残星を齧る日々
あ、とドクターが思った時にはもう手遅れだった。生温い熱をもった液体が胸部から大腿にかけて伝っていく感触に唖然とする。重力に従って落ちていくカップは瞬く間に中身を撒き散らして床へと転がった。
白い砂糖の粒と茶色い筋の垂れる足元を眺める。辺りに漂う芳ばしい香りが鼻先をくすぐった。
やってしまった。表情は変わらないが、吐き出された小さな溜め息は確かにそう告げていた。
「ドクター? 大丈夫か?」
カーペットが分厚いとは言え陶器の落ちる鈍い音はさすがに響く。手持無沙汰で今日も今日とてソファに座って窓辺を眺めていた小花衣だったが、僅かな物音を捉えるとすぐさまドクターに駆け寄った。
「問題ない」
そう呟くドクターは相変わらずの無表情だったが、取っ手を掴み損ねた形のままの指先とこぼれたコーヒーを見て小花衣は眉間を顰めそうになる。
問題しかないだろうと、喉までせり上がった言葉を吐き出さないように堪えた。誤魔化すように頬を緩め、もうぬるくなっているのは承知の上でひとまず火傷の有無を確認する。
「火傷は……なさそうだな。とりあえず、ドクターに怪我がなくて良かった。じゃあ、片付けはやっておくんで、ドクターはシャワーでも浴びてきてください」
「……それくらい自分でできる」
異常がないことを確認した後、小花衣が当然のように掃除をしようとするもドクターは不満そうにその手を止める。
子ども扱いされていると思っているのだろうか。小花衣は思案しつつ、にこりと微笑んで首を振った。
「大丈夫だから。家事は得意なんだ、私に任せてくれ」
「……私は……君を召使代わりに秘書にしているわけじゃない」
少しの間を置いて返ってきたドクターの声音に翳りを感じて、違和感が胸を駆けた。
しかし交差する瞳はいつも通り凪いだまま。唇は何も告げない。
気のせいだろうと、小花衣はシャツを斑に染めるドクターを「風邪ひかないうちに」と備え付けのシャワールームに押し込んだ。
「……召使代わりじゃない、か」
どんな理由であれ、ドクターの傍にいられるのであれば構わないのにな、と小花衣はひとり呟く。
拾いあげられることなく声は静寂にとけて消えた。
少しすれば、シャワールームから水音が微かに聞こえてくる。
物思いに耽りそうになる頭を切り替え、ドクターがあがる前にと小花衣は掃除を開始した。
カップを拾い上げ、罅も欠けもないことを確認してから流しに置く。次いで床掃除に邪魔なコートを脱いでソファに掛ける。
吸水性の高いタオルでカーペットに染みたコーヒーを丁寧に拭き取っていくが、この様子では裏まで染みているだろうことは明確だった。
おまけに溶け切っていない砂糖が長い毛足に絡みついている。
「……また量が増えたな」
夥しい砂糖の量に、小花衣は思わずぼやいて溜め息を吐いた。
掃除が苦だとは思わないが、ドクターの甘党の加速はどうにかならないものかとは思う。
こんなのはもはや砂糖を啜っているようなものだった。
掃除が粗方片付く頃にはドクターもシャワールームから出てきた。
およそ十五分ほど。相変わらずの速さに小花衣は苦く笑う。
コートも濡れていたのか、白いロングシャツ一枚というこざっぱりした出で立ちだ。
毎度のことだが、ドクターの体躯が小さいためにもはやワンピースのようになってしまっている。
こうして見ればただの子供にしかみえないのに、と小花衣は僅かに目を細めた。
「……小花衣、すまなかった」
掃除を終えて手を洗う小花衣の傍におずおずとドクターが寄ってくる。しっかりコーヒーの匂いは取れたらしく、石鹸の柔らかな香りが鼻腔を掠めた。
「君の気遣いを無下にした挙句に後始末までさせて」
一息ついたらどうだ、と淹れたコーヒーをこぼしたことを気に病んでいるのだろうか。
普段は跳ねている髪が垂れているのも相まってか、表情はいつもと同じなのにこころなしかしおらしく見えて、小花衣は薄く笑みを浮かべた。
「気にするな、ドクター。それより、今日はもう休んだ方がいいですよ」
