Lost and found
「……カルディア」
やさしい声がした。押し出したようにぎこちなくて、躊躇いがちに鼓膜を撫でる少し低めの音。鈍い耳の奥底でかすかな震えが響く。
意識の大半をどこかに置いてきたかのように曖昧な感覚の中、瞼は思うように持ち上がらなかった。
「カルディア」
耳に落とされる声音には隠し切れない疲弊の色が滲んでいた。
もう一度囁かれた声をゆっくりと反芻して、ようやくその耳慣れない音の連なりが自分の名前だと気付く。カルディア。確か、アーミヤがそう言っていた。誰に呼ばれることもないから忘れかけていたけれど。
窶れて弱り切った様子で、それでもひどく穏やかにそのひとは私を示す五文字をなぞった。ひとつひとつ、ゆっくりと。まるで大事なものに触れるかのように、怯えすら纏って。
(……いたい)
心臓に爪を立てられているようだ。
こんなふうに名前を呼ぶ誰かを、私は知らない。覚えていない。そのはずなのに、空っぽになった記憶の端っこで誰かが笑った気がした。
ひんやりと柔らかい肌の感触が首を這う。しなやかな指は細く華奢だが付け根に肉刺のかたさを感じる、鍛え上げられた手だった。頸動脈を掴むように辿り、骨の形をゆっくりなぞりながら上ってくると壊れ物に触れるように頬を包む。擽ったいのに心地良い。慎重な手つきで目の下を指の腹が労るように幾度も摩った。
ふ、と時折こぼれる吐息は確かに笑みを象っているのに。どうしてか、君が泣いてるような気がした。
(ああ、でも……君って誰だっただろうか)
まな裏で星のように瞬く銀色がちらついては闇に溶けていく。深い青が過ってすぐに散る。答えを手繰ろうとすれば柔らかな輪郭は形を結ぶ前に消えてしまう。
冷ややかな手指は何も答えず、ただ熱を確かめるように私の皮膚を撫でて、流れた髪を掬って耳にかけていく。
もどかしい。喉の奥がたまらなく疼いて熱い。その指も、息遣いも、鼻先を擽る髪の匂いも、この体のどこかが覚えていると告げているのに。
私は手を引くことも、表情を窺うことも、名前を呼ぶことさえも出来ないのだ。
◆
「……ん、」
重たい瞼を押し開くと燃えるような斜陽が目を焼いた。暗闇が弾けたと思ったら覚醒を促すように眩い光が薄い肉すら突き抜けて差し込んでくる。
どこだろうかとうっすら開いた目で辺りを確認すれば、見知った執務室のソファの上であることはすぐにわかった。浅く息を吐く。冷たい石櫃ではないことに安堵し、少しだけ脱力した。
なにか、夢をみていた気がする。なんだったのだろう。珍しく悪夢ではなかったのは確かなのだが、ひどい喪失感を感じる。気怠い頭の中で夢の欠片を辿っても、もう靄がかかったように不透明になってしまった。
「あれ……もう起きたのか、ドクター」
重たい身体を起こそうとすると、すぐ傍で声がした。きらきらと朝露に濡れたような銀糸を辿っていくと、秘書の小花衣が戦術書から顔を上げて目を瞬かせている。
「こはない……私、どれくらい眠って……」
「まだ十五分くらいしか経ってないっすよ。休んでてください」
ほら、とずり落ちたタオルケット…ではなく、彼女のコートを掛けてくれる。よくよく思い出すとソファに横たわった記憶はないから、恐らく机に突っ伏した私をここに運んでくれたのも小花衣なのだろう。
「……いや、十分休んだ。運ばせてすまなかったな、小花衣。コートもありがとう」
まだ頭が軋むような痛みがある。薬の副作用か寝不足か。思い当たる節がありすぎてよくわからないが、とにかく書類の束を思い出して首を振った。
起き上がって小花衣にコートを手渡すと、深い青の瞳が揺れた。形の良い眉が一瞬だけ苦く歪む。不思議に思って見つめるも、薄い唇はすぐに緩く綺麗な弧を描いた。見間違いだったのだろうか。
小花衣は「それじゃあ、コーヒーを淹れますね」となんでもないように呟いて腰をあげた。その顔に浮かぶのはいつもの人当たりの良い温厚な笑顔だ。やはり私の気のせいかもしれない。……けれど、どうしても何かが引っかかって咄嗟に手を伸ばした。
「……あ、」
漂う指先を掴んで思わず目を見開く。冷えた手の感触があまりによく肌に馴染んでいたから。
「……ドクター?」
動揺が透けて見える小花衣の声が、誰かの声と重なる。鮮烈な既視感が胸を刺す。薄い呼吸を繰り返すと、拍動が痛いほどに体を穿った。どく、どく、と血潮の音が煩い。
