コールマイネーム?
「わたしのおよめさんになってください!」
名前の柔らかな頬が赤く染まっていた。私に差し出す小さな手は震えながら可憐な花を一輪、そっと握りしめている。
「…名前」
出来るだけ丁寧に名前を呼ぶと、その華奢な肩がびくりと跳ねた。
私の一挙手一投足にひどく怯えながらも、彼女は健気に私の答えを待っている。
いつか彼女に捧げようと秘めていた言葉がいくつも胸を巡った。しかし、いま必要なものはたったひとつだけだ。
六月の暖かくなった風がやさしく髪をさらっていく。少女特有の甘い匂いが淡く私の鼻を擽った。
はくはくと、薄い息の音。緊張のせいで彼女の呼吸音がおかしくなっているのがわかる。新雪の如き真っ白な肌は可哀想なくらい火照っているように見えた。
タンポポの綿毛のように豊かな可愛らしいまつげの先にはかすかに涙が煌めいている。それでも名前はいつものように下を向いたりなどしなかった。
星空を流し込んだうつくしいあどけない瞳は、まっすぐに私だけを見つめていた。
◆
名前は一昨年の冬に近所の大きな屋敷に越してきた少女だった。年老いたお手伝いさんひとりを連れて、遠い海の向こうからやってきたのだという。
きっかけは「イリヤちゃんと同い年くらいでね、そうね〜…ちょっとセイバーちゃんに似てたかな?」という、タイガの言葉だった。
ひどく冷え込む日だったと思う。いつもより遅く顔を覗かせたタイガが、妙に上機嫌に語ったのだ。
帰路につく途中で、買い物袋を提げてひとりで道に迷っていた女の子を家まで送り届けたと、誇らしげに。
「とーっても可愛かったのよぅ!もうね、お人形さんが歩いてると思ったくらい!お手伝いのお婆さんに無理させられないからってね、ひとりで商店街までお遣いに来たんだって。良い子だと思わない?!私、小さい頃の士郎を思い出しちゃった」
その女の子が名前だった。
「今度お礼がしたいって言われたから、ここの住所教えちゃった。てことで、シロウ、セイバーちゃん、よろしくね〜」などと言いながら快活に笑ったタイガの、やさしげな眼差しをよく覚えている。
あの時はどうしてタイガが自分の家ではなくこの屋敷の場所を教えたのかわからなかった。確かにタイガは毎日この屋敷を訪れるが、いつも居るわけではないのだ。見ず知らずのシロウと私が出迎えたところで意味がないのではないかと。
しかし、名前と過ごすうちに、徐々にタイガの考えがわかったような気がする。
彼女は放っておけなかったのだろう。
寒空の元、足腰が弱くなったお手伝いさんのかわりにひとりで買い物に行き、慣れない土地で道に迷い誰にも助けを求められずに彷徨っていた幼い子どもを。
この屋敷にはひとが集う。リンやサクラ、ライダーにランサー。タイガはもちろんのこと、キャスターですら。そして何より、名前と年が近いイリヤスフィールも。挙げればキリがないと言ってもいいほどに、この家は誰かと共に在る。
だからこそ、タイガはこの屋敷を彼女に教えたのだ。きっと、士郎の面影を名前に見たことだけが理由ではない。タイガというひとは、そういう人間なのだ。
私はというと、会ったことのない名前という少女に少し興味を抱いていた。タイガが私に少し似ている、と言ったその少女は果たしてどのようなひとなのだろうかと。
「せい、ばー…さん?」
そう遠くないうちに彼女は屋敷へやってきた。お手伝いさんに持たされたお礼の手紙と、二人で一緒に作ったという彼女の故郷の名物だというパイを抱えて。
折よくタイガもいたその日、彼女は少し戸惑いながらも士郎と私に行儀よくスカートの端を摘まみながら自己紹介をした。上品な微笑は大人びていて、どこか子どもらしさの欠けた少女だった。
タイガにお人形さんと評されただけあって、名前は精巧な人形のようにうつくしい容姿をしていた。洗練された所作は凛としていて、おそらく良い家柄の娘なのだろうと思わせる楚々とした立ち居振る舞いは見事なものだと思った。
ただ、異国の血が流れる容姿を含めても、名前が私と似ているとはどうしても思えなかった。