微笑む小花衣をぼうっと見上げ、ドクターは何かを考え込むような素振りを見せた。
濡れた前髪が流れて右目を覆うガーゼが露わになる。
胸の奥が縮むような心地に小花衣の眦が瞬時に強張るもドクターは気付かない。
小花衣がまた何か小難しいことを考えていそうなドクターの表情を眺め、この分ではやはり今日も言うことなど聞かないだろうと瞼を伏せた瞬間だった。
「そうだな」
珍しく素直に頷くドクターの言葉に小花衣は耳を疑った。
休息の概念すら失くしたような仕事人間が、一体どうしてと。
「けれど、それを言うなら君もだろう。顔色が悪い上に隈もひどい。休息はしっかり取って」
「あ、ちょ……カ……っ、ドクター?」
「君も一緒に休むというなら、私もそうする」
洗い終えた小花衣の手を小さな手が掴む。
不意のことで思わずドクターの名前を呼びそうになるが、寸でのところでどうにか飲み込んだ。
ひとのことを言っている場合ではないだろう、と青白い顔とこびりついた隈を横目に胸中で呟く。
しかしドクターの指摘も尤もだった。小花衣も自覚があるために言い返せない。
「小花衣」
戸惑いながらもドクターの後に続けば、ソファの前でぴたりと足を止めた。
そのまま窓側に腰を降ろすと、隣をぽんぽんと軽く叩く。ここに座れと言っているのだろう。
小花衣が大人しく少しばかり距離をあけて座ると、ドクターがその距離に怪訝そうにしてぴったりと身を寄せた。
「無理に眠れとは言わない。目を閉じるだけでも良いから」
「ドクターは眠らないんですか」
「……君はいつも他人のことばかりだな。少しは自分を気に掛けたらどうだ。医療部が心配していた」
いつになく饒舌なドクターだったが、眠らないのかという小花衣の問いには答えない。
医療部が、という部分を反芻して小花衣は幼いつむじを見つめる。
「……私も心配だよ、小花衣」
見透かしたようなタイミングだった。声と共に全身に重みが掛かる。
身を預けるように脱力したドクターが小花衣の手を取って、そっと、壊れ物に触れるように包み込んだ。
小花衣は静かに息を飲んだ。
記憶を失くしてからというものこういった行動をドクターは度々取る。
まるで昔のように屈託なく、迷いなく小花衣に触れて気を許したように身を預けるのだ。
瞼の裏にいつかのドクターの姿が過った。見下ろす少女は小花衣を見てはいないのに、あどけない両目がこちらを心配するように見上げている。
「だから、私の秘書でいるのが君の負担になるのなら他の者にかえよう。……何しろ私はこんなふうだから。幸いにも声をあげてくれている者もいる。気兼ねなく言ってほしい」
けれど幻影はすぐに消えていく。
暮れた陽に照らされたドクターの姿形を網膜が正しく結像して、小花衣は引き結びかけた唇を無理矢理綻ばせた。
「……声をあげてる他の奴らには悪いんですが、私が秘書を降りることはありませんよ。前にも言いましたけど、どこにも行きません」
「……そうか。……うん、良かった」
ドクターが、そこで漸く小花衣を見上げた。口元に薄く微笑みを湛えながら。
記憶喪失後に僅かに取り戻した人間性は、ゆっくりではあるが日々増している。淡々とした言葉に滲んだ感情を掬い取れるようになった。
きっとそれらは喜ぶべきことなのだろう。
けれど、小花衣は心臓に爪を突き立てられているような心地に奥歯を噛んだ。
「はい。私はドクターの傍にいます」
どうにか微笑み返すとドクターは安堵したように静かに目を閉じる。
小花衣はソファに掛けたままの自分のコートをドクターに被せて、どうせお互い眠れやしないことをわかっていながらもお休みなさいと呟いた。
手は繋がれたままだ。
昔と変わらない、けれどどこか違う冷たい手は小花衣の手を包んで離さない。
少しの間逡巡する。暫くした後にやわく、そっと握り返して、小花衣もようやく瞼を閉じた。
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