天国は愛を知らない
「そんなに死にたかったのか」
酷く疲れたような声だった。自分の喉から発せられたとは思えない声音に、ケルシーははっと息をのんだ。思わず顔を上げた先、よく磨かれた窓に映る女はやつれた顔で此方を睨みつけるように見つめている。
夜の静けさをかき消すような機械音だけが室内に響いていた。灯りもないこの部屋は果てのない闇の底にのまれたように真っ暗だ。
ものものしい機械と管に繋がれたドクターの傍らで、ケルシーは灯りをつけることもせずにじっと立ち尽くしていた。
アーミヤが数時間前に運んできた食事は手付かず。普段は冷める前に飲み干してしまうコーヒーは既に香りも温度も損なわれている。
夥しい血に塗れたままの衣服もそのままに、ただドクターを見つめるケルシーの姿は異常と言っても良かった。まるでドクターから目を離すことを恐れているように、胡乱な影を落とす双眸は彼女しか映さない。
ドクターは、もうどこへも行けるはずがないのに。
血と硝煙の臭いが消えない。剣戟と銃撃音が鳴り止まない。
握りしめた手が僅かに震えていた。ドクターの体にメスをいれた右手。握っても開いてもその細い指の一本一本に幼く柔らかい肉の感触が付きまとう。彼女の痩せこけた腹を切り開いて肉を裂き、縫い合わせた感触がこびりついて離れない。
「……なぜだ」
重たい唇を開くと掠れた声がぽろりとこぼれ落ちる。
その問いかけにドクターは答えない。
「どうして君は、そうやって」
最後まで言葉にすることができずに奥歯を噛み締める。或いは、答えなど聞きたくなかったのかもしれない。
月を覆っていた雲がゆっくりと流れていく。眩い煌めきを放つ衛星が顔を出すと、青白い光がうっすらとドクターに降り注いだ。
安らかに瞼を閉じたその姿を眺めるケルシーはもうずっと、戦場にひとり取り残されている。
◆
数十時間前に遡る。
新たに協力関係を結ぶ運びとなった機関との交渉と協定締結を終えた帰りのことだった。近くに潜伏していたレユニオン兵からの待ち伏せ攻撃を受け、応戦を強いられたのだ。
「シージ、テキサス、一番槍頼んだ。医療オペレーターも彼女達に続いて。ホシグマ、撤退進路の確保を」
作戦指揮は文句のつけようもないほどに上手くいっていた。
交戦は予定になかったことだが、それも想定のうえ。動揺は少なく、状況把握は迅速だった。ドクターの指示は適切で、対応するオペレーターの動きも一切の無駄がなく安定感がある。
「ここは遮蔽物が多い。切り離されると厄介だな……。散らばらず誘導して迎え撃つ。ラップランドはサリアの後方へ。エクシア、射撃援護」
地形の特性の把握や敵の侵攻ルートの予測の正確さはもはや機械じみていた。
基地内ではぼんやりと瞳を伏せてばかりいる姿が嘘のようにガラリと雰囲気が変わる。まるで人格すら入れ替わったかのように。
気怠さを取り払った涼やかな双眸は冷静に戦場一帯を見つめ、すべてを見透かしたようにオペレーターを動かしていく。
「敵兵投入が途切れている間に進路を塞いで。……三時の方向、廃ビル奥から増援、接触まで約四十秒! 各員警戒態勢を取りつつ迎撃用意を」
凛と声を張り上げ、的確な配置により敵兵を意のままに殲滅していくその姿は本当に記憶が欠落しているのか疑わしくなる。彼女の指揮はそれほどまでに鮮やかにレユニオンを掃討する。
そうしてドクターが展開していく戦術はじわじわと、しかし着実にレユニオンを追い詰め、侵攻は順調に食い止められていった。
──────途中までは。
『ケルシー!!』
耳を劈くような叫びが今でも聞こえるようだった。見開いたドクターの目に映った己の背後、迫り来る敵影の形をはっきりと思い出せる。
あの細腕がどこにそんな力を隠していたのか、思い切り突き飛ばされたせいで地面に打ち付けた体がまだ痛んだ。
「……馬鹿は記憶を失っても変わらないな」
口にした皮肉が苦い。ケルシーの瞳が朧げに揺れる。
ドクターをいくら眺めても、その頬はいつものようには綻ばないままだ。
「君が死ねばすべてが終わると何度言ったらわかるんだ」
力を込め過ぎた拳が色をなくしていく。
ごめんね、と謝る声のかわりにドクターの心音を告げる機械の規則的な音。無数に繋がれた管と大量の薬剤が彼女を生かすすべてだ。
二度と見たくないと思うこの光景も見飽きてしまった。行き場のない虚しさが募る。涙すらもう流れない。
『……よかった』
鼓膜を幾度も擽る声に眉を顰めた。ドクターの言葉が呪いのようにケルシーを苛む。
良くない。何も、良いことなどない。
「……っ」
隠れ潜んで奇襲を仕掛けてきた敵兵ひとりなど、ケルシーであれば瞬時に捻りつぶすことなど造作もなかったのだ。
それをドクターは、まるでこの世の終わりのような顔をして咄嗟にケルシーを守ろうとした。
放っておけばよかったのに、あの瞬間、ドクターに躊躇いなどきっと欠片もなかったのだろう。だから彼女は、もうどこもかしこもぼろぼろになったその身を惜しげもなく投げ出したのだ。
「死んでも良かったと言うのか……!」
吹きあがる血しぶき。彼女の薄い腹を深々と串刺す刃の、鈍い煌めきが網膜の奥で反射する。