いつもの通りにセイバーと名乗った私を、熟れた林檎のように真っ赤な頬をしながらそんなふうにたどたどしく呼ぶ彼女は、あまりに可憐だったから。
「セイバーさん、こんにちは。ばあやに習ってベリーのタルトを焼いてみたの。シロウお兄さんにはおよばないけれどじょうずに焼けたから、よろしければみなさんで召し上がってくださいな」
それから名前は度々、何故か私に会いに来るようになった。
私の何が彼女の興味を引いたのかはわからない。けれど心地良く感じていたのは確かだった。
彼女の心細さを少しでも軽くできているのならこんなに嬉しいことはないと。
「セイバーさんはなんでもおいしそうに食べるのね。すてきだわ!わたしももっとお料理をがんばるから、セイバーさんさえよければまた召し上がってくださいな。ふふ、今までずっとばあやだけがわたしの先生だったけれど、シロウお兄さんやサクラお姉さんというあたらしい先生にであえてほんとうにうれしいの。ぜんぶ、あのとき声をかけてくださったタイガお姉さんのおかげね。わたし、このおやしきにつどうみなさんが大好きよ」
そのうちにリンやサクラ、ライダー達とも出会い、イリヤスフィールとも良い友人になれたようだった。セイバーさん、と私を呼ぶ声も会うたびに滑らかになっていった。
名前は両親とはもうずっと一緒に暮らせていないのだという。顔も覚えていないと呟いた横顔は、悲しいほどにどこまでもうつくしく、触れれば掻き消えてしまいそうな幻を見ているようだった。
屋敷にこもることが多かった名前は、お手伝いさんに料理や裁縫を習ううちにそれが掛け替えのないただひとつの楽しみになったと話してくれた。
「ばあやはね、紅茶をいれるのがとってもじょうずなの。それに、ばあやのつくるバターケーキはほっぺが落ちそうになるくらいおいしいのよ!…あの、それでね…ばあやが、みなさんのご都合さえよければ、おうちにお招きしてお茶会をしましょうって…!だからね、セイバーさん、もしわたしにお時間をいただけるなら…ぜひいらしてほしいの。ふふ、こうしてだれかをおさそいするなんてはじめて。セイバーさんがはじめてよ。ドキドキしたけれど、これならみなさんへのおさそいもきっとうまくできるわ」
私が美味しそうに食べてくれるからと、名前はよく手作りのお菓子を抱えてやって来ては本当に嬉しそうに私が食べる姿を見つめていた。
「ばあやもよく食事をするわたしを見ているのよ。とってもふしぎだったけれど、セイバーさんを見ていたらわかったような気がするの。こんなきもちだったのね」と、花も恥じらうような微笑みをその顔に浮かべながら。
「おそとに…?わ、わたしをつれていってくださるの?…本当に?わたしでいいの…?どうしましょう、とってもとってもうれしいわ…!ありがとう、セイバーさん!」
名前の屋敷に訪れる機会が増えにつれ、私は名前を待つのではなく自分から外へ連れ出すようになっていった。シロウ達がそうしてくれたように、名前の手を引いてあっちこっちへと街を歩いた。
何より、私と出かけるためだけに張り切ってめかしこむ名前が愛らしかったのだ。
出会ったときに見た大人びた微笑みがゆっくりと綻びてゆく。少し俯きがちであどけない少女らしい一面を覗かせる。
彼女が纏う言いようのない寂しさは拭えないままだったが、それでも私が傍にいることで名前が笑ってくれるならそれだけで良かった。
そうして月日を過ごすうちに、気付けばすっかり名前は私たちに溶け込んでいた。
「セイバーさん、あの、バターケーキを焼いたの。そう、ばあやに習ったとおりに。はじめてひとりで作ったから、おいしくできているかわからないのだけど、よかったら…。…あっ!シロウお兄さんたちにはないしょにしてね。その…はじめてはセイバーさんにと決めていたの。だって、大好きなセイバーさんにおいしいって言っていただけたら、自信をもってみなさんにも召し上がっていただけると思ったの」
冬を過ぎて春の兆しを感じるようになった頃だった。
