わたしの春を青くしたひと

 湿度の高い風が吹き抜ける。夏が来る前の空気はただ蒸すばかりで、滲んだ汗を冷やすこともない。拭う気力もわかず、フェンスに凭れながらぼんやりと気の早い蝉しぐれに耳を傾けて、咥えたストローを噛んだ。
 部活のない日は屋上で暇を潰すに限る。冷暖房完備の図書室も捨てがたいけれど、溜まり場になっているため年がら年中人が多い。人の多い場所は苦手だ。よって、専ら暇潰し場所は人気のない屋上だった。

「…暑い。冷房のきいた部屋で金平糖を齧りたい」

 日陰にいるのに涼しさを感じない。手で煽いだところでぬるい風が肌を撫でるだけだ。まだ真夏でもないのに、とうんざりしながら雲ひとつない空を見上げる。

「帰るかい」

 待ち合わせをしているわけでもないのに毎回鉢合わせる先輩、もとい、モスティマの声も気怠げだ。

「帰らない」
「そこは即答なんだ」
「小花衣と帰るから」

 小花衣本人に待っててと言われたことはない。私が一緒に帰りたいから勝手に待っているだけであって。
 小花衣と手を繋いで、何でもない話をしながらコンビニに寄ったりスーパーで夜ご飯の材料を買ったり、そうして帰る道のりが好きだから。部室棟まで迎えに行くと必ずありがとうな、と微笑んで頭を撫でてくれるのも好き。それに、嬉しそうに犬歯をのぞかせる笑顔だとか、血液が沸騰してるんじゃないかと思うほど熱い手のひらを知ってひとりでなんて帰れるわけがない。自宅のキンキンに冷えた書斎の誘惑すら霞んでしまう。

「夏は部活の時間が延びるから嫌だよね」
「モっちゃん先輩は帰宅部でしょ」
「それが、家に帰るのもそう簡単じゃないんだよ」
「誑かした女の子に見つかったら刺されるから?」
「君は私をなんだと思ってるんだい?」

 取り留めのない会話を積み重ねていく。時間を持て余すなんて昔では考えられないことだったけれど、今はもうこの通り、慣れたものだった。
 日陰になる場所に座り込みこんな応酬をだらだら続けてはやニ時間が経過していた。部活の終了時間までもう少しだ。腕時計を確認してそわそわと落ち着かない気分になる。
 四本目の煙草に火をつけながら暑いとこぼすモスティマを横目に、気を鎮めるようにぬるくなったいちごミルクを啜った。視線に気付いて「吸う?」とライターと箱を差し出してくるのを、今日はいいと断る。
 こうやって気軽に法を犯すことも最近は気にならなくなってきた。毒されてきたかもしれない。でも未成年者本人には何の罰則もなかったから、罪にはならないんだっけ。どっちにしても今更か。
 それにしても暑い。紙パックの中身をごくごくと飲み干して、フェンスの隙間から眼下に広がるグラウンドを何とはなしに見下ろした。
 運動部は夏の大会を前にして普段よりも活動的になっている。強い日差しに焼かれながらも活発に蠢く小麦色の人影に目を細めた。屋上にまで響いてくる声は生命力に満ち溢れている。授業をこなすだけで体力が底を尽く身としては信じられないような光景だった。

「…毎日毎日こんなに長い時間、灼熱地獄で部活って…運動部はすごいな。日陰に居ても溶けそうなぐらいなのに」

 ぼやくと隣で紫煙をくゆらせていたモスティマが呆れたように笑って「君が虚弱すぎるんだよ」と口を挟んできた。真っ青な髪が湿気た風に揺れる様が涼し気で腹が立つ。睨みつけると笑顔で受け流されて更に腹が立つけど、何かを言おうという気にもならない。