「小花衣、」
わからない。
知っているけれど知らない音の震えを口に出す度に鼓動が跳ねることも。呼び慣れないはずの独特な響きの名前は、けれど誰のものより滑らかに声になることも。
「君、が……」
「私が……?」
小花衣が首を傾げる。さらさらと流れる細い髪からほのかに甘いようなにおいが漂った。シャンプーの匂いなのか小花衣の匂いなのか判別はつかない。ただ鼻先をあまく擽る芳香に目眩がする。
手を取って名前を呼んだは良いけれど、何と言えばいいのだろう。言葉に詰まった私を、小花衣は心配そうな眼差しで見つめていた。
君が、何だっけ。私は何を言いたかったのだろう。何がしたかったのだろう。肌が汗ばむ。奥歯を噛んだ。なぜ焦燥に駆られているのかもまったく意味がわからない。
「……いや、何でもない」
しばらく考えて、結局、誤魔化すように首を振った。小花衣は怪訝そうな顔をして私を見下ろす。
「……やっぱりまだ横になってた方がいいよ。顔色が悪いし、汗かいてる。着替え取ってくるからちょっと待っててください」
「あ……ま、待って、小花衣。いいから……大丈夫だから、行かないで」
やんわりと指を剥がされそうになって、衝動的に小花衣の手を引いた。強く握って引き寄せると瞳が驚いたようにまあるくなる。
なんで、どうしてこんな真似。血の気が引いていくのに頭だけ茹だっているように思考が覚束ない。最後の方はもう無意識だったから何を口走っていたかも定かではなかった。
取り繕うための台詞は少しも浮かばない。私だって訳がわからないのだから小花衣はもっと困惑しているに違いないのに。
「……わかったよ。どこにも行かないから力を抜いてくれ。こんなに握りしめたらドクターの指が痛む」
けれど、小花衣はすんなり私の隣に座り直して私の指をほぐすように包む。呆気に取られて今度は私が目を丸くする番だった。
「私のコートで悪いけど、冷えるといけないんで羽織っててくださいね。落ち着いたら温かいもの淹れるから、ドクターは金平糖でも食べて休んでて」
されるがままにコートを着せられ、小花衣が片手でポケットから淡い色の砂糖菓子を当たり前のように取り出す様子をただ見ていた。
差し出された星の欠片を齧ると、その甘さに喉から空気が抜けるような心地がする。強張っていた体が緩んだ拍子に華奢な肩に寄りかかっても、小花衣は嫌な顔すらしなかった。
「……すまなかった。砂糖切れかもしれない。……だから、君の言う通りもう少しだけ休むことにする」
「はい、そうしてください」
「……君もだ。顔色が悪い。クロージャから仕入れた小魚のお菓子もあるから、小花衣も一緒に食べよう」
好きだって聞いたから、と付け足すと小花衣が涼し気な目元をきゅっと細めて照れくさそうに微笑んだ。小花衣は大抵笑っているけれど、こんなふうに笑うのは珍しいかもしれない。心拍が駆け足になるのになぜかひどく安心して私の頬まで緩んでいく。
夕陽に照らされた白磁の肌に長い睫毛の影が落ちる。伸びた髪は星の瞬きのように煌めき、深い海色の瞳が光を呑んで花のように綻んだ。目を奪われるとはこういうことなのかとぼんやり考える。心底、小花衣はきれいだと思った。
「でも……少しだけこのままで」
冷たい手と手じゃ体温を分け合うこともできやしないのに、離せない。子どもみたいだと思われるだろうか。それでもと、今度はそっと力を込めた。言葉にはできないままだったけれど、小花衣の手を離したくない。それだけは確かなのだ。
「小花衣」
確かめるように、小花衣の形を結んでなぞるように、名前を呼んだ。
「はい、ドクター」
「強く握ってすまなかった。……痛くないか」
「大丈夫ですよ、あれくらいじゃ痛みなんて感じません」
「……小花衣」
「どうしました、ドクター」
吐息が笑う。少し気恥ずかしくて長い指を掬うと付け根に肉刺のかたさを感じた。寄せた頬に感じる体温は薄いシャツ越しなのにひんやりとしている。種族の特徴だろうか。小花衣以外のエーギル人と触れ合ったことがないからわからないけれど。
「君の手はいつも冷たいな」
小花衣はどこもかしこも冷えているけれど、声すらも温度が低い。
「……ドクターもだろ」
でも、私を呼ぶその音は、きっと誰よりもやさしい声だった。
back/
top