とっておきの秘密を打ち明けるように、名前が少し恥ずかしそうにはにかみながら告げたその言葉に、心臓が震えるような心地を覚えたのは。
焦がしたバターと、名前の髪の淡い香りをいまでも鮮明に思い出せる。
その日からずっと、大好きと、透けるような声が何度も鼓膜を擽った。彼女の笑顔がまなうらに焼き付いていた。名前の絹のような肌が触れた場所が火傷と似た熱をもつ。感情を持て余す。
その意味を問うても良いのだろうか。
名前を想う度、胸の奥底が疼いて仕方なかった。
それは夏の終わりだった。
ぜひ泊りにきてほしいという名前からの誘いを受けて、一日たっぷり遊んだ後に彼女の屋敷へと赴いた夜のこと。
すすり泣く声で目が覚めた。
押し殺そうとした息が苦しそうに喘ぐのを耳が捉えて、反射的に名前の姿をさがした。
「名前、どうかしましたか?大丈夫ですか?」
「ぁ…、せい、ばーさん……あの、ごめんなさい、起こしてしまって……」
広いベッドの隅で、彼女は小さな体を更に小さくして蹲っていた。
なんでもないの、と笑う名前はすぐそこに、触れる距離にいるのに何故かとても遠くに感じて。ぽっかりと口を開けた夜の淵に飲み込まれてしまいそうだった。
私は咄嗟に彼女の傍に寄って震えるその背に手を添えていた。
「なんでもないわけがないでしょう…!」
「セイバーさん……」
語気が強くなる。怒っているわけではないのに。ただ焦燥感が胸を焦がす。
「ご、ごめんなさい。今日はセイバーさんといっしょだから…だから、だいじょうぶだと、おもったのに。ごめんなさい……セイバー、さん…」
「名前」
そんなことが聞きたいわけではないのに、名前の口からこぼれるのは嗚咽ばかりだ。
ごめんなさいと繰り返す声。涙の降る音が静謐な闇にとけていく。
まさか、とどうしようもなく声を荒げてしまいそうになった。
夜毎、彼女はこんなふうにひとりで泣いていたのだろうか。こんな寂しい夜の中で、ひとりきり。泣き声をあげることもできずに。
微笑む名前を思い出す。セイバーさんと囁く名前の声が重なる。記憶の中で幸せそうに笑っていた彼女の声はなぜか泣いているような気がした。
このとき初めて、私は名前の凪いだような双眸の奥にある寂しさに、確かに触れたのだ。
泣いている子の相手などまともにしたことがない。あやし方も慰め方も私は知らない。それでも私は声を絞り出した。何も出来ないのだとしても、名前のために何かしたかった。
彼女が、あんまり寂しそうに泣くものだから。
「名前、泣かないでください」
星屑のようにぽろぽろとこぼれ落ちる涙の粒を指先で拭った。
まるで世界にひとりきりだというように膝を抱えて泣く少女にどんな言葉をかければ良いのかわからない。どうすれば笑ってくれるのか検討もつかない。喉が塞がれているような息苦しさともどかしさが全身を駆けていく。
不甲斐なかった。
いまの私は目の前で泣く少女ひとり笑顔にすることはできない。
私はただ静かに、指がとけてしまいそうなほどに熱い涙を掬っては彼女の名前を呼んでいた気がする。
「名前」
何がそんなに悲しいのですか。
「名前、」
どうしてそんなに寂しそうなのですか。
「名前…」
私に何が出来ますか。
ねえ、名前。
「私がいます。名前、貴女の傍にいますから」
それでも駄目ですか。
貴女の孤独を埋めることはできませんか。
貴女を笑顔にすることは、できませんか。
冷たくなったちいさな手を握った。体温を分け与えるように指を絡ませると、ぴくりと体が跳ねる。
名前が息をのむ音が聞こえた。涙に濡れたまつげが月明かりに煌めいている。顔をあげた名前のこぼれそうな瞳がじっと、私だけを映し出していた。
言葉などなくても、そうすることが正解だと知っていたように体が動く。
もう片腕で名前をそっと抱き寄せた。触れれば折れてしまいそうなほどに華奢な体を壊さないよう、そっと包み込むように力を込める。
薄い布越しに肌が触れ合う。鼓動の音さえ伝わってしまいそうな距離だった。薄い皮と肉と骨を隔てた先に彼女の心臓があるだなんて信じられないような気がした。