「それに、こんな長袖なんか着てたらそりゃ溶けるって。いい加減脱ぎなよ、見てる私も暑くなる」

 くい、とカーディガンの裾を引っ張られる。確かに、夏用で通気性が良いとは言え、シャツ一枚でも汗を掻くところをあえて余計に着ていることになるのだから、当たり前に暑い。おまけにこの炎天下だ、通行人やクラスメイトもげんなりしたような目を向けてくることがあるのは知っている。
 モスティマの言うことも一理あるだろう。けれど、こればかりは譲れないと首を振った。

「名残かわからないけど、なにか羽織ってないと落ち着かないんだ」
「ああ…あの不審者コーデの?」
「…君までそう呼ぶのはやめてくれないか」

 冗談だと言うように片眉をあげて煙を吐くモスティマをじっとりと見つめた。
 大昔、ぶかぶかのコートとメット姿を一部の者が不審者コーデと呼んでいたけれど、あれはあれでそう悪くない。隔てるものがあるという安心感を得られる。見た目が少し不審なだけで。

「まあ、君は肌が弱そうだからね。紫外線はあまりよくないだろうし。とは言え、本当に暑苦しい格好だなあ…首元ぐらい緩めたら良いのに」

 モスティマの指先が襟元、ちょうど鎖骨のあたりに無遠慮に触れた。不意を突かれて避けることもできない。
 どきり、と心臓が跳ねる。

「……着崩すのも落ち着かないから」

 指はすぐに離れていったけれど、変に間が空いてしまった。意外にもするりと声が出たから良かったものの、おかしいと思われなかっただろうか。
 モスティマの表情をそれとなく窺うと、気付いていない様子で煙草の灰を落としている。胸を撫で下ろして小さく息を吐いた。

「つまんないなあ…。ま、ガードが固くて小花衣は安心だろうね」
「別にそういうのじゃない。モっちゃん先輩は緩めすぎだよ」
「ふふ、気になる?」

 ちら、と今度は自分の襟元に指先を引っ掛けてモスティマが薄く笑む。私とは正反対に緩めたネクタイと外された二つの釦の間から肌色がのぞいた。蠱惑的と言えばいいのだろうか。
 なるほど、こうやって数多の女子を引っ掛けたのかと感心はしても、白い肌だとか浮かび上がる鎖骨には何も感じない。

「全然」
「つれないね、ドクター。昔からそうだったけど」
「モっちゃん先輩がどうとかじゃなく、小花衣以外に性的魅力を感じないだけ」
「それ、私じゃなく本人に言ってあげなよ」
「君はエクシアに殴られた方がいいよ」

 モスティマは肩を竦め短くなった煙草を携帯用灰皿で揉み消して、誤魔化すように水を呷った。エクシアの話題は相変わらず弱点らしい。
 手の甲で額を拭う様子を見つめながら、今頃汗だくになって部活動に勤しんでいるであろう小花衣の姿を脳裏に描いた。
 体育館は屋内と言えど冷暖房がないからかなり暑いはずだ。またユニフォームで汗を拭ったりしてないといいんだけど。お腹が見えるから駄目だって言ったこと、ちゃんと覚えているだろうか。隙が多くて困ると怒ってもあまりピンときてない様子だったから少し不安だ。小花衣は自分が周りにどう見られているのかを分かっていない。無防備すぎる。小花衣は一等かわいい女の子なのに。
 はあ、と深いため息がこぼれる。瞼の裏で小花衣がのんきに笑っていた。眦をきゅっと細めて長い睫毛を伏せながら、唇を優しく緩めた笑顔。光の粒子が舞っているようにきらきらして見える。可愛い。でもムカつく。
 
(…声、聞きたくなってきた)

 考えていると会いたくなる。毎日一緒にいるのに離れた途端こうだ。そうして会えたら触れたくなって、触れたら離れがたくなる。無限ループだ。おかしくてつい吐息が漏れるとモスティマが「小花衣のこと考えてるね」と静かに微笑んだ。

