いつかその心臓を食べてあげる
何もかもが死んだようだった。
どこまでも静謐に満たされた室内は生きものの気配がしない。僅かな生命のにおいすら、ループスの敏感な鼻をもってしても嗅ぎ取れなかった。
ここに来るまでに灯されていた橙色の仄かな照明の光すら届かないこの部屋は深海のようだ。いつかどこかで見たか聞いたか、想像の中だけに息づいていた暗いうなぞこが目の前に広がっている。
目的の人物は闇の最中で死体のようにくたびれたソファに転がっていた。遠目からでもわかるような生気のない肌の色がちらつく。骨っぽい痩せた身体が衣服から見え隠れしていた。
相変わらず私服には無頓着らしい。肌が見えようが見えまいが気にしないというような姿は窶れ具合と相まって酷い有様だった。
ため息が勝手にこぼれていく。
「ドクター」
扉を隔てていようがいなかろうが関係なく、ボクの度重なる呼び掛けにも彼女は何の反応も返さない。
やはりと言うべきか。予想通りというのも何だか複雑な気分だった。ともかく、こんなところにいつまでも佇んでいたって仕方ない。
「きたない部屋だな……」
余程仕事に追われていたのか見慣れた小綺麗な景色はもはや見る影もなかった。「ここ最近ずっと誰も部屋に入れていないらしい」と、ぼやいていた某医師の言葉を思い返す。
ドクターがこもりがちになると扉をこじ開けに行くアーミヤも、今は代表として多忙を極めているため最近は基地に帰っていない。
したがって、ドクターのだらしない生活を矯正する者がいなかったわけだ。
まあ、実際はケルシーがあれこれ理由をつけて定期的にオペレーターを差し向けているのだが、そこまでするなら常に監視を付けておけばいいものを。
放っておけば一人では必要最低限の生命維持活動すら放り出して仕事に没頭するのはわかりきっているのに。変に自由なんか与えるせいでドクターが死にかける。比喩ではなく、現実的に。
とっちらかった床の障害物を避けつつ、ソファへと一直線に向かっていく。距離にして十歩と少し。
それほど大きくないソファの上で、ドクターは小さな体を丸めて更に小さくなっていた。頭側にちょうどスペースが空いていたため、とりあえずそこに腰を落とす。
彼女はやはり目を覚まさない。足音や振動、ひとの気配にも気づかず呑気に眠りこけている。
かろうじて薄く上下する胸の動きに気づかなければ本物の死体に見えるほど、ドクターの顔からは血の気が引いているように見えた。念のためにと脈をとり、呼吸の確認をする。
「……まあ、騒ぐほどの状態ではないか」
良い、とは言えないものの死ぬようなことはないだろう。
改めて室内をぐるりと見まわすとあまりの惨状に笑いすらこみ上げてくる。おまけにドクターはジャンキーのようだし。
アーミヤがこの光景を見たら悲鳴をあげること間違いなしだろう。彼女以外にもドクターを慕うオペレーター達の慌てふためく姿が目に浮かぶようだった。ケルシーあたりは激怒しそうだが。
「また痩せたね、ドクター」
なだらかな骨のかたちがくっきりと浮いた肋をなぞった。
ロドス支給のぶかぶかのコートを脱いだドクターの体は、年頃の少女とは思えない不健康さだ。発育が悪いだとかの問題ではなく、端的に言うと気持ち悪いくらいの細さ。華奢というよりも病的なのだ。
死に蝕まれて終わりゆく生命の過程をまざまざと見せつけられているような気になる。重篤な感染者でもないドクターがなぜか一番死に近い場所にいるように思う。
だからだろうか、鉱石病とはまた違った終わりをドクターに垣間見てしまうのは。
「そんな体でまたオーバードーズでトぶって、本当にキミは馬鹿だね」
これはオーバードーズじゃないと澄ました顔をして、ベッドの上で無数の管に繋がれながらも気丈に振る舞う姿は今は何処にもない。