「…ありがとう、セイバーさん」
生前ですら、こんなふうに誰かを抱きしめたことなどなかった。ぎこちない私の抱擁に、熱い吐息が不器用に笑う。
私の腕の中で名前がくしゃくしゃに微笑んでいる。いつもよりへたくそなその笑顔は、それでもどうしようもなくうつくしい。
白く膨れた瞼が瞬きを繰り返す度、真珠のような涙がぱたぱたと私の胸に降り注いでは滲んでいった。
「名前、今宵は私が貴女を何からも守ると、騎士の誇りにかけて誓いましょう。…ですから、さあ、安心して私の腕の中で眠ってください」
大丈夫です。
貴女を攫う悪夢も孤独も、すべてから守ってみせましょう。
名前がもう、ひとりきりで声を押し殺して泣いてしまわぬように。
◆
「セイバーさん…?」
はっとした。
名前の不安そうな声で頭の中でくるくる回っていた記憶がぱちんと弾ける。
「…やっぱり、私みたいな子どもじゃ、この気持ちを信じていただけないかしら」
名前の瞳がうすらと翳りを帯びる。こぼれ落ちそうな双眸が僅かに潤んで、唇を噛みながら微笑むからたまらずかぶりを振った。
「いいえ。…すみません、名前。そうではなくて、ですね」
目線を合わせるために膝をついた。そっと、色づいた頬に手を添えると名前がびくりと肩を揺らす。
どうかそんなに怯えないでと囁く。
貴女の気持ちに嘘偽りなどないことは痛いほどわかります。けれど、私にも譲れないものがあるのです。
「名前、妻になるのは貴女です」
噛み締めるように告げる。
名前の瞳が大きく見開かれて、光を受けた双眸がより強く輝いた。ただ美しいと思う。なによりも、どんなものよりも。
「セイバーさん…それって……」
光が瞬く。唇からぽろりとこぼれた仮の名に少しだけ笑んだ。
セイバーさんと拙く呼んだ名前の姿を思い出す。今から伝える名も、彼女はまたたどたどしく呼んでくれるのだろうか。
考えて胸が詰まるような想いが巡った。過った光景が、有り余るような幸福で溢れかえっていたからだ。
「…セイバーは、私の本当の名ではありません。ですから、貴女に私の本当の名を預けましょう」
「お名前…?」
この胸の疼きの意味を、理由を、今ならはっきりとわかる。
「ええ、名前です」
───────ああ、きっと。
名前の笑顔を一目見たあの瞬間、私は恋に落ちていたのだと。
「私の名はアルトリア・ペンドラゴン」
いつか名前が私にとっておきの秘密を告げるように囁いた、あの横顔を思い描く。
愛の言葉など囁いたことはない。名前の望むような言葉ではないかもしれない。
それでもこれは、私から名前に贈るたったひとつの愛の証明だった。
「ですから、乙女。私の妻になってくださるのなら、どうか、私の名を呼んで頂けませんか」
涙をのんだ名前の眦が甘やかに垂れてゆく。花開くようにゆっくりと、やわく綻んでゆく。
眼差しに春をのせた瞳が美しい。
彼女の幼く愛らしい声がひとつずつ私の名を音にするその瞬間を、切り取ってこの胸の奥底に仕舞ってしまえたらどれほど良いだろう。
「アルトリア」
澄み透るその声にどくり、と心臓が一際強く拍動する。はじめて体に血が通ったような心地にぐっと奥歯を噛み締める。
告げられた名に応えるべく、私は名前の手を取った。その手に握られた花ごと包み込むように。
吐息が絡む距離まで近づくと互いの睫毛さえ縺れ合ってしまいそうだった。
こんなふうに自ら肌に触れることもなかったのに。きっとこれから何度でもそんなことを思うのだろう。
あどけない唇にやわく口づける。触れるだけの軽いもの。けれど、それだけで胸どころかすべてが満たされたような気分だった。
そのうちどれだけ触れても足りないと思う日が来るのだろうか。貴女のすべてを喰らっても足りないと思うような渇望を知るのだろうか。
わからない。
でも、貴女と。
名前、貴女とそんな愛のことを知っていきたいと、そう思うのです。
「名前、私の妻。貴女を、愛しています」
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