「…そんなにわかりやすい?」
「小花衣のこと考えてるときはわかりやすいかな」
「ふうん…」
「ふふ、嬉しそうだね、ドクター?」
「…モっちゃん先輩って、いつまで私をドクターって呼ぶの」
「君がそのモっちゃん先輩呼びをどうにかするまで」

 素直に頷くのはなんだか癪だから答えなかったけど、悪い気はしなかった。きっとそれをモスティマもわかっているのだろう。瞳は穏やかに弧を描いたままだった。

「今日は髪、まとめてないんだね」

 それからふと、会話が途切れた。暑さに意識を遠くにやっていただけかもしれないけれど。
 しばらく沈黙を挟んで、モスティマはそういえばと呟いて私の毛先を掬った。

「…ん、まあ…」

 また心臓が跳ねる。モスティマの指はさっきと違いすぐには離れない。くるり、と白い指に髪を巻き付けるのを視界の端に捉えてどうしようかと思案する。

「もしかして、キスマークでもつけられた?」

 歯切れの悪い私の返答に、モスティマは揶揄うように口角を吊り上げた。
 当たらずとも遠からず、といったところで更に心臓が強く収縮する。これは変に誤魔化すより説明した方が良いかもしれない。

「いや、ちが」

 しかし遅かった。違う、と言い切る前にモスティマが髪を持ち上げる。呆気にとられて続く言葉が出てこない。「えい」と、やけに可愛こぶったような声と共に、蒸れた首筋を温風が撫でた。

「…あー…なるほど」

 一拍置いて出てきたのはそんな言葉だった。何がなるほどなのか。「確かに、これは首見せられないね」とひとりで頷く様子にため息を吐いた。

「……モスティマ、見過ぎ」

 項にくっきり浮かぶ噛み跡。もはや傷といっても差支えないだろう。
 小花衣には噛み癖がある。無意識なのか何なのよくわからないけれど、とにかく行為のときにだけ私の体のあちこちに歯を立てる癖が。昨日は私が煽ったせいで普段は恐らく避けていてくれたであろう項に思い切り噛み付かれたのだ。
 モスティマの深い青の双眸にまじまじと見つめられて落ち着かない。滲んだ汗が沁みる。恥ずかしいわけではないけれど。
 そもそもモスティマには小花衣とそういうことをする以前から貧乳のこととか、全然手を出してこないとか、処女のまま死ぬかも、なんて馬鹿みたいなことまで色々打ち明けているため今更だ。この前なんかやけに良い笑顔で持久力を上げるための本なんかを手渡された。一応読んだけれど、脳筋すぎて参考になるどころの話ではなかった。

「ごめんごめん、あんまり綺麗についてるからさ」

 一体どこに感心しているのだろうかと眉間に皺が寄る。
 手を離して定位置に戻ったモスティマは五本目の煙草を取り出しながら「小花衣も案外やるね」と呟いた。揶揄しているような響きはなく、微笑ましいというような表情だ。
 ゆったりと煙草を唇に挟み、ライターで火を付けようとする動作を眺めていたら、ふと手が静止した。

「ああ…でも、そっか、彼女ってエーギルの……」

 そうこぼして、モスティマは得心いったとでも言うように眦を緩めた。妙にすっきりした面持ちで先端に火を着ける。

「その様子だと、ドクターは知らないみたいだね」
「…なにが」

 勝手に納得しないでほしい。説明を寄越せと視線で要求すると、うーんとわざとらしく小首を傾げて見せる。名前を呼んで催促すると「そうだなあ」と仕方ないとでも言いたげな声音だ。

「じゃあヒントだけど…ドクター、胸元にも噛み痕ついてるよね」
「へ…」
「鎖骨あたりじゃないかな」

 当たっている。もしかして最初からバレていた?思わず胸元で手を握りしめるとモスティマが目を細めた。「そこ以外も噛まれてるよね」なんて確信したふうに言うものだから、慌てて服装に乱れがないか確認する。大丈夫。制服から見えている範囲にも何もない。項以外は。