死人同然の顔をしたドクターの呼吸のリズムにじっと耳を傾けて、僅かな心音を逃さないようにと左胸に手を伸ばした。けれど、煩いくらいにどくどくと鳴るのはボクの心臓の方だった。
薄くて小さな乳房に触れる指が汗ばむ。皮膚越しに感じるささやかな柔肉は確かに熱をもっていた。ふに、と気の抜けるような肌触りに眩暈がする。色気なんて微塵もない筈なのに、焦れったいような気持ちになって仕方ない。こんな骨と皮だけの貧相すぎる体に。どうかしていると自分でも思うけど、事実どうかしていた。
「無防備が過ぎるよ。施錠も護衛もなしで眠りこけて。……何されても文句言えないね」
欲望の正当化。或いは責任転嫁。
胸の内にいつしか巣食った燻る感情を、ボクは持て余している。形もあやふやだったその感情が確固たる意思と姿を持ったのは少し前の事だった。
ドクターを食べてしまいたい、と。そんな風に。
度々、というか、彼女のことを考える度にそんなことが頭の中を埋めた。
その頼りない身体を形づくる肉を、巡る血潮を、脆そうな骨を、そしてその奥に息づく心臓まで。この口にいれて舌で形をなぞって余すところなく歯を立てたい。ただし、食事などという消費行為ではなく。生命維持でも趣味嗜好でもなく。
ならばこれは何としよう。
噛み砕いて胃の腑に流し込みたいわけでも血肉として取り込みたいわけでもないのに、その身を食みたいと強く渇望するこの衝動を何としようか。
「ほら、起きないと食べちゃうよ」
まるで眠り姫にでもなってしまったようなドクターの頬を手のひらでそっと包む。ひどく柔らかな感触は心もとないような心地になる。触れたら壊してしまいそうだとか、そんな陳腐な感想を持つ日が来るなど思いもしなかった。ボクはいつだって壊す側で、何ならドクターだって壊してしまっても良いとさえ思っていたのだから。
絆されてしまったのだろうか。
だって彼女の存在は危うく、いきものの温度を孕んだ頼りない体の熱に指先からふやけてしまいそうになる。
馬鹿みたいだと思う。でも、悪い気はしない。
網膜に焼き付けるように弱々しい寝顔を眺めているのだって、これはこれで楽しいものだ。
閉じた瞳を縁どる睫毛が震えだす時をじっと待ちながら、心臓の疼きを堪えて息をひそめた。いつもより少し速く駆ける拍動も、浮かれるような高揚感も、煩わしいのに手放し難い。
もう全部ドクターのせいだ。
だから。
白い頬を、細い首を、長い指を。触れる度、見つめる度に。いとけない声も、その表情ひとつさえ。形のない心なんてちんけな物すらも捕らえて離したくない。髪の一本すら余さず自分のものにしてしまいたい。
出来れば、彼女のすべてを。
「ねえ、ドクター」
キミのことを、食べてしまいたい。
◆
かぷり。
尖った歯をやわい肌に埋めた。薄い皮膚の下で弱く打つ脈ごと、このまま食い破ってしまえそうだなと思う。
結局、ボクはこうして隙を見てはドクターの肌を甘く食んでいた。
食べてしまいたいと思うほどの激情は不思議とそれだけで満たされた。ともすれば最初からこうしたかっただけなのかとすら思う。
この場で、この手で、すぐにでも殺してしまえる脆弱さに呆れすら感じながらドクターの細い首に噛み付く。ほのかに甘いようなどこか懐かしい匂いと素肌の味がする。
あまりに普通の少女の首だった。
ボクが今まで斬って殺してきた敵と何ら変わりない。それどころか生存能力においてはドクターの方が格段に劣っている。
不思議な心地がする。彼女はずっと特別に見えていたから。
触れてみればそんなことはないのだと知った。類まれなる才能や秀でた頭脳は確かに非凡で特別なのだろう。けれど彼女の肉体は特別でも何でもない、ただのヒトのものだ。ドクター自身は戦う術もなく、痩せっぽちにお似合いの非力でか弱い存在。傷つけば当然のように血が流れ、守ってやらねばすぐに命を落とすような、そこらへんの生き物と同じ。