頭の中が真っ白に弾けた。色の抜けた視界の中で崩れ落ちていく体がスローモーションに見えた。声は言葉にならず、喉からは 空気だけが抜けていく。無意識のうちに敵を肉塊へと変えていくことすら、もうどうでも良かった。
伸ばした手が届かない。その体を抱きとめられない。地面に転がったドクターの腹からも口からも、とめどなく血が流れ出していく。
だというのに、彼女は馬鹿みたいに安心しきった顔で笑っていた。
────嗚呼、ああ。君はやはり、どうしようもない大馬鹿者だ。
そんな顔で微笑むな、そんな声で良かったなんて言うな。
そんなに、死にたがってくれるな。
頭の中にはドクターの横顔が浮かぶ。弾けて、浮かんで、また弾けて。いつもどこか遠くを眺めている、儚いだけの横顔。どこを見て、何を考えていたのだろう。
知ってしまえばきっと今度こそ彼女からすべてを取り上げてしまう予感があった。自我も意思も、なにもかも。
どんな手を使っても、彼女を誰からも奪わせはしない。それが例え、彼女自身であろうと。
だからあの日、ドクターが記憶を失ったと聞いたとき、ケルシーは確かに安堵した。もう彼女を傷付けなくても良いのだと。なにも奪わなくて良いのだと。
初めましてとぎこちない挨拶に胸が痛んでも、他人行儀な態度に苦しんでも、そのすべてを飲み込んだ。
それなのに。
「……君はなにもかわらない」
どうしようもなく怖かった。
彼女の無自覚の生への執着の薄さが。いつ死んでもいいというような無意識の危うさが。曖昧に笑ってすべてを煙に巻きはぐらかしてしまう、昔と何一つ変わらないその穏やかな微笑みが。
目を離した隙に、どこか自分の知らない場所にいってしまうのではないかと。
捕まえておかなければまた消えてしまうかもしれない。そうして今度は、もう二度と会えなくなるかもしれない。
ケルシーが人知れずそんな不安を感じていたことをきっと彼女は知らない。
成長期の途中で間違って止まってしまったような幼い体をぼんやりと見遣る。
回復剤の多用で弱り切った内臓は既に正常な機能をしない。眠れば悪夢に魘され、食事をすれば吐き戻すせいで病的なほど細く、皮と骨だけのような体躯。
不完全な記憶と一度壊れた心を抱えて、彼女は死など怖くないというように微笑んでしまうようになった。
『…ねえ、ケルシー…このまま私達、逃げちゃおうか』
どこかへ逃げ出したいと、遠い日の彼女が記憶の端っこで膝を抱える。窶れ、焦燥しきったひどい顔を見せまいと隠しながら。
ケルシーの名前を何度も呼んだその声が泣いていたことなど知っていた。
終わりがほしいと縋ったその手を取ってやれなかった。囁くような弱音を掬ってやれなかった。
「……君をこんなふうにした責任は私が取る」
一度目は死にたいという言葉を取り上げた。逃げ場を潰した。二度目はきっともう、許せない。
けれど、その代わりに。
「地獄の底まで共にいよう」
ここが既にドクターにとっての地獄だということは百も承知だ。こんなものが慰めになるとも思わない。
けれど、ドクターがどんなふうになってしまっても、自分だけはその手を離さない。今度こそ絶対に。
「だから、意地でも死なせてやるものか」
傷付けることでしか救えないのだとしても、本当は傷付けたくはなかった。どうしてこうなったのかケルシーにはもうわからない。しかし方法など残されていなかった。
彼女に巣食う病を完治できないことが嫌になる。自分の言葉など届かないことを痛感させられるのが嫌になる。何よりも、彼女が一番ほしいものを与えてやれないことがたまらなく嫌になる。
───────けれど、私の命ある限り、君に死などくれてやらない。
死にたがるというなら何度でも救ってやる。どんな傷を付けることになっても、例えすべてを奪うことになってでも、何もかもを背負うから。
惨い執着だとわかっていた。どれだけ残酷なことかも。しかし、もうとっくに後戻りはできない。彼女の命を彼女だけの物にすることはできないのだ。
ケルシーは疲れきった顔に、それでも無理矢理に微笑みを浮かべた。その表情はどこか、ドクターが浮かべる穏やかな微笑とよく似ていた。
静寂は限りなく優しいまま、確実に朝へと向かっていた。ぴりぴりした夜の突き刺す寒さが和らいでいくのを肌が敏感に感じ取る。
小さく欠伸をこぼした。睡魔が忍び寄ってくる。まだやることは山積みだった。
しかし今日のドクターのオペと張り詰めていた神経が思ったより負担になっていたらしい。おまけにここのところろくに眠れていなかったこともあり、瞼はどんどんと重みを増していく。
普段なら鋼の意思で自室に戻るのだが、今日ばかりはドクターの眠るベッドに腕を置いた。彼女が起きないことはわかっている。万が一起きたところでどこへも行けないことだって。それでも傍を離れることはできない。
そっと顔を伏せ、鉛のように重い瞼を閉じる。
「おやすみ、カルディア」
もうずっと呼べていなかった彼女の名前が驚くほどするりと声になった。
本当はずっと呼びたかったのに意地を張った。もう二度と呼べないと思っていた、彼女の名前。
どんなものよりうつくしいその響きが、どうか、誰よりも死に急ぐ彼女の足枷となるように。
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