよ。新しいの、ちゃんと見つけてね。もっと、私よりいい枕を抱いてね」

 そうして出来れば、今度はその子の手をずっと離さないであげて。

「…………私は、名前以外を抱く気はない。貴様の代わりなどどこにもいない。わかったらせいぜいしっかり食事を摂って眠り、肉付きをよくしろ」

 私の瞼に口づけて、シージはそれきり何も言わなくなった。ほどなくしてすうすうと寝息が聞こえてきたから、きっととても眠かったのだろう。
 このひとを、私は最期に傷つけてしまう。死ぬことは怖くないけれど、それは怖いと思った。
 シージと出会ってから、私は弱くなってしまったような気がする。ゴミ溜めの石ころだったこんな私が、人間になれたような気がする。
 だから、やっぱりちゃんと手を離してほしい。私はシージを侵す病にはなりたくない。

「ねえ……だいすきだよ、シージ」

 私はシージの腕の中で丸まって、胸から伝わる鼓動に耳をそばだてた。
 規則正しくて力強いいのちの拍動。
 それはどこか懐かしくて、この世界で一等いとおしい音だった。

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