戦場で指揮を執る姿も、ロドスのドクターとして振る舞う姿も、あの馬鹿みたいにサイズの合っていない制服も、その鎧を解いてみれば中身はこんなにも危ういものだったなんて、きっとこうして触れてみなければずっと知らないままだった。
当たり前の事実の一欠片を彼女の肌を食むといつも思い出す。噛み締めるように甘噛みを繰り返す。
敵に刃を食い込ませるときの感触を反芻しながら、ようやくぴくりと震え出した指を搦めとった。
「ん……」
「やっと起きた?」
引き寄せた手にゆっくりと力が入っていく。握った指が把握反射のようにボクの指を握りしめる。新生児でもないのにとおかしくて笑った。
白い瞼が薄く持ち上がるにつれ、その奥の瞳が光もないのに星空のように微かな灯りをともす。
「………」
ドクターがぱちぱちと目を瞬かせる。それはそれは不思議そうに。
「おはよう、ドクター。目は覚めたかい?」
「……お、はよう?」
定まらない視線が合うと掠れた声が律儀に挨拶を返す。蕩けるように潤んだ眼差しはまだ夢見心地らしい。
「……ラップランド……?」
うわ言のような呟きだったけれど、ドクターはきちんとボクをボクと認識していた。
このぶんなら少し休ませてから食事を摂らせて一日ベッドに縛り付けておけば十分回復するだろう。
「今回はまだマシみたいでよかったよ。医療オペレーターは呼ばないけど大丈夫だよね?」
「医療?……嘘だ、また……」
「ドクター、駄目だよ」
のしかかるボクを押しのけて飛び起きようとする体を押さえ、枯れ枝のような手首もひっ掴んでソファに押し付けた。
「そんな体で起きれるわけがないの、自分でもわかってるよね? ほら、ここでじっとしてて」
「……それ、は、君がこんなふうに押さえつけるから……」
「また床を這いつくばりたいなら止めないけど」
ドクターに学習能力はないのだろうか。まだ話す機能すらまともに回復していないだろうに立ち上がるなど無茶にも程がある。
手に力を込めて目を細める。痛いという呟きを無視して耳元に唇を寄せ「惨めに這うドクターの姿を見るのもそれはそれで楽しいけれど」と囁けば、ドクターは寝ぼけ眼を見開いた。やっとお目覚めらしい。観念しろという視線を送ると、大人しく体から力を抜いた。
「いい子だね、ドクター」
「…………はあ」
降参しました、という顔をしたドクターが、バツが悪そうに「すまない」と小さく謝罪をこぼした。羞恥と感謝の入り交じった声音が耳を刺す。少しだけ染まった頬が目に止まる。
その姿に、どうしようもなく噛みつきたいと思ってしまう。
あれだけ意識のないドクターに噛みついたというのに、衝動が抑えられなくなりそうだった。
手首を押さえつけるなんて生ぬるいものじゃなく、この腕の中に閉じ込めて自由を奪ってしまいたい。噛み付くのも良いけど、口付けをしたらどんな顔をするのだろう。そのまま体に触れてみたら泣き出すだろうか。
抵抗すらきっとまともにできないドクターの姿を思い描いて背筋がゾクゾクする。
溜まってる自覚はないけど、他の女ではそもそも解消のしようもないものだ。
本当に、まったく厄介だなと思いながら手を離す。
「食事を運んであげるからそれを食べたら今度はちゃんと眠りなよ? ドクターならわかってると思うけど、失神は睡眠とは言わないからね」
「……食事……いや、食欲はない。それにまだ報告書が」
「ボクの言うことに従えないなら医療オペレーターを呼ぶけど」
「わ、わかった……。わかったから、医務室行きは勘弁してくれ」
「まあ、数日はまず出てこられないだろうし賢明な判断だね」