「そんな顔しなくても、小花衣とは何もないさ。これはただ…いや、私の口から言うのは野暮ってもんだよ、ドクター」

 そう言われてもどんな顔をしているのかわからない。妬ましそうな顔でもしていたのだろうか。そもそも、野暮ってなに。何もかもが要領を得ない。というか、あれはただの癖じゃないの。エーギルがどう関係するのだ。
 色んなことが一気にこみ上げてくる。咄嗟に膝に顔を埋めるとモスティマがあはは、と笑い声をあげた。

「……それのどこがヒントなんだ」

 くぐもった声で文句を垂れた。頬が火照って、熱くて熱くて仕方ない。
 もう夕方なのに鳴り止まない蝉の声の隙間からふう、と煙を吐き出す音がする。もったいぶるような沈黙だ。

「私が言えるのはそれくらいかな。答えはこの後聞けばいいよ。…小花衣本人にね」

 モスティマが言い終えるのとチャイムが鳴り響くのは同時だった。まるで見計らっていたようなタイミングだ。部活動終了を知らせるそれが鳴り終わるのを待ってから顔をあげると、モスティマが「ようやくだね」と目線を合わせてくる。

「ほら、彼女を迎えに行ってあげなよ」
「言われなくてもそうする。…君も、たまにはエクシアを迎えに行ってあげたらどうなんだ」
「今日はソラ達とカラオケ行くって。部活終わりなのに元気だよね」

 そう言う君は隠居老人みたいだね、という言葉は飲み込んで鞄を手繰り寄せた。小花衣は片付けと着替えがあるから、まだ時間に余裕はある。
 鞄から制汗剤と日焼け止めを取り出した。まずシートタイプで汗を拭き取って、スプレータイプのものを噴射する。つくづく夏は面倒だけれど、小花衣に汗くさいと思われるのは嫌だから欠かせない。
 モスティマは煙草をふかしながら帰り支度をする私を見てにこにこしていた。生温い眼差しにすべてを見透かされているような気がして視線を逸らす。
 最後に衣服から出ている肌という肌に日焼け止めを丹念に塗り直して準備は完了だ。
 鞄を肩にかけて、紙パックのゴミを手にした。腕時計を確認すれば、次に鳴る完全下校のチャイムまではまだ十五分もある。歩いて部室棟に向かっても十分間に合うだろう。

「じゃあね、モっちゃん先輩」
「うん、またね」

 ひらひらと手を振るモスティマに手を振り返して背を向けた。
 日陰から出ると体が崩れていきそうな夕焼けに身を焼かれる。十八時をとうに過ぎているのにまだ陽は沈まないようで、とろけるような茜色が目を刺した。
 屋上扉を開けて階段を降りる。途中のゴミ箱で紙パックを捨てて、誰もいない渡り廊下を進んだ。相変わらず暑くて気怠くて体は重いのに、足取りが軽い。部室棟が近付いてくるともう殆ど早歩きみたいな速度で歩いていた。
 目的地に到着し、暫く待つとバスケ部とプレートが掲げられた部屋からぞろぞろと人が出てくる。シージやWに見つからないようにしなければと考えていると、人の波の中にお目当ての人物を見つけた。小花衣は一際目立つから、人混みの中でもすぐに見つけられるのだ。というか、小花衣以外に興味がないから目が向かない。
 紛れるようにして踏み出す。濡れたように煌めく銀糸を靡かせるその背中に追いついて、腕を引く。
 小花衣は果たしてどんな答えをくれるのだろうか。私の知らない君のことを、君の声で、君の言葉で教えてほしい。
 とくとく、心臓が鳴る。噛み傷が熱を持って疼くような心地がする。
 
「小花衣」

 でもまずは、君を迎える言葉が先だ。
 そうして、私にしか見せない笑顔を見せて、優しく頭を撫でて。
 今日も、手を繋いで帰ろう。

「迎えにきたよ」

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