ロドスの医療オペレーター達、特にハイビスやガヴィルに捕まれば文字通りベッドに縛り付けられて三食しっかり栄養たっぷりの健康食と悲鳴をあげるほど万全の治療を受けさせられる。ドクター相手ならワルファリンの興味と趣味が9割の検査もか。
接触禁止を出しているケルシーも、ドクターに非がある以上こればかりは止めようとしない。何より、ドクターにとって誰よりも恐ろしいのはケルシーなんだろうけど。
一度このフルコースを体験した以上、重度のワーカーホリック患者のドクターもさすがに仕事を諦めたようだった。
「……最近は君の世話になることが増えてしまったな」
「そうだね」
ぐったりと四肢を弛緩させたドクターのかわりに額に張り付いた前髪を指で払い除けてやる。ずいぶん慣れた手つきだなんて他人事みたいにぼんやりと考えながら瞼を伏せたドクターを眺めた。
「……本当は、こんなことを思うのはよくないんだろうけど……」
そんな前置きをして、ドクターが僅かに頬を緩める。
「来てくれるのがラップランドでよかったと思ってしまう」
その一言で血がどっと沸く。体温が一気に上昇していく感覚がはっきりとわかった。
煮え滾る。腹の底で何かが渦巻く。ドクターの言葉が、表情が、仕草ひとつですらボクの琴線に触れていく。
存在ごと喰らい尽くしてやりたい。ボクの唇が触れていない場所なんてないってくらい、すべてボクのものにしてしまいたい。
あともう少しでこぼれてしまいそうな言葉を飲み込んで、誤魔化すようにドクターの長い髪を耳にかけてやる。
「フフ、テキサスじゃこうはいかないだろうからね。でもキミ、仮にも製薬会社のドクターがこんなことを繰り返していいのかい。今度こそ本当に死んでるのかと思ったよ」
「……ふ」
ボクの揶揄をドクターは鼻で笑う。垂れた髪をひと房手に取り、煽るようにやわく引かれる。
「よく言う。死体の首に噛み付いたりしないくせに。君のせいで皆の前で首が出せない」
ほら、と気だるげな視線が示すのはボクがついさっきまで噛み付いていた首だった。かすかに唾液で湿った病的なほど白い肌。血管が透けたその滑らかな皮膚には若干の跡が残っている。
ドクターは特に跡が残りやすい体質だというから、甘噛みですらこれだ。
「キミは肌が白いから噛み跡が映えるね」
「そうじゃない」
アハハ、と笑い飛ばすとドクターは若干眉を下げた。本当に嫌ならいくらでもやめさせる手段はあるだろうに、彼女はそれをしない。嫌だと拒絶すらしない。
だからもう、やっぱり最初から全部ドクターのせいだろう。
じわりと焦げ付く視界を振り払うように曖昧に瞳を瞬かせた。肌蹴た服からのぞく赤らんだ彼女の肌から目が離せない。馬鹿みたいな甘やかしの泥濘が心地良いことを、きっとドクターは知らないのだ。
「にしても、ずいぶんと派手にやったね」
熱に侵されそうな頭の中を切り替えるように、床に散乱した上級理性回復剤のパッケージのひとつを手に取る。
一時的に理性を維持させるための高用量の応急処置用薬剤。
ドクターは劇薬じゃないと言い張るけど、意識の覚醒と引き換えに一度の使用でも確実に偏頭痛を引き起こすような代物が劇薬じゃないわけがない。
山のような書類を綺麗さっぱり片付けた代償は大きかったらしく、水周りからは血の臭いが漂っていた。血を吐くだけでは足らず、意識まで飛ばしているのだからそう頻繁に摂取して良いものではないだろうに。
「……書類を片付けるのに必死で全然覚えてない」
こめかみをおさえながらため息をつくドクターが言わないでくれと弱く首を振った。
「そりゃそうだろうね。これだけ摂取していれば記憶もトぶさ」
「これ以上なにか忘れたらケルシーに殺される……」
「その前に中毒死すると思うけど」
「君に言われるのは癪だ。大体、ラップランドは生き急ぎすぎ。先月の医務室送りはキミがトップだったのを忘れたのか」
「へえ? あれだけケルシーに禁止されたにも関わらず回復剤の多用で作戦指揮中に鼻血垂らしてたキミにだけは言われたくないね。帰還後にケルシーに医務室に引き摺られて行ったこと、ボクは忘れてないよ」
「あ、あれは……五徹で……いや、反省してるよ。ケルシーにも、申し訳ないとは思っているけど……あの人は私を生かしたいのか殺したいのか、時々わからなくなる」
医務室でのことが余程堪えたのか、ドクターは若干遠い目をした。
真面目な顔でそんなことを口にするから、ボクにはそれが冗談なのか本気なのかわからないけど。
生かしたいのか殺したいのかなんて、答えは目に見えているのだから。あの医師のドクターへの執着は並々ならぬものだ。ドクターが気付いていないのが不思議なほど。
「ま、ケルシーがああする気持ちはわかるよ。キミには口で言ったところでまるで意味がないからね」
「口で言ってわからないなら体に? 乱暴な考えだ」
「どの口が言うのさ」
空になった複数の回復剤の容器を一瞥して肩を竦めた。
許容範囲を超えた回復剤の使用をやめれば済む話だが、それが出来ているなら誰も苦労はしない。
「あ……そうだ、ラップランド」
さすがに黙ったドクターだったが、しばらくしてから徐にボクを呼ぶとごそごそとソファに敷いていたジャケットのポケットを探る。
何をしているのだろう。
静かに見つめていれば、ドクターはそこから小さなガラス瓶に詰め込まれた星の欠片のようなものを取り出すと「はい」と、ボクに手渡してきた。
すんと鼻を鳴らすと甘い香りがする。淡いピンクやブルー、色とりどりの星屑のようだった。
「口止め料ってやつかな? 心配しなくても誰にも報告なんかしないさ。もちろん、ケルシーにも」
つまらないからね。とは言わずにおく。
「ん……まあ、そういうことにしておこうか」
ドクターは少しおかしそうに笑って、ボクの手の中にある小瓶を見つめる。眩しいものを見るような瞳は幼い子どものようにきらきらと瞬いていた。
「これは一度、極東のお土産でもらってね。それからずっと気に入って、機会があれば取り寄せてもらっているんだ。糖分の摂り過ぎだってケルシーが良い顔しないから、いつもは誰にも見つからないようにこっそり食べているんだが」
ボクに教えている時点でもうこっそりではないような気がする。
そんなことを考えていたのを察したのか、ドクターは悪戯が成功した子どものようにあどけない笑顔を浮かべた。屈託なく笑うドクターを見るのはかなり稀だ。本当にこのお菓子が好きなのだろう。
「ラップランドは言いふらしたりしないだろう。ええと……だから、このことはふたりだけの秘密だよ」
思わず目を見開いた。しい、と人差し指を唇にあてるドクターの顔をまじまじと見つめてしまう。
手の中にあるこれが彼女の信頼の形なのだと思うと握りしめてしまった。
「……ふたりだけの秘密。うん、いい響きだね。好きな言葉だ」
コルク栓を抜き、一粒摘まんで口に放り込む。砂糖で出来たちいさな星のようなそれをぽりぽりと噛み砕いていけば口内が甘ったるさで痺れていくようだった。
ボクとドクターの秘密の味。少し甘すぎる気もするけど。
咀嚼して、胃の腑に余すことなく流し込んだ。
「どう? 気に入った?」
こころなしかドクターの声が弾んでいる。
「悪くなかったよ。じゃあ、ボクからの返礼をしようか。ドクター、おいで」
味だけなら好みじゃないけど、悪くないというのは本心だ。
ぺろりと唇を舐めとる。まだ中身の詰まった瓶を仕舞ってから、ぽんぽんと膝を叩いた。
「え? いや、お礼は……」
「いいから、はやく。そのまま体を上にずらして頭をここに置くだけでいいよ」
意図がわからないという顔をしながらもドクターは大人しくずりずり体をずらす。
ぽすり、とボクの膝に後頭部を遠慮気味に乗せた彼女は何故か額にうっすら汗をかいていた。
頭部というのはそれなりに重い部位なのだが、不思議と重みを感じない。ドクターの体はどこもかしこも中身が詰まっているのか怪しいほど軽いのだ。
「どう? ボクの膝枕、気持ち良い?」
先刻のドクターを真似て問いかける。
「……ええ、と……」
「うん?」
ドクターは何故か口ごもりながら視線をあっちこっちへと泳がせた。緊張しているのが目に見えてわかってしまい苦笑する。取って食われるとでも思っているのだろうか。あながち間違いでもないけれど。
「良い膝、だと思う」
「……ふ、あははっ! ドクター、もしかして膝枕は初めて?」
たっぷり間を置いてからドクターが困惑しながらも言葉を絞り出す。
笑いを堪えきれなかった。胸元で握りしめられた手をなぞって開く。指を搦めると申し訳程度の肉の柔らかさを感じる。さっきよりあたたかくなったドクターの体温がいじらしい。
書類仕事のせいでできた胼胝の感触だとか、少ししっとりした皮膚のぬるさだとか、そんなことのひとつひとつに意識が流されていくようだった。
「覚えている限りでは初めてだが……」
「そう。じゃあゆっくり楽しむといいよ。どうせまだ怠いだろうし、体が慣れてきたら食事にしようか」
「……ありがとう、ラップランド」
ボクを見上げながら、海色の瞳が瞬く。ボクもまたドクターを覗き込んだ。穏やかなまなこは無防備にも眦を緩やかに垂らす。こんな深い夜の底でも、ボクの目ははっきりとそんなドクターの姿を捉えられる。
長い髪がカーテンのようにドクターを覆って、世界にふたりきりになったような気分だった。或いは、今だけはそうあればいいなんて思ってしまう。
豊かな睫毛が風を巻き込んで瞬く。何を考えているのかわからない顔は案外色んな表情をすることを知った。無感情そうに見えるけど話してみると意外とよく笑ったり落ち込んだりすることも。
「そういえば、君に聞きたいことがあるんだ。最近よく甘噛みしてくるけど、ループスは今が歯の生え変わり時期なのか?」
しばらく沈黙していたが幾分か緊張も落ち着いたのか、ドクターが控えめににぎにぎと繋いだ手を握り返しながら聞いてくる。
どうしてそんなことを今更、と思いつつ受け流されているわけではなかったことに少し安堵していた。
ドクターは誰に対しても基本的にいつもされるがままになって、曖昧に微笑むだけだから。
「生え変わり?」
「つまり、換毛期や角の生え変わりと同じように、ループスにもそういうものがあるのかということだ」
「ああ……それで」
突飛なことを聞いてくるとは思ったけれど、そういうことなら合点がいく。
ロドスには様々な種族が集っている。脱皮する種族もいるのだから歯が生え変わることだってあるだろう。
ただ、ボクのそれは生え変わり時期で痒いとか、そういったことではまったくないんだけど。
「違うよ」
首を振った。
きっとドクターにはわかるはずもない。
「そうか」
それ以上追求してこないことはわかっていた。だからボクは何も答えなかった。
ただ一言「ひみつ」とだけ囁いて、繋いだ彼女の指先を食む。吸ってやわく牙を立てる。甘い。錯覚だろうか。
さっきの糖分がまだ舌に残っているのかもしれない。
ドクターは擽ったそうに身じろいだけど、決してボクを振り払ったりしなかった。ただ曖昧に微笑んでボクを見つめている。
だからキミには答えなんか教えてあげないよ。
意味なんてボクが居なくなった後にでも気付けば良い。そうして、彼女のどこかに跡が残れば良いのだ。
すぐにでも消える歯跡が、どうしたって消えることのない呪いにでもなってくれれば良い。それがどれだけ醜い傷跡になってドクターを苦しめるのだとしても。
そのときはじめて、ボクはキミのすべてを喰らいつくしてしまえるのだから。
back/
top